崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

質素と贅沢な生活

2005年09月28日 21時21分14秒 | エッセイ
 壇ノ浦の高いところから関門海峡を眺められる私の生活環境は贅沢である。しかし、今日はインスタントラーメンを食べて、遅くまで仕事をして、バスに乗り、さらに歩いて、ようやく自宅に帰る途中、自分は何となく惨めなほど質素だなと思いながら家にたどり着いた。
 テレビをつけたら宇宙飛行士が宇宙でラーメンを食る映像が流れていた。それこそ宇宙を眺めながらという贅沢とラーメンという質素のコンビであろうと思い、私は慰められた。ラーメンが質素というイメージは、私が若くないことを意味するかもしれない。
 現代人はこのように質素と贅沢を調和しながら生きるのではないだろうか。
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スパイと国際化

2005年09月28日 21時00分08秒 | 研究業績
サハリン瑞穂村の朝鮮人虐殺事件を中心に
                                                 崔吉城

  はじめに
 1999年シベリア調査中、軽く寄ったところ私は気持ちが重苦しくなった。ノンフィクション作家の角田房子氏は『悲しみの島:サハリン』の序文で(韓国語版1995)「サハリン帰還問題を知るようになった時, 祖国に戻ることを希望する人々に私は何をしてあげることができるか考えた。作家として可能なることはやはり書くことしかなかった。まずサハリンに行って現地の人々の体験談を聞いて,日本でこの問題を解決するために努力した人々にも取材した。サハリンの歴史を書くことは日本人である私には非常に苦しいことであった。しかし歴史の真実を知らなくては反省も謝罪も出てくることができないと信じてこの本を完成した」。
なぜかということは後にして、私も彼女に同感でこの本をこうとする。現在4万人ほどの朝鮮人たちがサハリンに住んでいるかについて書かなければならなかった。

平和のための戦争に虐殺、暴行は付き物か、戦争は狂気か

一 瑞穂村
は真岡から約40kmに位置する
 「調書」「裁判記録」
コンスタンチン・ガポニエンコK.Gaponienkoの著書『瑞穂のドラマ』の訳文
1) 「朝鮮人は夜に飛行機に青や赤の懐中電灯で信号を送るソ連のスパイだ」「ソ連軍を朝鮮人が先導している」「朝鮮人は日本人を裏切り、武器を赤軍に渡している」「ソ軍には朝鮮人が勤務しており、我々のことをすべて察知している」「ソ連側に密告したりして、日本人を裏切って、復讐をしている」
2) 「朝鮮人が日本人の婦女子を殺している」「恵須取、泊居方面からの避難民達から聞いた話では朝鮮人達が赤軍の進攻と共に日本人の婦女、子供を殴り、略奪、殺人、復讐をしている」
3) 「もしわれわれが朝鮮人たちを抹殺せねば、彼らがわれわれを抹殺するだろう」「朝鮮人たちを殺さねばならない<朝鮮犬>を抹殺しろ」「逢坂の山沢大佐が瑞穂に住んでいる朝鮮人たちを殺せと命令した」。在郷軍人会長の森下安雄は「赤軍が到着したらこれを援助し、苦境にある日本人住民に敵対し、逆に赤軍には忠誠をもって相対する」という理由で朝鮮人虐殺を決心した。
 1945年8月20日から23日にかけて朝鮮人27人が惨殺された。ここには村人ではない3人も含まれているという。
二 虐殺
<8月20日>
清住大助が彼をベルトで殴り始め、サーベルで数回切りつけた。朝鮮人は清住の殴打を拒み、顔を手で覆った。それから細川は、足踵で腿のつけ根を蹴った。朝鮮人は、体を曲げ、重いうめき声を上げ、身をのばした。その時、清住がバンドの留金で顔を打った。目から血がはとばしり出た。細川は朝鮮人を足蹴りし続けた。最後に森下がやってきて、短い敏速な動作で、朝鮮人の腹に日本刀を突き通した。死んだこの男から日本円(軍紙幣?)合計215円(250円?)をとった。約200メートル入った茂みにその死体を捨てて、森下の家に寄って数時後それぞれ帰宅した。
<8月21日>
 朝7時頃、日本人男性だけ17人、会議を開き、虐殺する決議、承認された。会議中に3人の朝鮮人が栗山宅にやってきた。夏川以外の者の名を知らない。鉄の鎖で朝鮮人夏川の頭を打ち殺した。死体を草わらに捨てた。(朝鮮人の夏川がやって来た。彼は挨拶をしながら「若しロスケが瑞穂村にやってくると非常に困る事になる」といった。私は「そうだ。困る」と云った。この時夏川に角田が近づき「おい、ロスケのスパイ!」剣で肩を斬った。夏川は畑へ走った。負傷したのを角田が追いかけ斬り下した。50歳くらいの朝鮮人農夫を千葉政志が発砲して殺した)。
 森下が朝鮮人山本(42~43)を刀で打って、2ヶ所胸に傷を負わせ背中を斬った。この時4人の朝鮮人平山、夏川、松田と60歳くらいの老人が近づいてきた。松田を撃った。老人は逃げ出したが永井幸太郎が殺した。
 初め鎖で殴り、刀でとどめを刺した。細川宏と千葉最一が幼児1人づつ殺し、女性と他の子供を殺した。鈴木が11歳の女児を刀で刺した。千葉は12~13歳くらいの女児を殺した。森下は女性を短剣で刺し、それから4歳と6歳の子供を殺した。道から5米位のところで私は女の背を刀で3度斬りつけ斬殺した。
 千葉政志が猟銃で射殺した。3人は皆知っている者。(老人はすぐ若者達に捕まえら、打ち刺された。丸山、彼の妻、14歳くらいの娘、そして2人の男性がいた。この2人は夏の間に丸山の家で畑仕事をしていた。朝鮮人の後ろを、武装した日本人が歩いた。落葉樹林の側で、3人を殺した。朝鮮人を皆殺した。殺す必要がある、なぜなら赤軍がやってきたら朝鮮人たちは日本人を裏切るであろう。
<8月22日>
 朝、日本人の集団は栗山吉左衛門の家に集まり、永井秋雄の家に向かった。永井の家には全部で5,6人が集まった。そして全員そろって、八号線にある、日本人今部のバラックをめざした。バラックには朝鮮人が住んでいた。途中で5人の日本人が我々に加わった。こういう具合にして、バラックには全部で22人か23人が行った。
 今部のバラックまで行かずに私達は山口という日本人の家にいて下見に出て、朝鮮人のいるバラックの付近をよく調べることにした。斥候には私と森下、それに後5人が出たが名前は覚えていない。付近を調べ終わってから、我々は2つのグループに別れ、分隊でバラックに到着、朝鮮人が逃亡できないようにすることに決めたというのは彼らはもうすでに目をさまし外に出ていたからである。グループの一つは道路の方から、もう一つのグループは店の方からバラックに近づいた。バラックのほんの近くまで来たとき、森下安雄は「前進」の号令をかけた。全員がバラックに突進した。中から1人の朝鮮人が私の方に走って出てきた。私はすかさずこの男をサーベルで切りつけた。その後2人目が手に棒を持って飛び出てきたので、私が飛びのくと、この男は逃げ出した。私はこの男に追いついてマラサーベルで切り殺した。この2人を処分した後で私はバラックに行った。その中には森下安雄がいて、彼と共に4,5人の日本人がいた。その名前は今覚えていない。女が2人いてそのうちの1人が足に怪我をして倒れていた。2人目の(もう1人の)女は5人の幼い子供と一緒に立っていた。1人の朝鮮人の男を森下がつかまえていて、めった打ちにしていた、 その後で男を外へ出してサーベルで切り殺した。
 その他の朝鮮人男子は殺害され、畑に横たわっていた。足に怪我をした女もバラックから外に出されて殺されたが、誰が殺したか私は知らない。2人目の女と5人の子供を森下安雄と清住大助が前に殺された丸山という朝鮮人の家に連れてきて見張りをつけた。見張りは清住大助と私の兄弟、細川武である。
  今部のバラックの中には9人の男子、2人の女と5人の子供がいた。殺された朝鮮人の死体はバラックのそばに埋めた。女と子供は騒ぎを起こさないように、バラックの中で殺すことはしなかった。子供はひどく泣き叫ぶからまた子供がかわいそうだったが、殺さないというわけにもいかなかった。もし彼らを家族と一緒に日本の僻地に疎開させるにしても、朝鮮人のみに起こったことすべてを彼らが(子供達)しゃべる可能性があるから。という訳で、女と子供を丸山の家につれて来て、夜、眠っている時に殺すことにしたのである。森下安雄は以前日本人住民と一緒に山に避難していた、丸山の妻を子供と共につれてきて殺すよう鈴木正義、細川武と千葉最一に命じた。細川が番した女性は彼に「幼児は空腹なので飲ませたいが自分は乳が出ないといった。細川は「今牛乳のくれる所へ連れてゆく」といった。細川と森下は彼女を連れて行った。(彼女の髪を引っ張ったとき女体の匂いがし、欲望が出てきたのでこれを打ち消す為に強く斬り下げた)。
 <8月23日>
  寝ている4人の子供と女を殺して死体をに家から約20米の所に埋めた。森下安雄は「日本軍司令部から朝鮮人達を全部殺すよう命令を受けた」と言った。
 大浦島飯場で、7人の朝鮮人男子と1人の50歳位の老婦と11~12歳位の女児の9人を殺した。今部の大納屋に住んでいる15~16人を皆殺した。窓から朝鮮人達が見ていた。森下は納屋へ突入した。朝鮮人達は窓から走り出した。
 以上の細川宏の供述は裁判所の尋問の際、清住大助陳述によって完全に裏付けられた。大助の供述によると彼らが殺害したのは全部で27人、その中には女性3人、子供が6人いる。 
 <8月24日以後>
朝鮮人の女性が未だ生きていて唸っていた。道中は1人の朝鮮人を棒打ちで殺し、女性の方はカサワバラがスコップで打ち止めをさした。疎開から帰って8月26日に死体を埋葬した。
  
 三 検死、調書、判決、執行
 1946年7月に行った死体発掘と検死によって次のようなことが明らかになった。全部の死体に無数の刺し傷があり、いくつかの死体はバラバラにされていた。頭部や手足が切り離され、死者の頭蓋骨には穴があいていた。大多数の死体の肋骨や手足はあちこち折れていて、この殺人が残忍な性格を帯びていることの証明となっている。丸山の妻とその12歳の娘の死体を調べると、頭蓋骨の額の部分と頭頂部が陥没していることが分かった。また、母親の方は、肩甲骨の所に3箇所、後から刺された傷があるのが見られた。左の肋骨には多数の骨折が見られ、腹部には2箇所、貫通した刺傷があった。5,6ヶ月の赤ん坊の死体に胸部と腎部を貫く刺傷が見つかった。
  
四 武装化した日本農民
3人の女性と6人の子供が混ざって、総27人が殺害された。それについてソ連当局は犯人を逮捕し、供述や検死など資料にして有罪判決をし、1947年2月26日に処刑して終結した。しかし全体を指揮して殺人をした代表者である森下安雄は欠落している。細川は昨日の事件に参加した人を連れてきた。総て22人である。森下は指揮を取ったが犯人の名簿に載っていない。自決したか逃げたかは不明である。日本は真相糾明などもしていない。
 農民である瑞穂村には在郷軍人会と青年会が日本人のみで組織化され、ほぼ武装化されていた。在郷軍人会には会長森下安雄をはじめ、元陸軍上等兵細川宏、元陸軍曹長栗山吉左衛門と会員清住大助、永井幸太郎がおり、全員武器を持っている。会長の森下安雄は曹長、応召前、青年団を指導し、短い日本刃(鉈)を持っていた。細川宏は上等兵、森下の補佐、短い刃物のナタ(鉈)を持っていた。千葉正義は上等兵、銃アリサカ76301番号、ベルダン銃―古い物、日本刀1丁―古いもの、アリサカ銃の弾、銅弾24弾蒼、黒弾―11弾、ズック弾薬盒、弾入れカバン、猟銃、短剣フィンク刃渡り35~40cmを持っていた。永井幸太郎は支那事変に参加しメダル、赤十字章、勲8,5等章を受賞し、軍用長剣を所有した。栗山吉左衛門は1923から1927年まで軍隊勤務、上等兵であり、栗毛色の馬、生後3ヶ月子馬を持っている。長男は23歳で日本軍隊に勤務した曹長で村役場の顧問、最上位の位で、長剣を持っている。このメンバーはほぼ武器を持っている。在郷軍人以外に鈴木秀夫は古いサムライの刀を持っていた。栗栖昇は剣、1.5米位の竹槍、スコップ3丁、長さ90~100cm、8~10mm中の銃鎖を持っている。角田は軍用短剣を持っている。
 青年団には細川武、同団員永井秋雄、千葉政志、鈴木住吉など30数人の団員がほぼ武器を持っている。青年団は在郷軍人会の息子たちが中心になっている。
参考;北満州に武装開拓移民。在郷軍人会と開拓団は「銃を持って戦う」ことであった。満蒙開拓青少年義勇軍も設けた。韓国・巨文島に移住した木村忠太郎もピストルを所持したという証言があり、終戦直後在郷軍人が治安を担当して武装を解除したのが分会史に書かれている。
 
五 スパイとされる朝鮮人
日本とソ連の挟間にいた状況において朝鮮人は時にはソ連側から時には日本側からスパイとされた。作られたものであろう。それは日本とソ連の挟間にいる状況で両方からスパイとされた。サハリンの日本軍はソ連のスパイに対処するためにサハリン少数民族を諜報活動に利用した。彼らはサハリンの南北を跋渉しながら猟をして生活したので利用性が高いからであって、ソ連軍も彼らをスパイとして利用した。日ソ両側からスパイ視されたということは朝鮮人のマージナル、二重文化の特徴の裏返しとも言えるだろう。

<ソ連側から>
 ソ連は日本人に最も近い危険な民族として朝鮮人を見た。極東シベリアや沿海州に住んでいる朝鮮人は日本のスパイであろうとの嫌疑がかけられたといわれている。朝鮮人はソ連地区に生きながら日本にスパイ行為をしたという嫌疑で逮捕された。ソ連にとっては日本と近い民族として疑わしくて, 日本人と分離させようという政策を取った。ソ連には日露戦争の敗北、日本軍の極東遠征侵略という苦い経験があった。さらには1931年の満州事変、32年の満州国の登場という情勢の流れの中で、いっそう日本軍に対する警戒を強めた。当時、ソ連の国境地帯では朝鮮人の独立運動が熾烈だった一方、シベリアではソ連に対する日本の諜報活動が活発だった。日本の諜報活動には高麗人が多数利用された。高麗人は朝鮮語、ロシア語、日本語、中国語に堪能だったし、ソ連にとっては朝鮮人と日本人の区別がつきにくかったからである。ソ連当局は高麗人を信じようとはしなかった(鄭東柱著,1998:98)。日中戦争勃発以後ソ連は日本を警戒するようになり関係が緊張していた。その時朝鮮人が日本の間諜をしているという噂が回った。スターリンは朝鮮人が日本人と極類似しており国境地方に住んでいるので戦争期には障害になり、間諜になりうる存在であるので移住を決定した。また1沿海州に居住している朝鮮人達が独立運動をすることが日本の侵入の名分を与えるか、あるいは朝鮮人が日本の間諜活動をする憂いがあると考えてと1937年沿海州と北サハリンの朝鮮人たちを中央アジアに強制移住させた(キンピオトルゲルノビチ)ソ連側からは朝鮮人は日本人と最も近い危険な民族に感じられた。1937年中央アジアへ強制移住もいくつかの理由があるといわれているがソ連が朝鮮人を日本人と分離したのが主であろう。北サハリンでは朝鮮人が日本のスパイとして疑わしい存在にもなったことはそのような脈絡から理解できる。

<日本側から>
 19世紀以後朝鮮人の沿海州への移民者は大部分農業移民であったが中には独立運動をする人が混ざったので日本は武装勢力以外の農民さえ間諜と考え、1920年4月4日に新韓村の朝鮮人数百人を虐殺した事件が発生した。1922年日本軍が撤収しながらソ連に朝鮮人の独立運動を中止させることを要求した(崔協・李光奎1998:176から再引用)。サハリンの高等警察は主に独立運動者を「要視察」した。朝鮮人取締に関する文書綴には要注意朝鮮人の手配や、所在不明者の手配の通達などが記載されている。それによると「鮮人」「思想」「共産」「民族」などに分類して、「要注」「特要」「思想」「容疑」のランク付けをしている。特に樺太はソ連国境と隣接しており、ソ連の領土である北樺太から移住して来た朝鮮人にはスパイ活動を防ぐために防諜取締をし、防諜要注意者の手配した。管轄別の朝鮮人の人口(朝鮮人現在表)を調査して、「要視察」「要注意」と、所在を把握し行動を視察する。朝鮮人を犯罪人視し、思想つまり独立運動者として憂いがあると、報告し、手配する。本籍、前居住地に照会して周密正確に調査し、北樺太の出生者については前居住地における交友関係を調査するという。これはソ連の領土に生まれたことに注意を払っていることであろう。1930年、樺太長浜の鮮人鄭用基の飯場にて労働しながらそのニュースを漏らしたり、知取など転居したり所在不明になっているので厳重捜査して報告すべしという。飯場とは石炭山において飯場頭が鉱夫の供給保護監督する制度であり、朝鮮人が飯場頭になって労働することも多かった。その組織に独立運動者が入り込むことを恐れている。
 ホルムスク(真岡)において 8月 20日アノミーのような状況において日本人の中では朝鮮人がソ連に情報を流す、ソ連に近い民族,つまりソ連の味方ではないかと思う人がいた。樺太全土の日本人社会がパニック状態になり、日本人の敵はソ連軍であってももっと怖い存在は近くにいる朝鮮人とした。朝鮮人がスパイをしたので負けたと、簡単に結びつけてしまったようである。朝鮮人はそれまでよき隣人であり、一緒に仕事をしてきた仲間であった。しかしごく平凡な民衆が、いつの間にか加害者になってしまう。殺す対象は村を越えていない。幼児、女児、男児、女性、老人などを含むジェノサイドの残酷さ極まるこの心はどこから出たのだろうか。他にも朝鮮人がスパイとされた事件「上敷香虐殺事件」もあった。
   
  結 論
35年間続き、特に「内鮮一体」の政策を強く実施してきたがその結果を日本人自身が信じていなかったことを明白に示す。つまり民族を超えて完全に溶け合うことは出来なかった。
 第一にロシア書記長は「戦争というものが、あのような異常な雰囲気を作った」と)といった。しかしすべての人が狂気になるわけではない。その状況において少なくとも民族や国家を超えて人間であることの人間性の教育が必要と思う。たとえばアメリカの戦争映画によく登場するヒューマニストのような人はこの事件では見つけることが出来ない。戦前の日本の国民教育が如何に徹底していたかを意味する。
 第二には国民国家や帝国へ虚像を見ることが出来る。現在も大国主義の国民国家を理想とする国家が多い。しかしユーゴスラビア崩壊から見られるように国家の危機において強大な国家権力は力を失うものになるだろうと考えられる。帝国主義に反して中江兆民が小国主義を主張したように国家のサイズより質高い民生に主力すべきかも知れない。
 第三にスパイともいわれた少 不幸な歴史にも拘らずサハリンのスパイから国際化へ向けている。

 1)経済的に若者が韓国に出稼ぎ、逆出稼ぎの現象
 2)韓国語、日本語、ロシア語のトライリンガー
 3)キリスト教の宣教
 4)文化交流


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韓国語

2005年09月28日 16時27分05秒 | 講義
 日本に来て15年になっても日本語が上手くないと常に感ずる。私は標準語の地域の京畿道で生まれソウル育ち、そしてソウル大学で「国語教育科」を卒業したのに韓国語もうまくない。最近に日本に来た外国人が日本語を上手く話せることを聞いていつも自分には言語の素質は弱いのではないかと思う。
 それをより深く考えると私の言葉のレトリックが母親のものに似て、単純であることに辿りづく。自分の言葉の拙さを母親のせいにするかのように聞こえるかも知れないが母語如何に言語生活に本質的に影響するかを言いたい。
 東亜大学で韓国語を教えている。本当の私の本職に近いといえる。日本人にとって韓国語は一番覚えやすい言葉であるかということは間違いない。ただ韓国の文化・社会に対する理解と興味があるかが韓国語の上達を左右する。
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シャーマニズムから見た韓国人(1)

2005年09月27日 10時25分39秒 | エッセイ
 韓国のシャーマニズムには典型的に二つのタイプがある。一つは降神型であり、もう一つは世襲型である。伝統社会においては世襲型が師弟関係や擬制親子関係社会的に安定していたが社会の変化に伴って降神型が一般化するようになった。このような変化が韓国人の性格に相互的に影響しあうもののように思われ、面白い。この降神型は個別的に神憑りを叫び、激しく踊り、トランス状態に入って託宣をする。儀礼や伝道活動において非常に競争的であり、他人(先生や先輩)を認めようとしない傾向が強い。このような性格は韓国人の性格と似て合う。なぜであろう。
 韓国人の学者たちさえ競争的であり、先行研究を無視して自己主張に勉む。日本でもそのような人はいるが大体は認められない。私は韓国ではシャーマニズムが無意識的に学者にも影響している思う。
 
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韓国語で世界を歩く日本人

2005年09月26日 05時46分38秒 | エッセイ
 一昨日30年くらい前に韓国啓明大学での同僚であった九州大学の松原孝俊教授が我が家に寄った時の話である。彼は当時日本語の講師であったが韓国語を学んで後にNHK韓国語講座を担当した方である。最近海外出張が多く世界国々にて韓国人からいろいろと情報を得たり付きあったりすることが多く楽しいという。私は海外でコリアンレストランから韓国人を探すことが多いが、彼は海外で韓国教会を出発点にすると便利であるという。その話を聞いて私はなるほどと同感した。
 昨朝アメリカの韓国系4世の青年を下関教会に連れて行った。教会では彼を暖かく向かえ、よい交わりができた。彼の4代前の祖先は韓国延世大学の創立者であるアンダウッドの従兄弟であるこということで韓国人たちに直ぐ親しまれたのである。彼は日本でも教会をネットワークにして歩くことができる。韓国人は日本と比較できないほど世界に散在している。そして今韓国は足による国際化が早まっている。
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灯台の表示

2005年09月24日 07時55分06秒 | エッセイ
 我が家の窓からちょうど東向にEとかWなどの数字が点滅する。それを観察してキャッチしようとしてもわからない。海水の流れや高さなどと合わせて観察しても表示が理解できない。辞書とインターネットで探したがそれは探せなかった。
 最後には海上保安隊所属の方に聞いてわかった。塩水の流れの方向と速さなどを知らせていることがわかった。それだけではない。海上にはヘリコプターが飛んだりロマンチックに客船や漁船の風景が広がったりする。海峡には1日250余隻の船が通る。排ガスのシーポリュションも酷い。地上とは比較にならないほど船の排気ガスや警笛なども問題である。しかし海上はそれがすなわち国際舞台であり、どのように規制するかはまだわからない。
 しかし私はそれが大きい問題ではない、文化人類学では主に小さい村で観察して研究を進めてきたが観察の力はこのような状況では何も役にただないことがわかって悔しかった。組織的な社会においてっは組織的に、あるいは体系的に調べる方法がよいということになる。しかしまだ人間の感情表現は人類学的観察が有効であろう。
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日本の教育の低下?

2005年09月22日 21時04分14秒 | エッセイ
 開化時代から最近まで日本の教育は先進してアジア諸国の多くのエリートは日本に留学した人であった。現在日本の魅力は急落した。不登校、いじめ、私語と居眠りの授業状態などは日本の中でも問題になっているが留学生から見るとそのような国で何を学ぶか失望するのは当然である。
 先進国の豊かさとか少子化などを理由にするが他の先進国がそうであるとは思えない。日本の教育政策の問題であろう。先生が単に知識を伝える人だけでは学生は人として育つはずがない。「師」としての教育も必要である。日本の教育には問題があるとつくづく実感するこのごろである。
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悲しいこと

2005年09月19日 15時24分16秒 | エッセイ
 昨日秋夕の朝、青天霹靂、電話で友人の死を知らされた。先日危篤であるということで急遽ソウルの病院にかけつけたが以外にも健康がたもたれている姿をみて多少安心したが結局死亡したのである。朝鮮戦争の後、中・高学校以来50年間本当に親しく付き合った友たちである。この夏私はソウルに行った時、脳梗塞後20年を経た彼の体の限界をみたような気がした。呼吸困難でホテルのエレベーターにも乗ることができなかったがそれでも奥さんの車で会いにきた。常にこれが最後のように話をした。専門、性格などすべてが異なっても互いに好きだった。
 今度死は私の番であることを考える。友人の死によってもっと死を近く感ずるようになった。天国やあの世が遠く感じたが「門の外があの世である」という巫歌を想起する。平均寿命を延長するのには努力してきたが死を迎える心は準備していない。これから準備したい。
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韓国の秋夕

2005年09月18日 07時47分35秒 | エッセイ
 今日は旧暦で8月15日であり、韓国では秋夕である。2大民族名節の一つでいわば大型連休である。韓国では日常的には西暦を使っているが、非日常的には旧暦を守っている。たとえば非日常的な祖先祭祀、名節などは旧暦で行う。これは李朝末に王によって実施された。日本植民地が西暦化政策を取った時、韓国人は旧暦の名節を守ることが国を愛することだと考えた人もいた。最近韓国の民族主義は正月などは旧暦の行事として陽性化した。
 日本は非日常的な名節を新暦化したが、韓国は伝統を強く守っている。その点で韓国は中国文化圏である。
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100才以上高齢者名簿

2005年09月17日 05時51分32秒 | エッセイ
 一昔韓国で民俗調査を行った時、大統領から毎年始高齢者記念品をもらう人がいた。私はインタビューの中で戸籍が本人でないことが分かった。それも戸籍に本妻の死亡届ができていないまま、後妻が本妻の戸籍の人になっている。当該面事務所に確認したら知っていながら今更明かすことが問題になりかねないと、放っておいたという。その他戸籍の誤りも多く、私は戸籍の資料としての価値が薄いと思った。多くの国ではそのような問題があると思う。
 日本で百歳以上の高齢者数については、対象者の所在の確認を行っていたかが問題になっている。それは行政の正確さの象徴的なことであるので慎重にして欲しい。
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選挙戦

2005年09月15日 22時06分54秒 | エッセイ
 選挙「戦」を見守った感想、それは実に戦争であった。選挙を前後に討論会が多く行われた。討論者たちは相手が正しい事を言ってもほぼ肯定しない。そして相手の弱点ばかり見つけようとする。喧嘩か戦争のようなものである。スポーツもそうである。相手の弱点を狙う。だから面白い。しかしそこに客観的な真理は存在しない。自分が真理であるかのようにみえる。
 私はいまさら政治家になるわけではないが、政治家の素質は根本からない。戦略家や政治家にはなれない。相手が敵であれば如何に正しいことばであっても肯定したり認めたりしない政治家にはなれない。
 真理と言ったが、政治において真理に代わるものが国民であろう。実際政治家の目には国民は二の次の存在であるようである。候補者の言動や討論を聞いて大きく失望した。
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臥薪嘗胆

2005年09月14日 07時32分07秒 | エッセイ
 臥薪嘗胆という言葉を日本では初めて聞いた。私は大学入試のために暗記した言葉である。今度の選挙で惨敗した民主党員の口から出た。中国の故事語としていつも薪(たきぎ)の上に寝て身を苦しめ、恥をそそごうと苦い胆(きも)を嘗(な)めて報復の志を忘れまいとしたという意味である。「失敗は成功の母」といってもその時の気分は決して嬉しくはなく、いわば不幸な心であろ。そこで自己分析が必要であろう。マスコミが注目するほどのキャッチフレーズも出さなかったのに勝つと思うのは政治の未熟さである。それでは苦い胆(きも)を嘗(な)めるしかない。「民心が天心」といわれるが、「民衆は愚民」つまり「おろかな民」とも言われる。野党は愚民政策を立てるべきであろう。
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バウロの普遍的愛

2005年09月11日 07時36分56秒 | エッセイ
使徒パウロはギリシャ文化の中心地であるタルソにユダヤ人として生まれ、ユダヤ律法を学んだ学者であり、ローマの市民権を持っている。パウロは律法主義のユダヤ教に対して批判し、普遍的な愛を持って改革を宣言し、被植民地である地域の教会を回り伝道して、特に偶像崇拝と性的紊乱な異邦人社会に対しては地の果てまで述べ伝えようとした。そしてローマへの伝道旅行を願いながら「ローマ人への手紙」(新約聖書)を書いた。ユダヤ人と異邦人の救いを説くことによって、もろもろの民族と人類全体が救われると信じた。そこにはキリスト教の本質である普遍的な愛がある。
 矢内原忠雄は植民地朝鮮において普遍的な愛を持って朝鮮の独立を訴えた。そこには偉大なキリスト教の歴史哲学がある。民族主義の強い韓国キリスト教はここに立ち戻らなければならない。
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矢内原忠雄に学ぶ

2005年09月09日 08時19分33秒 | エッセイ
矢内原忠雄は聖書講義を通して真理の戦いに全身全力を注いだ。1936年「日本の理想を生かすために、一先ずこの国を葬ってください」(1937年10月号)という文で、政府の弾圧のため東京帝国大学を辞職した。戦後復職、東大の総長になられた。野人になった彼は一九四〇年九月に朝鮮に渡り、京城のキリスト教青年会館で日本人及び朝鮮人の混合している会衆にむかって、五日間にわたりローマ人への手紙の講義をした。義のために戦う辛さより周りの非難がもっと辛かった。それを信仰を持って乗り越えていったことは信仰がいかに慰めになるかを教えてくれる。
 私は今新渡戸稲造と矢内原忠雄をはじめ京城帝国大学の教授でありながら朝鮮民俗の研究に大きく貢献した秋葉隆、また泉晴一などが長い間クリスチャンとしての信仰と植民地の関係をどのように対処していたのかということに関心を持っている。
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「在日」3世たちと対話

2005年09月06日 17時54分18秒 | エッセイ
 先日、下関教会で「在日」3世たちと対話をした。私は日本人から差別されたことがあるかと質問した。彼らは日本人からも韓国人からも差別を受けているといった。日本人の差別は言うまでもなく、韓国領事館の職員や韓国人から自分が韓国語ができないということで変に見られたことを覚えているという。そこで私はいった。皮肉にも被差別意識を敏感に感じ、強く持っている人こそ実は人を差別するということを韓国全羅道の例を上げた。
「在日」の中で民族同士で差別することは彼らもよく知っている。
 しかし彼らはオールドカマーとニューカマーとの民族主義にも賛成しない。国籍(民族、国家)を意識せずに普通の人間として真面目に生きることを主張する。私はその意見に大賛成である。「皆さんは日本に寄留している人ではなく、本籍人として堂々と生きること」、李仁夏牧師の本を引用しながらメッセージを述べた。民族にアイデンティティを求めることなく、自我を創造していくべきであろうといったら、彼らは明るい表情をした。それを見守っていた彼らの父もうれしい表情をしていた。
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