正式名称は
生誕100年/追悼 彫刻家・佐藤忠良展-“人間”を探究しつづけた表現者の歩み
さて、このテキストは本来、昨年8月、札幌から北見へドライブする途中に旭川に立ち寄った際の見聞をつづった一連のエントリのひとつにおさまるべきものである。
しかし、いいわけがましくなるが、美術館で買ったはずの図録を見ながら文章を書こうとしたら、図録が見当たらない。
そうこうしているうちに、書く時期を逸してしまった。
情けないことに、筆者には、そういう、書く時機を逸してしまって結局アップされていない原稿が非常に多い。
ギャラリーでの展覧会はごく少なく、美術館の展覧会が大半である。
おそらく、美術館だと、しっかり調べて長文をアップしようと意気込んで、かえって執筆が遅れるのであろう。
また、書かないことによって出品作家がガッカリするという懸念がほとんどないため、ついつい後回しにしてしまうという事情もありそうだ。
それはさておき、佐藤忠良氏(1912~2011年)である。
戦後日本を代表する具象彫刻家のひとりであること、小学校時代を夕張で過ごし旧制札幌二中に通ったこと、誰もが知る「大きなかぶ」のさし絵を描いたこと、札幌・大通公園や旭川・買物公園など道内各地に野外彫刻があること、札幌芸術の森に「佐藤忠良こどもアトリエ」という施設があることなどは、筆者があらためて書かなくても、読者がご存じであろう。
展覧会は、代表作の彫刻はもちろん、ほかの仕事についても数多く集めていた。
各種の文学賞などの正賞となる小品や、紙芝居、メダルなど、とにかくたくさんある。
これは、たとえば「きょうは気分が乗らないからサボろう」とか「最近スランプで全然制作していない」といった態度ではとうていなしえないような、作品の量である。
とにかく、どんどん手を動かしていた人なのだろう。
この勤勉さには、率直に頭が下がった。
ところで、彼のところにかくも続々と註文が舞い込んだのは、彼の作品の人気ゆえだろうが、その秘密はどこにあるのだろう。
これは筆者の持論なのだが、多くの芸術・表現は、シンプル→複雑という発展過程をたどる。
古代ギリシャ彫刻しかり、ルネサンス絵画しかり、ロックミュージックしかり。お笑いもテレビゲームもそうだ。
バッハやモーツァルトと、ショスタコーヴィチやリヒャルト・シュトラウスを比べると、明らかだと思う。
あまり複雑になると「マニエリスム的」といって、そのひねりすぎが嫌われるが、かといって、シンプル一辺倒では飽きてしまうしバリエーションが少ない。
たぶん、シンプルと複雑の中間ぐらいが、鑑賞者のもっとも気持ちよく感じられる表現なのではないか。
この理屈を佐藤忠良さんに当てはめると、近代彫刻はロダンからスタートした。
それからだんだん、作者の個性が出てきて多様な表現が生まれ、複雑さが増していったと思う。
佐藤忠良さんの作風は、筆者の仮説でいえば、「シンプルと複雑の中間」に当たるのではないだろうか。
つまり、ちょうどいいぐらいに複雑で、個性があるのだ。
もうひとつ。佐藤忠良さんで不思議なことがある。
それは、彼のシベリア抑留である。
香月泰男や石原吉郎ら、シベリア抑留を体験した芸術家の多くは、帰国後の作品に体験が深い傷を刻んでいる。それだけつらい日々だったということだろう。
ところが、佐藤忠良の作品には、驚くほどシベリアの影がない。
抑留体験者は往々にしてソ連嫌い、左翼嫌いになるが、佐藤忠良は日教組の求めに応じて紙芝居を作るなど、死ぬまで進歩派陣営にくみしていたようである。
この理由はいつか知りたいと思っている。
2012年7月4日(水)~8月26日(日)
道立旭川美術館(旭川市常磐公園)
関連ファイル
佐藤忠良「鶴」 釧路の野外彫刻(30)
彫刻家・佐藤忠良さん死去
「気どったポーズ」(網走)
「道東の四季・夏」(釧路)
「女・夏」(札幌芸術の森)
「緑」(新千歳)
■札幌第二中学の絆展 本郷新・山内壮夫・佐藤忠良・本田明二(2009年)
生誕100年/追悼 彫刻家・佐藤忠良展-“人間”を探究しつづけた表現者の歩み
さて、このテキストは本来、昨年8月、札幌から北見へドライブする途中に旭川に立ち寄った際の見聞をつづった一連のエントリのひとつにおさまるべきものである。
しかし、いいわけがましくなるが、美術館で買ったはずの図録を見ながら文章を書こうとしたら、図録が見当たらない。
そうこうしているうちに、書く時期を逸してしまった。
情けないことに、筆者には、そういう、書く時機を逸してしまって結局アップされていない原稿が非常に多い。
ギャラリーでの展覧会はごく少なく、美術館の展覧会が大半である。
おそらく、美術館だと、しっかり調べて長文をアップしようと意気込んで、かえって執筆が遅れるのであろう。
また、書かないことによって出品作家がガッカリするという懸念がほとんどないため、ついつい後回しにしてしまうという事情もありそうだ。
それはさておき、佐藤忠良氏(1912~2011年)である。
戦後日本を代表する具象彫刻家のひとりであること、小学校時代を夕張で過ごし旧制札幌二中に通ったこと、誰もが知る「大きなかぶ」のさし絵を描いたこと、札幌・大通公園や旭川・買物公園など道内各地に野外彫刻があること、札幌芸術の森に「佐藤忠良こどもアトリエ」という施設があることなどは、筆者があらためて書かなくても、読者がご存じであろう。
展覧会は、代表作の彫刻はもちろん、ほかの仕事についても数多く集めていた。
各種の文学賞などの正賞となる小品や、紙芝居、メダルなど、とにかくたくさんある。
これは、たとえば「きょうは気分が乗らないからサボろう」とか「最近スランプで全然制作していない」といった態度ではとうていなしえないような、作品の量である。
とにかく、どんどん手を動かしていた人なのだろう。
この勤勉さには、率直に頭が下がった。
ところで、彼のところにかくも続々と註文が舞い込んだのは、彼の作品の人気ゆえだろうが、その秘密はどこにあるのだろう。
これは筆者の持論なのだが、多くの芸術・表現は、シンプル→複雑という発展過程をたどる。
古代ギリシャ彫刻しかり、ルネサンス絵画しかり、ロックミュージックしかり。お笑いもテレビゲームもそうだ。
バッハやモーツァルトと、ショスタコーヴィチやリヒャルト・シュトラウスを比べると、明らかだと思う。
あまり複雑になると「マニエリスム的」といって、そのひねりすぎが嫌われるが、かといって、シンプル一辺倒では飽きてしまうしバリエーションが少ない。
たぶん、シンプルと複雑の中間ぐらいが、鑑賞者のもっとも気持ちよく感じられる表現なのではないか。
この理屈を佐藤忠良さんに当てはめると、近代彫刻はロダンからスタートした。
それからだんだん、作者の個性が出てきて多様な表現が生まれ、複雑さが増していったと思う。
佐藤忠良さんの作風は、筆者の仮説でいえば、「シンプルと複雑の中間」に当たるのではないだろうか。
つまり、ちょうどいいぐらいに複雑で、個性があるのだ。
もうひとつ。佐藤忠良さんで不思議なことがある。
それは、彼のシベリア抑留である。
香月泰男や石原吉郎ら、シベリア抑留を体験した芸術家の多くは、帰国後の作品に体験が深い傷を刻んでいる。それだけつらい日々だったということだろう。
ところが、佐藤忠良の作品には、驚くほどシベリアの影がない。
抑留体験者は往々にしてソ連嫌い、左翼嫌いになるが、佐藤忠良は日教組の求めに応じて紙芝居を作るなど、死ぬまで進歩派陣営にくみしていたようである。
この理由はいつか知りたいと思っている。
2012年7月4日(水)~8月26日(日)
道立旭川美術館(旭川市常磐公園)
関連ファイル
佐藤忠良「鶴」 釧路の野外彫刻(30)
彫刻家・佐藤忠良さん死去
「気どったポーズ」(網走)
「道東の四季・夏」(釧路)
「女・夏」(札幌芸術の森)
「緑」(新千歳)
■札幌第二中学の絆展 本郷新・山内壮夫・佐藤忠良・本田明二(2009年)