崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「玄海灘は知っている」

2013年02月13日 05時24分05秒 | エッセイ
数日前の「毎日新聞」に連載した古川薫氏の「体罰」に関する寄稿文は名文である。古川氏は高齢の作家であっても社会問題をキャッチしていて、新鮮さを感ずる。今スポーツ界や学校教育で問題になっている体罰は戦前の軍隊の「内務班」での厳し体罰だという文である。映画「真空地帯」を紹介しながら「今メディアが争って暴露する部活の多くは、内務班そのものです」と、戦前の軍隊生活の温存だという。全く同感である。
 私は軍隊の訓練期間「ネムバン(内務班)」生活をした。そこで受けた数多くの体験は日本の軍隊からのものであった。後に内務班での厳しい生活を懐かしく面白く語る人も多い。戦後最初のラジオドラマ、韓雲史作「玄海灘は知っている」(1961年映画化)を思い出す。日本人の軍人が朝鮮人の兵士に靴の底を嘗めさせた場面では私は怒った覚えがある。日本の体罰は植民地にも伝統として残っている。韓国や北朝鮮の軍隊にも強く残っている。ただ日本の体罰は教育的意図の他に「いじめ」が多く含まれている。日本のいじめの怖さは隠密であり、グループ的なものである。日本植民地のもっとも負の遺産はいじめであろう。それは日本文化のそのものでもある。

「南苑」で送別会

2013年02月12日 05時26分25秒 | エッセイ
韓国からの派遣教員呉信媛氏の送別会が高級レストランの中華料理「南苑」で行った。「南苑」という店名から春を、韓国の歌「南国は我が故郷」を思い出す。彼女は韓国から来て多くの日本人と交わり、日韓文化交流に大いに活躍して帰る。「隠れ派遣公務員」とは異なる立派な業績を褒め称える時であった。
 二人の息子の母親でもあり、小児科医師の倉光誠氏と育児の話題があった。クリスチャンである彼女は子育てのテキストとして旧約聖書の「箴言」が多いに役立ったという。特別な育児方法は無く、ただ好きな本を一緒に読み、本屋に連れて行って子供たちの好きな本を選ばせて、彼らが必要な本は全部買ってあげたという。今、彼女の二人の息子は名門大学の学生になっているという。倉光氏は子供が好きで小児科の医師になった方であり、子供が大人より文化の受け入れが早いといい、私はユダヤ教の経典のタルムド、チンパンジーの子供の話、フロイドの発達心理、土居氏の『甘えの構造』、柳岸津氏の『韓国の伝統的育児』の本などを持って補足説明をした。今日本で話題になっている体罰やいじめの話はなく、明るい話題であった。タルムドに書かれている「人を賛美できる人こそ真に名誉な人だ」という言葉を思い出す。

「魔姑旅」

2013年02月11日 05時57分40秒 | エッセイ

昨日は旧正月、宇部へ「魔姑旅」であった。ハ―、何の話?。私が覚えている昔話である。ある女神が娘8人を生んで8道(全朝鮮)に婚に出して全国を支配する話である。私も多くの弟子などを全国に、否世界に送り、今老後に広い領域を支配するような気持であるという話である。この話をただの自慢話ではない。国を越えて引っ越し、職場を転々とし、その場その場での人間関係を残し、また作りながら広く繋げていく生き方へのメッセージとして、受けとめてほしい。
 在日大韓宇部キリスト教会で集まった。子弟関係をはじめ様々な人間関係のグループである。その教会の牧師の師母(婦人)は啓明大学日本学科の教え子、広大の教え子である現在中国杭州の大学教員である金俊氏の家族、目下私の学生である医学博士の倉光氏、私の研究対象である堀家の家族など一気に十数人との出会いであり、和気藹藹の時間であった。特に金俊氏の日本訪問の歓迎、また堀まどか氏の韓国嶺南大学校の日本語教員として赴任す餞別の意味が大きかった。「魔姑昔話」は昔の話ではなく今の「私の話」である。帰宅は遅くなったが嬉しくたのしい一日だった。


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2013年02月10日 04時23分15秒 | エッセイ
<朴正熙先生と朴槿惠大統領>(「東洋経済日報」2013.2.8 連載エッセイ)崔吉城
 朴正熙大統領といえば麦わら帽子を被って田植えをする農民大統領、セマウル大統領を想起するだろう。その娘の朴槿惠氏が大統領になることを歓迎しながら彼女の父親のことを考える。それは陰徳であり、日本語では「お陰様」によるものである。もう一方では負担の陰影でもある。陰陽は宇宙の調和の原理であり、大統領としての行使が期待される。
私は李承晩大統領の長期執権に反対するデモに参加し、軍事クーデタにより民主化が中断され、失望していたが、陸軍士官学校の教官となった当時を回顧すると隔世の感がある。  
 1960年代半ばのことだった。休校中でも特別許可を得て大学研究室で読書会を行った。そんなある日ある大学生が走っている朴大統領の車に向って石を投げたことがあった。その時下車したサングラス姿の朴大統領が歩いて守衛に案内されながら学長に会って「学生指導をきちんと正せよ」と注意してから、陸軍士官学校へ向った。朴大統領は陸軍士官学校には時々土曜日に生徒たち(学生)の「査列」儀式のために来られていた。青瓦台から直接担当する厳しい警備の中、私は近くで彼をお見かけしたこともがあった。一回だけ同じ査列台に同席したことがある。
朴大統領に関する逸話がある。彼は師団長の時、時々食べに行った日本式のうどん屋のお婆さんを士官学校の食堂に呼び、働かせた。彼女は私に朴大統領が日本食を好むという話をしていた。私はその時、大統領はとても人情深い人だと感じた。今から20年ほど前の話である。植民地に関する資料を読む最中に突然朴大統領のことを思い出した。時は変わり私が植民地研究上、気になったのがセマウル運動であった。私は宇垣一成朝鮮総督の農村振興運動下で聞慶国民学校が農村振興運動の「中堅人物」を養成する指定校であったことに目が留まり、もしかしたら当時の朴先生がその農村振興と関連があったのではないかと考えた。
 私はすぐ日本からソウルへ、バスに乗りその学校を訪ねて行った。そして聞慶小学校の朴正熙先生に学んだ金成煥等三人の弟子にインタビューすることができた。私には「先生」というイメージが強く伝わってきた。彼らによると当時朴正熙先生は農村振興の指定学校聞慶更生農園と新北簡易学校更生農園において姜光乙先生が40日間の出張期間に授業を担当したという。村の中堅人物を養成するという農村振興運動の目的で指導者養成の教育を担当したのである。セマウル運動は農村振興運動の「儀礼簡素化」「自力更生」「農村振興」「忠孝愛国」「自立自助」「勤倹」などの思想により、朴正熙大統領がセマウル運動を推進したものと確信するようになった。つまりセマウル運動は戦前の日本植民地政策の再演のようなものであったのである(参照拙著『「親日」と「反日」の文化人類学』明石書店)。今私は朴槿惠大統領が朴正熙大統領のセマウル運動の「セ(新)」をもう一度高いレベルで再創造することを願う。(写真は田植えする朴大統領、生家記念館から)


2013年02月09日 04時32分31秒 | エッセイ
 昨日は雪が降っているのを眺めた。ただ見ていた。昔のように雪を見て感動したようにはなれない。自分の感情が枯れたのか。見ている人はさまざまであろう。犬は雪を喜ぶ。子供も喜ぶ。雪を見ることがない地域の人は雪を見たがる。札幌には雪まつりがある。雪の多いサハリンの人々は雪は厄介なものであるという表情。寒さと雪の多いそこが嫌だという人がいた。暴雪の中サハリンで北へ北へ走り、零下30度の二度の体験、それはエンジンが止まると死ぬ覚悟の旅であった。決して雪や寒さはロマンチックではなかった。
 雪をロマンチックに思う人は多い。韓流ドラマのはじまりの「冬のソナタ」は雪の美しくしさを生かしている。スキー場、雪だるま、雪合戦など。韓国の人気ドラマの「外出」を日本では「四月の雪」と改題している。明日は韓国の正月、迎春の春雪、春一番、そして解凍していく。日韓、日中関係の解凍を迎えるように願う。

読んで話す

2013年02月08日 05時34分52秒 | エッセイ
 昨日新しく読書会を始めた。私が中心となって行う読書会はこれで4つ目である。最初は1960年代ソウル大学で李杜鉉、柳東植、張籌根、李光奎、崔吉城のメンバーでシャーマニズム関係の論著を読んだこと、私にとって理論武装化に重要なことであった。私が日本に留学することでその読書会は終わった。次は日本留学中成城大学院生たち7-8人と人類学関係原書を読む読書会を行い、アフリカの祖先崇拝に関するフォーテスの本を読んだ。そのメンバーのなかから大学や研究機関に勤めている人がいる。その読書会と並行して韓国の留学生たちと近代化に関するマックスヴェーバーの英語の本を読む会に参加した。韓国へ帰国してから啓明大学で土曜ゼミという読書会を行い、メンバー最大40人までなり、それが日本文化研究会となり、『日本学報』を出すようになった。その読書会出身が日本留学、目下日韓の研究者として活躍している。
 昨日からの4つ目の読書会は礒永和貴、倉光誠、私の3人で始めた。来週から春休み学生のいない大学は寂しくなり、研究者や教員などに呼び掛けたいので始めたのである。関心ある人は是非参加してほしい。まず朝鮮総督府が出した機関紙の『朝鮮』を読むことにした。昨日礒永氏が第1号から「地方改良運動」に関する部分を発表した。それが「更生運動」、私が以前発表した「農村振興運動」とつながるので論文の補強が可能であると勇気づけられた。今週発行予定の東洋経済日報には農村振興運動に関する文を寄稿したので合わさってまた深く読みたくなった。来週は倉光氏が医療や衛生に関する話題を提供する。
 (写真はハングル『朝鮮』全42巻)

「愛」

2013年02月07日 05時33分56秒 | エッセイ
日本のカレンダーに韓国のカレンダーを重ねて書きこんで、今週の日曜日2月10日が中国文化圏の旧暦の「正月」であり、14日が日本のバレンタインデーと近接している。バレンタインデーとは西洋のカソリック文化の祝日の家庭と結婚の祝日である。元々ローマ時代の宗教的な祝日から由来した「恋人たちの日」となっている。日本の「縁結びの神」への祈りのようなものであろう。
 日本や韓国の伝統的な年中行事をみると豊作と多産を祈る、祝うものが多い。その中に西洋のバレンタインデーの男女に恋愛、結婚、家庭を大事にする祝日が入ったのは珍しい。日本語と朝鮮語には愛という言葉がなく、漢字語から表記するようになったという。韓国人や日本人に愛の感情がなかったという意味ではないだろう。それを公に表現するのを控えたからもしれない。愛を積極的に普及させたのはブッタの慈悲、キリストの愛であろう。
 昨日大丸百貨店で地下のお土産コーナーに立った。チョコレット一色であり、混雑、商売盛況であった。普段お世話になった人へと思ってその中を歩きながら相手だけを考えていた。お土産を選ぶ心は自分のためのショッピングの心とは逆であり、自分の食欲を越えている。食や味を越えていることを悟った。これが「愛」であると。持って行って喜ばれ、楽しい談話が長く続いた。


フォンが人間の脳

2013年02月05日 13時51分49秒 | エッセイ

昨日本欄で書いた文に多くの方々からコメントがあり、張竜傑氏からは、電話番号などの変更の問い合わせの電話もあった。最先端のスマートフォンを手にしても使いこなすのが問題であり、指が誤って触れて他の方へ電話をかけたり失礼なことがあり、電話さえ難しい状況になリ、焦ってしまった。強く勧めてくれた人は同僚の人類学者鵜澤氏である。彼に緊急応援のSOSを送った。そして一日掛かりの本格的な使用方法の説明が行われた。それは講義そのものであった。機能システムのOS(operation system)のアンドロイドというバージョンを基礎に作られたサンスンへ、さらにトコモへという大体の流れからコンピューターとフォンとの共有作業、指の使い方まで細かく、実にとてもよい講義、一人で聞くにはとてももったいない授業のようであった。
 説明を聞いた感想を書いてみる。まずこのサムスンGalaxy note IIの購入は意外に大きいことであった。最先端の最高の商品であるということだけの意味ではない。私の機械に対する認識を変えるような契機であったからである。普段私は「人間を大切に、機械は酷使しても良い」というような態度であった。それは機械の機能を十分発揮させるという考え方である。たとえば複雑、繊細な機能が収納されている高級カメラを見せかけのように持って歩き、ただシャッターをおすだけのようなことは浪費だと思っているからである。人は良い脳を持っていながら機能をあまり発揮させずいつも朦朧と生きることに対する戒めの私なりの哲学や人生観がある。
 しかし昨日鵜澤氏が機械を丁寧に扱うことに感心した。彼は人のように丁寧に扱った。人間の脳を掌中に持っているように感じた。フォンは知識システムが導入されているという点では脳に似ている。その能力、脳力のキャパシティはフォンと脳が異なる。人はフォンをこなせないか、必要としないものがある。私の無関心と無能力に合わせてフォンから多くの機能を削除しなければならない。メールやギャラリーの写真、動画、ノートなどのアイテムを中心に画面整理や削除作業をしてくれて便利に使えるようなった。これからこの忍者のようなものをどう使いこなせるか、挑戦は楽しい。電子ゲームで育った若い世代に私のような高齢者がこのような先端機械とは縁のないような人が多いが、新しいゲームとしてスマ―フォンに挑戦してみるのはいかがであろうか。


スマホが人間をダメにする

2013年02月05日 04時09分55秒 | エッセイ
 昨日最新のスマートフォンを購入した。若干遅れているようであるが実は携帯電話と一緒にスマ―トフォンを持っていが一個化したのである。20代からいち早くタイプライター、ワードプロセッサー、PCへ時代に乗ってきた。昔の未来学者たちの予言通り、インターネット時代になっている。「ニューズウィーク」(日本版 2月4日(月)に「スマホが人間をダメにする」という記事をヤフーから引用する。本の中身は書店で確かめ、注文は家に帰ってアマゾンでするという人が多い。コピーで本が、書店で本が売れないという時代になった。ネットで読み、「クリック購入する」時代になっている。私もそのスマホ時代に乗るしかないと思っている。講義中に学生がスマートフォンを操作するなどは当たり前になっている。場合によっては教師の説明をフォンで確認して指摘することさえある。紙の文化がネット化している。書く文化から打つ文化へ深く侵入している。それは我々人間が追究したものである。それを「スマホが人間をダメにする」と否定することはできない。
 鉛筆から万年筆へ、またボールペンへと変わる度に抵抗してきた。ボールペンで書くのは失礼だと言った人もボールペンで書くのが自然となった。10年ほど前に親しい出版社の社長に紙の文化の変化、電子ブック化へ対応する心の準備をしてほしいと言った。卒論を準備する学生たちが本を読む風景は無くなった。教員を含め学生たちはただネット上のモザイクばかりである。本が多くても読書する人が多いとは限らないようにインタネット上の文をキチンと読む人は限られる。創作か、盗作か、剽窃か、なにも意識せず他人の知識、他人の意見のモザイクの時代になっているように思われる。知識を共有することはよいが、ここで私は「貴方の意見、考えは?」と問いかける。私は万能なスマートフォンから新しい「創造の時代」に乗ろうとしている。

「名誉」

2013年02月04日 05時26分58秒 | エッセイ
 
 昨日教会の共同議会で「名誉勸士」の称号をいただいた。勸士は30年ほど前にいただいたので「名誉」を着けてくれたのは高齢者である意味が大きい。棚上げや引退の意味で使われることもある。しかし教会で認められたことは神によって任命された意味であるので感謝すべきである。その後に他の集まりでは「名誉顧問」という称号の付いたのを頼まれ、私は名誉教授をはじめ名誉と付いたものが三つになる。世俗的に「お金と名誉」が人の目指すところであり、私はお金には縁が薄かったが、小さい世界では目的をある程度達成したと言えるのかもしれない。しかし名誉という単語を辞書で引いてみると「名誉」(Honour)とは、自身の業績、功績、態度、姿、振る舞い、あり方、生き方を讃えられ、それがすぐれている、価値があると自他共に認め、それを自らの尊厳、誇りと見なすこと ...と書いてある。大変なものをいただいたことであると驚いている。
 名誉はもらう、いただくのは難しいが、傷つけ落とすこと、つまり「名誉毀損」はされ安いものであろう。注意して持ち続けることであるが、それより積極的に社会に奉仕する意味で受けるべきである。名誉ある意見、名誉ある行動をすべきだと思うと萎縮しがちでもある。しかし、それほど落ちるような高いものではないと思い今まで通り普通のリズムで生きることにする。(写真は海峡メッセ29階での昼食会)

「報道の自由度」の報道

2013年02月03日 05時00分56秒 | エッセイ
 韓国では日本の報道を信頼していた。しかし今度の国際ジャーナリスト組織の「国境なき記者団」の世界各国の報道の自由度ランキングを見ると日本は韓国より低位になっているので異様な感がする。東京電力福島第1原発事故などの報道以来韓国人は日本のマスコミの報道が信頼できなくなったという。そのランキングとは別に私も日本のマスコミに疑問を持っている。それは報道の鮮明度とは違って、報道してはいけない聖域やタブーが多いということである。その多くは個人情報の保護や人権を尊重し守るためと思われるが、天皇制や戦争被害の遺族などに関して強いタブーがある。その点では戦前の「国体」意識が強く残っているといえる。つまり報道しない領域が広いということである。
 今は国家統制や一部のマスコミによって報道を独占することはできない時代になっている。報道とは必要な情報を共有するためのものであろう。そこから人は関係し合うし、協力する社会が作れる。しかし非難攻撃するためにも使われる。
 「報道の自由」な時代に人は「報道」に曝されるだけではなく、自らそれを読み取ることが重要である。今日本では情報が溢れている。スマートフォンを持っているだけで、ある意味では最高の知識人になったように錯覚するほでであるが、そうではない。その情報をもって考えて判断することが大事である。そこに至るまでにはまだ程遠い段階にいるといえる。

大気汚染「霧がかかった」

2013年02月02日 06時59分31秒 | エッセイ
 中国の大気汚染が深刻である。中国だけではなく、インドなどアジアでも広範囲で問題である。特に隣国である韓国や日本はその被害の脅威を恐れている。今そのュースが多い。黄砂や大気汚染の大国、中国が経済成長の「経済大国」を誇っている。つまり汚染の問題を抱えていること自体が開発する国家だというイメージがある。北朝鮮はまだ汚染に至らず「楽園」に留まっているようである。考えてみると韓国の経済成長期にも汚染問題が大きかった。ただその規模が小さく、期間的に短かった。当時1970年代初めころ私は日本に来て、品川の川の汚染を目撃し、ショックを受けたことを覚えている。当時の東京都知事は「富士山が見えるように」という政策を出したので、やはり先進国であると感じた。今中国は「経済大国」を叫ぶより黄砂を無くす、汚染を無くす、「治山治水」の古代王様たちの理想に、古代文明へ立ち戻るべきであろう。
 私は数多く中国を訪問しながら大気汚染を感じて、中国人に言うと「霧が掛かっているのだ」といった。汚染を霧とロマンチックに思う国民に被害を被らせない政策転換が必要であろう。日本に戻って考えてみましょう。隣近所にマンションを建てようとしているが、住民たちは景観が悪くなるなどの理由で反対運動をする。日照権、展望妨害、騒音など数多く理由を持ちだす。自分の家やマンションを建てた時のことは考えず「他人事」にうるさい。大気汚染は先進国が経てきた当然のような過程である。しかし後から来る者は「前轍を踏まない」という金言がある。中国の「治山治水」、韓国の「錦水江山」、北朝鮮の「楽園」、日本の「美しい国」が実現されるようになることを祈る。

麦わら帽子のフィルムリボン

2013年02月01日 05時33分48秒 | エッセイ
今執筆中の文の中で1936年の映像から麦わら帽子に映画のフィルムがリボンとして使われていることを見つけて数年になる。それはフィルムを保存せず放棄し、リボンとして活用したことの証明になる良い例である。私はそれを著書『映像が語る植民地朝鮮』で写真と共に触れたがさらに確認をしようとして他に2例を見つけた。終戦直前の映像の「国旗の下で死ぬ」と「海の生命線」から類例を見つけた。それが16ミリフィルムであることを昨日KRYテレビカメラマンだった権藤博志氏と同僚の山本達夫氏の協力を得て再演して測って16ミリフィルムであることを確認することができた。つまり写真のフィルムと帽子のサイズを図って実物の大きさにして測って16ミリに近いことが分かったのである。権藤氏によれば映画は35ミリを使っていて、ニュース映画などは持ち歩きやすい16ミリであった可能性を指摘した。今度はフィルム処理に関する情報を収集したい。一説によればフィルムはプラスチック素材のベース面にゼラチン質の乳剤をコーティングした物質で、「ナイトレート」という可燃性素材が使用されていて、爆発性の危険性があったという。その辺を含め情報を読者からもいただきたい。
 今はファッションの帽子であるが、戦前戦後当時は農民の帽子であった。そこに最先端のフィルムリボンを巻いて洒落た(?)飾りにしていたのである。戦後、私は子供のころそのフィルムを観察したことがあり、映像からそのフィルムを確認するに至ったのである。私の研究は小学生低学年から始まったことになり、ピアノやバイオリンを3歳から始めた天才には及ばないが早く始まったといえる(ハハハ)。