崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

民放はなぜトーンが高い

2007年01月31日 06時50分11秒 | エッセイ
 1930年代の海軍省作の映像を学生たちに見せたらナレーションのトーンが高いことが北朝鮮の放送と似ているという。日本でも国会での演説などはトーンが高い。公営放送より民放が、さらにCMが高く煩い。戦前の日本は今の北朝鮮の放送とそれほど違わなかった。トーンの高いのは独裁宣伝の象徴的なものかもしれない。帝国主義の日本、戦後の韓国の独裁を知っている私は北朝鮮の放送にそれほど異様な感はない。現在民放やCMのトーンの高さは商業主義、マスコミの独裁時代を象徴するものかもしれない。テレビがもう少しトーンを下げて静かな放送をしてほしい。
 

政治家の品格

2007年01月30日 06時41分26秒 | エッセイ
 国会代表質疑を見ながら政治家たちの品格の低さが見えてきた。代表質疑を聞く人達が煩く、中には大きい声でやじを飛ばす金バッチの国会議員も多かった。それだけではない。党別に拍手とやじが決まっている。人の話を聞く基本にもなっていない。人の意見に耳を傾けて反応することはほぼない。日本の礼儀作法は飛んだようである。党派に縛られて行動する政治家には品格があるか云々といっても無駄である。「国民の品格」を問う前に、まず政治家の品格を問いたい。

コンピューターウィルス

2007年01月29日 07時16分56秒 | エッセイ
 コンピュータウィルスで二日間実に困った。ウィルスにかかったことがないので警告を無視したことが失敗であった。電話相談所の言葉を信じてデータを保存するのに時間を浪費した。得意先の店からウィルスソフトを買って入れて一晩作業をしてきれいに直った。人の病気と同様予防することが大切であることが分かった。コンピュータで仕事が多く、コンピュータの構造を以て人間の構造まで理解しようとしている。私もコンピュータ中毒になったようである。

無罪を主張すること

2007年01月28日 08時26分08秒 | エッセイ
 テレビには疑われた人が罪を否定する場面がよく報道される。そのほとんどは無罪が明らかにならず罰を受ける。私は世間が裁く時には正義感によるものよりは政治や人間関係の絡みによるものが多いと思っている。多くの政治家の中には人間関係で憎まれてやられたと思う人が多いかと思う。私はその人々の中で潔白が証明されることを期待しながら観ている。正義による罰であれば政治的な状況とは関係なく行われるべきである。犯罪を正しく裁くべきではあるが、憎しみで罰することはいけない。それこそ罰されるべきである。

送別の時期

2007年01月27日 06時29分00秒 | エッセイ
 年度末になると人の移動が耳に入る。送別の時期である。職場の数人が定年と転勤する。私も職場を変えながら友人として人間関係を残してきた。送別会とはそのつながりの象徴的な集まりであろう。しかし別れることは寂しい。隣の研究室で人生と学問を語り合った同僚の川村教授が定年する。彼は私の母校である韓国ソウル大学の師範大学の故李燦教授と交際したことがあり私とはすぐ親しくなった。川村教授は今、定年退職を前に研究室で古い資料を丁寧に整理している。自分のためというより後輩のために整理している。その気持ちが私には強く伝わってくる。

サハリン瑞穂事件の謎

2007年01月26日 06時08分14秒 | エッセイ
 サハリン瑞穂事件に関して校正中だが、新しい情報が入ったので修正をしている。瑞穂事件とは終戦直後サハリンの農村である瑞穂村で日本人が朝鮮人を集団虐殺したことである。近著でその全貌を紹介するが、犯人の首謀者の行方が判らなかったのが謎であったが、ソ連軍が進駐してきて、すぐ銃殺されたという証言を見つけて大きい謎が解けた。この全貌を詳しく記録して残したいが、その調査と出版の補助を希望している。叶えられるかはこれからである。

ソ連軍裁判文書

2007年01月25日 07時50分30秒 | エッセイ
 一昨日、元テレビ局の製作者であった人に電話をして昨日福岡で会った。私はサハリンに関する本の出版のことで確認しようとした時、彼が背負ってきたリックサックから私が確認したい資料ををテーブルの上にいっぱい出して良かったらどうぞと言われた。私と家内は驚いたのは言うまでもない。これは2冊分の量であり、丁寧に扱い、資料として出版することを約束して帰ってきた。仕事の重さと嬉しさが交差した一日であった。

日本は良い国

2007年01月24日 22時04分46秒 | エッセイ
 広島大学の留学生であって金さんが昨年中国へ帰国した。彼から中国の旧暦の正月の挨拶としてメールが届いた。彼が在日中に、私が中国について否定的なことをを指摘すると彼は中国は経済的発展していることを含めて中国の良さを主張し、中国が大国であると自慢することがしばしばであった。しかし帰国してから、彼は日本に8年間留学したことの体験があるゆえに中国での適応が難しいという。彼と妻と娘の3人が日本が如何によい国であるかをしみじみ感じており、娘は日本留学に向けて勉強しているという。彼も日本での生活を思い、また日本で生活してみたいという。日本はそのように本当によい国なのであろうか。 

当選の嬉しさ

2007年01月23日 06時40分59秒 | エッセイ
 教会で役職を断ったことが話題になった。役職は神への奉仕なのになぜ断るのかという意見とリーダーの役職に遠慮すると言う意見の違いがあった。これは社会でも時々混同している。日本では多くの役職が奉仕であり名誉職ではない。しかしタレント出身者の宮崎市長選の当選の嬉しさが映像で映ったのを見ると仕事つまり政策などへの問題が埋没した感じがする。役職が如何に難しいかという点はほぼ表れず、嬉しさだけが誇張されている。タレントや俳優などが知名度が高いということで当選したりするが、ほんとうに政治家としての資質を持ち、僕になり、より奉仕の出来る人、名誉ではなく「僕」という意識を持って全力を尽くす政治家に任せるべきである。

韓国の楽器に触って

2007年01月22日 07時36分25秒 | エッセイ
 下関韓国教育院に韓国の楽器がほとんど揃っているということで音楽や韓国文化に関心の高い女性5人を連れて行った。琴(コムンゴ、カヤグム)、笛類、打楽器(チャンコ)など楽器に触れながら演奏の映像を見る楽しい時間をもった。家内は琴を演奏し、私は笛を吹いて見せて拍手を受けた。これから教会のメンバーを中心に小さい楽団を作って駅前ででも披露してみるのが夢である。

山口の主産業は「総理生産」

2007年01月21日 06時35分54秒 | エッセイ
 最近韓国からの来客が多い。2月初めには3組がダブって希望しているので調整している。福岡を経由する人や関釜フェリーなどを利用してくる人が多い。さすが下関は大陸の関門であるという歴史を反映する。戦前は大陸との関門として重要な役割を果していた。しかし戦後下関に空港を作らず福岡に先取られてしまった。連絡船だけでの関門の役割は時代遅れになり、下関は縮小され、廃れていった。また新幹線の駅と在来線の駅との駅間がかなり離なれているなど粗末な政策によりますます縮小してきている。山口県の主産業が総理大臣生産だと皮肉られても住民にとっても他の地域からこられる方にとっても交通は不便である。これだけでも政治の下手な典型な地域であると感ずるところである。

九大韓国研究センターで話を

2007年01月20日 06時21分23秒 | エッセイ
 昨日九大、韓国研究センターで植民地時代の人脈に関するソウル大学全京秀教授の発表をめぐって伊藤亜人氏と一緒に多くの話をしてきた。泉先生のクリスチャンとしての社会への貢献が著しいと感じた。私は主に植民地時代の人物と戦後の人脈の続きに関しての、私が撮った写真をみせた。私を留学するようにしてくださった故泉晴一先生を二度韓国で案内した時の写真を見ながら、人の一生をどう評価するかは難しい。その評価は神によってのみ正しくされると思う。多くの先輩や友人が亡くなったことにいまさらながら気ずかされた。

研究所作れという話

2007年01月19日 06時00分18秒 | エッセイ
 韓国の研究者たちの中では定年後研究所を作る人が多い。私の友人も数人が作って、昼の時間を過ごしている。それは研究活動や仕事が中断されないようにすることはもちろんで意義があるが、韓国の男性は「外主人」(夫)として家庭に「杜門不出」(家の中にいる)が悪いイメージを持っているからとも言われている。私に「韓国で研究所でも作ったら如何か」という誘いもあったが私はその気にはなれない。個人の命とともに消滅する研究所は考えていないとその都度答えた。最近また言われたが本気で研究所を持つことは考えていない。

弟子が沖縄から

2007年01月18日 05時50分50秒 | エッセイ
 6年前広島大学総合科学部を卒業して郷里の沖縄で仕事をしている弟子の喜屋武君が出張先の福岡から拙宅まで来てくれて楽しい時間をもった。1970年代初日本で始めて現地調査をした沖縄の宮古島が懐かしく浮かび上がった。彼は沖縄の琉球新報のキャラックターのリュウチャンのキーホルダーやシャツなど海の色とかわいい人形のお土産を持ってきて、我が家の中にリュウチャンがいっぱいの雰囲気になった。遠方の韓国と沖縄からの二人の来客と楽しい時間で私の仕事はオールストップの状態である。

李光奎氏来宅

2007年01月17日 06時00分49秒 | エッセイ
 孔子の言葉に「有朋自遠方来不亦楽乎」つまり遠い所から友人が尋ねてくるというこれこそ嬉しいことではないかという名句がある。ソウル大学名誉教授の李光奎氏が来宅している。彼の友好訪問である。ほぼ一方的な彼の日程で来たので私には大変な日程で無理が会った。しかし友人が尋ねてきて嬉しい。彼とは40年近く前に、彼がウィーン大学で博士号を取得して帰国した1966年くらいからの付き合いである。最近の著である『差別を生きる在日朝鮮人』の共著者でもある。彼は去年暮までは韓国海外同胞財団の理事長を任期満了して終え、3月からアメリカのEast Rcok研究所署長に赴任の予定であり、その合間に尋ねてきたのである。夜遅くまで話が盛り上がった。