窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

第7回燮(やわらぎ)会に参加しました

2012年09月01日 | 交渉アナリスト関係


  9月1日、日本交渉協会の第7回燮(やわらぎ)会に参加しました。今回は、国際基督教大学(ICU)名誉教授、わが国における交渉学の創成者であり、日本交渉協会の設立者でもある、藤田忠先生を囲んでの懇談会でした。

  前半部は、藤田先生より日本に交渉学を紹介するまでの経緯や、エドウィン・O・ライシャワー博士(元駐日大使)との親交、そして「ライシャワー・アカデミー」設立構想に関するお話を伺いました。

  藤田先生は1931年生まれ。元々は一橋大学で意思決定論を専攻されていました。同大学院時代の指導教授が国際基督教大学の学長に就任したのが切欠で、同大学の教授に就任。その時、ライシャワー博士と親交のあった武田教授の勧めもあり、博士が所長を務めるハーバード燕京研究所の研究員となりました。最初は意思決定論の研究で渡米されたわけですが、同研究所の指導教授が交渉学という当時全く耳慣れない学問の研究をはじめ、それが交渉学との出会いとなりました。

  当時から日本人の交渉下手(必ずしも交渉下手ということではないのでしょうが、異文化の交渉スタイルに対する認識が低すぎるということなのでしょう)を感じておられた藤田先生は、交渉学の日本における普及の重要性を痛感され、専攻を転向してまで交渉学を研究。帰国した1975年、日本で初めてハーバード流交渉術を紹介されました。今やビジネス・スクールで必修となっている交渉学も当時は全く理解されず、読心術のようなものと誤解されることもあったようです。

  その後、日本交渉学会を設立。さらに教育機関として日本交渉協会を設立されました。設立にあたり、ライシャワー博士に名誉会長就任を快諾していただきました。因みに、燮会の「燮」とは、対立を話し合い、すなわち交渉によって和らげるという交渉学の理念を表しています。

  そのライシャワー博士ですが、元駐日大使として、敗戦後の日本の国体維持や現在に列なる日米関係の礎を築くなど、わが国に計り知れない貢献をされた方です。1989年に北海道で行われた学会の帰り、藤田先生はライシャワー博士にホテルに呼ばれました。その時、『地球社会の教育』という本をいただくと共に、その本にサインをいただいたそうです。そのサインには、博士の署名に加え「藤田忠 共同の理念のための活動家」というメッセージが添えてありました。その翌年、博士は79歳でご逝去されました。『ライシャワー自伝』を読むと分かりますが、ハーバード流交渉術のロールモデルでもあられた博士の意思を後世に継いで行くため、博士の名を冠した人材育成機関が必要であると藤田先生は感じ、それが今回の「ライシャワー・アカデミー」設立構想に繋がったということです。

ライシャワー自伝
エドウィン・O. ライシャワー
文藝春秋




  ご講演が終わり、後半は先生を囲んでの懇親会となりました。先生は、ライシャワー博士より「日本人は隣にいる人と話をしない。それによって失われる情報は非常に多い」と言われたことがあるそうです。それがあってか、先生は電車の中で隣に座った方によく声を掛けられるそうで、「ライシャワー・アカデミー」の発起人に名を連ねておられる錚々たる方々の中には、そうして偶然知り合った方もおられます。齢80を重ねられ、なお意気盛んな先生を拝見し、まだまだ修行はこれからであると感じた次第です。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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