福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

第八、 即身成仏章(「真言宗義章」真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・9

2019-01-09 | 頂いた現実の霊験

第八、    即身成仏章(「真言宗義章」真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・9

(真言宗は即身成仏させる教えである。真言の即身成仏とは一念一時一生の修行に依って無量の福智を具足し凡夫のままで大日如来の果徳を成ずるものである)

凡そ大乗佛に権・実、顕・密の別ありと雖もその大宗とするところはすべて無上菩提を成ずるにあり。無上菩提を成ずるの道一つならず。随って又、遅速、勝劣重々不同なり。三乗教(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)は自ら遠勤作佛を本旨とすれども、一乗教(仏の真実の教えは絶対平等であり、それによってすべての人が成仏できると説く教法。教法を悟りの彼岸に運ぶ乗り物にたとえた語。法華経を中心に置く天台宗で特に強調)は盛んに真如縁起、融通無碍の理(一切は真如からの縁に従って顕現しているとする考え)を談じて頓成を本旨とす。しかるに其の実義を尋ぬるに是れ唯だ円融門に約する理談の辺(法界が円融無礙であると考えて、「初発心時便成正覚」というように、行者が修行階梯を示す四十二位の一つの位に達したとしても全ての位に達した同じとするもの。)にして若し実修門に就かば必ず三劫を経て成仏すといふに帰す。馬猛菩薩の大乗起信論には総じて顕教の成仏の時分を、「一切の菩薩は皆な三阿僧祇劫を巡しを以て」(大乗起信論に「或示超地速成正覺。以爲怯弱衆生故。或説我於無量阿僧祇劫當成佛道。以爲懈慢衆生故。能示如是無數方便不可思議。而實菩薩種性根等。發心則到。所證亦等。無有超過之法。以一切菩薩皆經三阿僧祇劫故。但隨衆生世界不同。所見所聞欲性異。故示所行亦有差別」)と判釈したまへり。しかるに真言密教は専ら即身成仏の旨を談ず。即身成仏は一念一時一生の修行に依りて無量の福智を具足し凡夫有漏の肉身を転ぜずして大日法身無上の果徳を成ずるの義なり。故に大日経には「真言門に菩薩の行を修行する諸々の菩薩は無量無数百千倶胝那由他劫に集積せる無量の智慧を具に諸行を修する無量の智慧方便とて皆悉く成就す」(大毘盧遮那成佛神變加持經卷第一入眞言門住心品第一に「眞言門修行菩薩行諸菩薩。無量無數百千倶胝那ゆ多劫。積集無量功徳智慧。具修諸行無量智慧方便。皆悉成就」とあり)と説き、大妙金剛経には「肉身を転ぜずして無漏の果を得」(大妙金剛大甘露軍拏利焔鬘熾盛佛頂經には「常於自心觀惡字。而成佛形量盡虚空無有邊際。迴然清淨得證佛身。無有生死不轉肉身得無漏果。常於十方世界教授諸二乘佛及一切有情。隨意自在説一切愈誐隨機應化。此名修三摩地法悉地・・」とあり)と説き給へり。両部大経の始中終すべてこの即身成仏の理趣を説き給へるに外ならず。これ実に自宗不共の深旨にして顕教には更に通ぜざる所なり。即身成仏義の中に広くこの義を示し給ヘリ。彼の中に二頌八句の文を建立して両部大経の奥義八祖相承の深旨を悉く該摂せしめ給ふ。

「六大無礙にして常に瑜伽なり(体)。(宇宙の構成要素たる六大は溶け合っていて無始無終である)

四種曼荼各不離(相)。(この六大が溶け合って流転する宇宙の姿に四種類の意味が出る)

三密加持すれば速疾に顯はる(用)。(仏の身口意と衆生の身口意が一致すれば即成仏する)

重重帝網なるを即身と名つ゛く(無礙)。(万物は重々無尽に溶け合っている、衆生と佛も同じである)

法然に薩般若を具足して、(一切衆生も天然に成仏する一切智をもっている)

心數心王刹塵に過ぎたり、(心もその働きも無尽である)

各々五智無際智を具す。(一切衆生の無尽の心もその働きも大日如来の五智を相互に有する)

圓鏡力の故に實覚知なり。(この智慧は大円鏡がすべてを映すように宇宙の真理を写し出し即身成仏させる智慧である)」

大師自らこの文を分かちて初めの第一頌(六大無礙にして常に瑜伽なり(体)四種曼荼各不離(相)。三密加持すれば速疾に顯はる(用)。重重帝網なるを即身と名つ゛く(無礙))は「即身」の二字を歎じ、次の一頌(法然に薩般若を具足して、心數心王刹塵に過ぎたり、各々五智無際智を具す。圓鏡力の故に實覚知なり)は「成仏」の両字を歎ず。初めの中に第一句は体、第二句は相、第三句は用、第四句は無礙なり。

後の頌の中に第一句(法然に薩般若を具足して)は法佛の成仏をあげ、第二句(心數心王刹塵に過ぎたり)は無数を表し、第三句(各々五智無際智を具す)は輪円を顕し、第四句(圓鏡力の故に實覚知なり)は所由を出す

と科して略して其の大体を示し給へり。当に知るべし。

初めの一頌 (六大無礙にして常に瑜伽なり(体)。(宇宙の構成要素たる六大は溶け合っていて無始無終である)四種曼荼各不離(相)。(この六大が溶け合って流転する宇宙の姿に四種類の意味が出る)三密加持すれば速疾に顯はる(用)。(仏の身口意と衆生の身口意が一致すれば即成仏する)重重帝網なるを即身と名つ゛く(無礙)。(万物は重々無尽に溶け合っている、衆生と佛も同じである))は、体(本質)・相(相貌)・用(働き)の三大円融の理に依るがゆえに衆生身即仏身なる所以を示し、次の一頌(法然に薩般若を具足して、(一切衆生も天然い成仏する一切智をもっている)心數心王刹塵に過ぎたり、(心もその働きも無尽である)各々五智無際智を具す。(一切衆生の無尽の心もその働きも大日如来の五智を相互に有する)圓鏡力の故に實覚知なり。(この智慧は大円鏡がすべてを映し出すように宇宙の真理を写し出し即身成仏させる智慧なり))は一心本具の仏智を開発する成仏の境を明かすなり。

「六大無礙にして常に瑜伽なり」とは、六大とは、地・水・火・風・空・識これなり。大日如来、自性法界体性三昧の真言を説いて曰く、「あ・び・ら・うん・けん」と。本不生(あ)・離言説(び)・離塵垢(ら)・離因果(うん)・等虚空不可得(けん)・了別不可得(うん)は、次の如くこの文字の字義にしてこれすなわち諸法の実相・法然の真理なり。顕教はこの真理を認めて唯だ言断心滅の空理とのみ思へるは、浅略方便の教法なるが故也。この真理は無色無彩の空理には非ず、地・水・火・風・空・識六大一実の体なり。六字の真言(あ・び・ら・うん・けん・うん)は次の如くこの六大(地・水・火・風・空・識)の種子なり。この六大の形色をば,方・丸・三角・半月・円形なり。その顕色をいえば黄・白・赤・黒・青なり。その性徳をいはば空・湿・煗(なん、あたたか)・動・無礙・了別なり。またこの六大のなか前五大(地・水・火・風・空)は色法(物質)、第六の識心は心法なり。色心異なりといえどもその体性は本より同なるゆえ色即心、心即色にして無礙無障なり。この如くの六大は本来不生不滅にして法界に周遍し十界の有情非情悉くこれより縁起せざるはなし。之を法界の体大といふ。しかるに諸法は皆六大より縁起すと言はば六大先にありて諸法後にあり、納生と所生との間に自ら前後の次第あるように思ふべけれども、実には能所を離れたるうえの能所なれば、二者ともに本来不生にして同時不離なることたとへば日月と光明との間に前後の次第なくして而も自ら能所の別あるがごとし。この故に諸法の全体即六大、六大の全体即諸法なり。要するに六大は色心一如の法体なれば人に就きていはば即ち毘盧遮那法身如来なり。十界の諸法はみなこの六大法身の所生にしてその体性一味平等なるがゆえに本来常住不変の実際に住して衆生と仏身と互いに相応渉入せり。故に無礙常瑜伽といふなり。

次に「四種曼荼各々不離」とは、六大所成の十界万法にして之を相大といふなり。

曼荼羅といふは輪円具足の義なり。既に六大法身なり。縁起するところの諸法なれば事事物物に法身如来無尽荘厳の徳を輪円具足せざるはなし。この故に諸法おしなべて曼荼羅と言ふなり。この曼荼羅を類別して大・三・法・羯の四種となす。

・大曼荼羅とは一一の佛菩薩の相好の身、および其の形像を彩画する等これなり。

・三昧耶曼荼羅とは、三昧耶身は内証本誓の義なり。一一の佛菩薩の内証を示さんがために御手に持したまへる剣・輪宝・金剛蓮華等の類または御手に結び給へる種々の印契もしくはこれらを図絵するもの等是なり。

法曼荼羅とは一一の佛菩薩の種子、真言これなり。

羯磨曼荼羅とは羯磨とは威義事業の義なり。諸尊の坐立、進止、歓喜、忿怒等の種々の威義事業の相および土木金石の類を以て造られたる諸尊の形作これなり。

凡そ仏智の照らすところは上仏界より下捺落迦界に至るまで宛然としてこのごとくの四種曼荼羅なり。四種曼荼羅一一の量、無量無辺なること虚空の如く而も一曼荼羅に即して三種の曼荼羅を具し、仏界の四曼に即して衆生界の曼荼羅を具し、衆生界の四曼に即して仏界の四曼を具し、これは彼を離れず、彼はこれを離れず、一多相即し挙一全収す。故に各々不離といふ。

次に三密加持即疾顕とは相大に具する所の身口意三密にしてこれすなわち法界の用大なり。若し浅略の説に依らば法身如来の三密は微細にして法界に遍じ因人知解すること能わざれば三密といふべけれども衆生の三業は妄想戯論の業用なれば三業とのみいふべく三密とはいふべからず。しかるにその実相を観ずるに衆生の色心は六大四曼の當相にして法身如来の全体なり、したがって其の身口意の業用も直に法身如来の平等の三密なり。但し衆生は自ら迷ひて之を知らざるのみ。加持といふは往来渉入の義なり。法界の体性、無礙融通するがゆえに万差の諸法もまた互具円融せり。体相即に融通し輪円するがゆえに其の業用もまた互いに往来渉入する事自在なり。このゆえに吾ら若し一旦発心して法身如来に帰依し真言三昧門の観行に依りて如実に修行するときは生佛も三密加持するがゆえに肉身に即して忽ちに本有の三身を顕現することを得べし。故に金剛頂経にいわく「三密の金剛をもって増上縁となし、能く毘盧遮那三身の果位を証す」(金剛頂瑜伽金剛薩埵五祕密修行念誦儀軌の最後に「大方便者三蜜金剛以爲増上縁。能證毘盧遮那清淨三身果位」とある)

次に「重々帝網即身」とは体相用の三大、いずれより言ふとも衆生身即仏身、仏身即衆生身にして相即自在なることたとえば帝網の重々無尽に無礙するがごとし。この如く吾等の即身は実に甚深微妙にして法界曼荼羅の妙作なりといふ義これなり。以上は初めの頌の大意なり。

「法然具足薩般若」とは薩般若は一切智智なり。顕密の所談は一箇の無分別よく万境を縁ずるゆえに一切智智といふ。密教の所談はこの如くに非ず。五智、三十七智、百八智、乃至五億倶胝十仏刹微塵数の智慧をいふ。この智慧は無色無形に非ず。色心一如の体なるがゆえに。これ五佛、三十七尊、百八尊、乃至不可説微塵数の諸尊なり。一切衆生は法然にこの如く曼荼羅を具足せり。故に蓮華三昧経にいわく「本覚心法身の常に妙法の心蓮台に住し給へるを帰命し奉る、本来三身の徳を荘厳し三十七尊心城に住す。普門塵数の諸三昧、因果を厭離して法然に具し、無辺の徳海本より円満す」と。(即身成仏義に「無障礙經云 名蓮華三昧經 歸命本覺心 法身。常住妙法心蓮臺。本來莊嚴三身徳。三十七尊住心城。普門塵數諸三昧。遠離因果法然具。無邊徳海本圓滿。還我頂禮心諸佛。」とあり)

「心数心王過刹塵、各々具五智無辺際」とは一切智智各々に一切智智を具して無尽無際なり、といふ意なり。「円鏡力故実覚智」とは若し人、修行して無始の無明を離れて彼の本有の仏智を証得したらんには生死涅槃に大自在を得、大神通力を具し所為の妙業、意に従ひて成ぜずといふことなし。しかしてこの仏智は高く法界の頂に懸かりて宛然として諸法の実相を照らして了了分明なること譬へば高台の明鏡の中に一切の色像を現ずるが如し。之を実覚智と名つ゛け又は無上の仏果と云ふ意なり。

是に因りてこれを見れば即身成仏に自ずから三重の次第あり。

・謂く凡身の当体に無尽の徳を具するゆえこの義によれば本有の位いおいて已に即身成仏セリ。(理具の即身成仏)

・次に発心修行する時は加持力に依るがゆえに念念に無明を離れて本有の佛、次第に顕現す。是すなわち修行位の當処亦即身成仏なり。(加持の即死成仏)

・次に修行位成就して本有の荘厳全く現前するに及びては是れ即ち果位の即身成仏なり。(顕得の即身成仏)

因果始中終皆即身成仏を出でず。是すなわち凡聖不二の実義なり。夫れこの三重の成仏を具し給える人証を求むれば高祖大師その人なり。凡そ修行の要は理具の宝蔵を信じ、精進修行して速疾に無尽の宝財を受用するにあり。高祖大師の曰く「既に狂酔して三界の獄にあり、熟眠して六道の藪に臥するを知る、なんぞ神通の車を駈けて本覚荘厳の床に帰せざらん」と。(大師の「三昧耶戒序」に「既知狂醉在

三界之獄。熟眠臥六道之薮。何不驅神通之車速歸本覺莊嚴之床。」とあり)(『金剛頂経』に「自性所成の眷属金剛手等の十六大菩薩、乃至各各に五億倶胝の微細法身の金剛を流出す。法然と言うは、諸法は自然に是の如くなることを顕わす。具足とは、成就の義、無闕少の義なり。薩般若とは梵語なり。具には薩羅婆枳嬢嚢(サルヴァ・ジュニャーナ)と云い、翻じて一切智智と云う。一切智智とは、智とは決断簡択の義なり。一切の仏各の五智三十七智乃至刹塵の智を具せり。」)

 

 

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