崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

レプリカ文化

2015年07月31日 04時39分22秒 | 旅行
『韓国祝祭50選』という韓国語の本を手にしてパラパラめくってみた。私が知っている限り伝統的な祭りはたったの数か所、その以外は伝統的な要素を生かして最近作られたものである。エリック ホブズボウム Eric Hobsbawmらが言ったような「作られた伝統」に過ぎない。慶州の天馬塚を思い出す。新羅時代の巨大な封墳の墓の中に入って観覧、出てからより詳しく知りたくて読んだ看板によれば封墳は1970年代に作られたとのこと。巨大な建造文化遺産である朝鮮総督府庁舎を壊した韓国、歴史を復元するという文化政策はどうなっているのか。昨日毎日新聞(14面)に「世界文化遺産になった百済歴史遺蹟地区」(三嶋)が全面紹介された。日本の近代遺産登録とともに文化遺産として登録されたものである。最近の登録関係の記事などをみて私のUNESCOへの不信感は強くなっている。
 また昨日の毎日新聞(7)には「抗日記念日準備着々」「八路軍施設を案内愛国教育に熱」という記事が載っていた。私が朝鮮戦争で知っている中国の支援軍のイメージが他軍に比べて相対的に良く、調べている内に八路軍の映像に民間の女性を性暴行した人を銃殺刑にする場面を見た。軍律の厳しかったその八路軍をもって抗日愛国を教育すると言い、盛大な抗日記念日を準備するという。それが歴史認識か、伝統復元か、指導部の認識がより分からなくなった。
 博物館などでは説明を効果的にするためにイミテーション、レプリカが利用されている。しかし人は本物に価値があるというオーセンティックauthenticな見方が強く、本物ではないレプリカに失望するのが一般的である。しかしそれも文化であることを認めざるを得ない昨今である。市街の祭りや博物館の遺物、遺蹟などもレプリカが多い。長い歴史からみるとレプリカ文化自体も本物になるだろう。レプリカと本物が区別し難い。

천마총;발굴조사 후 내부를 공개하도록 하여 신라 적석목곽분의 구조를 알 수 있도록 복원했고, 출토 당시의 유물이 놓여져 있었던 상태를 볼 수 있도록 모조하여 이해를 돕게 했으며, 내부의 공간을 이용하여 중요 유물의 모조품을 전시토록 배려했습니다. 이 무덤의 높이는 12.7m이며 밑둘레는 157m에 달합니다.

ホセ・リサール

2015年07月30日 05時14分24秒 | エッセイ
昨日フィリピンの映画(2時間54分)「ホセ・リサール」を視聴した。映画は1998年作であり、スペイン語と英語の字幕のものである。周知のとおりフィリピンはスペインに377年間植民地とされ独立運動も多く、ホセ・リサールは植民地政府のスペインに留学し医者になって文学創作、画家として活動をし、教育を通して独立運動し、1896年に公開処刑された人である。私は以前に彼が処刑されたマニラのリサール記念公園を見て回ったことがある。彼の著書などを読み資料を集めていて、彼のゆかりのあるところを中心に調査に行こうとしている。私は植民地が生んだ英雄の調査中であるがその調査の続きである。韓国の安重根、アイルランドのケースメント、シンガポールのラッフルス、南アフリカのセシルルーズなど植民地が生んだ英雄シリーズと言える。
 ホセ・リサールは1861年にフリピンで生まれ、1896年12月30日に処刑された。その日が「リサールの日」と指定され、祭日になっている。長い植民地において政府と教会は彼の敵、特に総督やカソリック神父たちの偽善などと戦う小説を書いた。さらに自由主義の改革運動を起こした。逮捕され追放されても眼科を専攻とし、スペイン支配の長い植民地から自由、独立を訴えた。フィリピンは1898年からはアメリカの植民地なった。1945年戦後のナショナリズムにより最も有名なヒーローとなった。私はヒーロー作りのもう一つのプロパガンダ映画かと憂いたが、日本植民地の朝鮮の安重根とダブらせながら見ることができた。宗教と政治が複合されることの怖さ、彼の小説が焼却されるのをみて古代中国、日本植民地、現在の韓国などでも普遍的に存在するものであるように感じた。残酷なことや悲惨なことから悲劇的な人物が生まれる、つまり英雄出生の構造が理解できる。犠牲が報われ英雄になるのである。ただの犠牲は悲しいだけである。

「逃げる」

2015年07月29日 05時11分17秒 | 旅行
 昨日は安保法審議の国会中継を見た。午前中は与党の質疑であり、討議であった。つまり与党議員たちの政府の安保政策のディスカッションであった。しかし午後になると一変して与党と野党の対立のディベートになって討論として熱意が高調して面白かった。与野党の攻防では拍手とヤジもあり、ドラマより面白い。ドラマやCMにも国会中継の場面のようなものがあるのはその面白さであろう。与党は憲法の文句をそのまま守るよりは中国や北朝鮮などの周辺情勢が変わり日本の安保の脅威になっていると強調し、憲法解釈を例外あるいは当てはめることは許容されるべきだという意見である。しかし野党は(平和)憲法をそのまま守ることがすなわち平和を守るという主張である。戦争法案と言われても基本的には平和のためである。
 私はその論争を視聴しながら党利政略的な論争より平和にポイントをおいた。北朝鮮が核を持つことがすなわち戦争をするという意味ではない。平和を守るためだというはずである。軍隊や法律があるからすなわち戦争を連想することはよくない。軍は国家の生命保険や福祉機関のように考えるということを私は軍隊で学んだことがある。朝鮮半島では国民皆兵制、徴兵制を持っている。それが戦争意識を高めていくか否かを考慮、批評する必要もあろう。平和のためと言うより青年を強制している人権の問題があろう。「戦争になればあなたはどうする」と質問された青年が「逃げる」という答えがでるように、それが一般化することが平和への道であろう。各国で学校教育やメディアをもって戦争をしない国民を育成すべきであろう。戦争を主導する政治家、それを賛美する人によって戦争が起きてきたことを私は体験した者である。戦争は強盗と喧嘩が拡大したようなものである。弱腰の国民は決して卑怯な国民ではない。

The Origins of the US Army's Korean Comfort Women

2015年07月28日 17時36分39秒 | 旅行

The Origins of the US Army's Korean Comfort Women (HEART PRESS) By Choi Kilsung, Professor at University of East-Asia, Professor Emeritus at Hiroshima University

(3) Chapter 2 From Rape to Prostitution

As described in Chapter 1, when the US Army came to the village there was an explosion of sexual violence, and when prostitutes flocked to the village, they became the saviors of the village.
Sexual violence and prostitution do exist outside of war. These things continued after the war ended and prostitution still exists in South Korea today, so much so that the country has even been called a "prostitution paradise". According to a report by the Supreme Prosecutors' Office of the Republic of Korea and the Korean Women's Development Institute, "There are one million women engaged in prostitution" in South Korea.
Given the situation in Korea, the author writes that neither he nor the many other scholars who had done field surveys throughout South Korea had ever heard of the so-called "comfort women". And yet, the issue found its way into Japanese-language media and then became a political problem and human rights issue within South Korea.
In other words, the “comfort women problem” was made in Japan.
The US Army's comfort women spread throughout the country and became part of the official policy of both the United States and South Korea. These comfort women were deemed by the Park Chung-hee government to be patriots who were ensuring the safety of the Korean Peninsula by satisfying the sexual urges of American servicemen. They were treasured by the Korean government because of their role as earners of foreign currency.


Details are here;

*Chapter 2:http://www.sdh-fact.com/…/Chapter-2-US-Armys-Korean-comfort…
*Author profile: http://www.sdh-fact.com/auther/choi-kilsung
<For your reference:>
*Introduction & Contents: http://www.sdh-fact.com/CL/Introduction-TOC-.pdf
*Chapter 1:
http://www.sdh-fact.com/…/Chapter-1-US-Armys-Korean-comfort…
Questions are welcome.
MOTEKI Hiromichi, Secretary General for KASE Hideaki, Chairman Society for the Dissemination of Historical Fact
Phone: 03-3519-4366
Fax: 03-3519-4367
Email moteki@sdh-fact.com
URL http://www.sdh-fact.com
Note: Japanese names are rendered surname first in accordance with Japanese custom.

「帝国の慰安婦再読」

2015年07月28日 05時18分02秒 | 旅行
 一昨日の本欄で朴裕河氏の慰安婦問題の講演に地域のメディアが冷淡であると書いた。それについて読者たちから多くの書き込みやメールなどで反応があった。ある人は報道判断があったのか、それは本社の方針ではないかなどの意見もあった。しかし昨日の毎日新聞の全国版には「帝国の慰安婦再読」の掲載文が出た。本社と支局の距離は遠いようである。地域社会へ奉仕のためにと講演会を公開してもある人は宣伝のため、あるいは本を販売するためではないかと言う人もいる。今度は朴氏の本を買ってサインしてもらおうとした人が多かった。しかし私は不親切と思われるかも知れないが本の販売などはしなかった。度々市民に公開する行事を行っているが後味が悪い時もある。今度は主に本欄のFB友と友人・知人とメディアだけに知らせであったが多くの方々が来られ、嬉しかった。聴衆の数や幅広い年齢層の参加者、質問などの様子をみて市民の関心や意識のレベルを知る。
 反日・親日のコリアンバッシングの多くはおそらくきちんと読まず理解せず知っていると思い込んでいる群れによる「誤解」が原因ではないか思う。川島氏の「요코이야기」(「竹林はるか遠く」)朴氏の「제국의 위안부(帝国の慰安婦)」などがそうであろう。誰しも誤解されることがあり、その気持ちは普遍的であろう。誤解される人より誤解する人の声が大きく積極的であることも事実であろう。私の体験では善意をもって奉仕するつもりのものが誤解されることが多い。時々期待して人を推薦して失望することも多い。それは誤解のレベルをはるか超えて「裏切られた」という気持ちになる。人間関係はここから崩れる。人間関係を悪くしない秘訣がある。それは自分自身が思いやりで、親切に、やさしく、善意とか奉仕などの心を持たないこと、人に期待しないことであろう。まったく情のないドライな関係、面白くない社会への道へ、。いやいやこれは不味い。心配だな。(写真は鵜沢副学長のご挨拶)

「被害を大きく受ける」

2015年07月27日 05時38分59秒 | 旅行
 今日は1953年7月27日朝鮮戦争の休戦日である。私が景福中学に入学した年であった。戦争中、入学し休戦となった。しかし歓迎するムードは一切なかった。北朝鮮によって南侵されたが反撃して、北進し、統一が目前になった時、中国から支援軍が参戦して国連軍の苦戦になり38度線近くで休戦することに不満な雰囲気さえあった。戦争が嫌だとは誰しも言うが実際戦争が始まると休戦とか平和とかの言葉は意味を失くし、勝つことしか考えないことを私は経験的に知っている。おそらく今平和の時代の平和主義者も戦争が始まると勝つこと、ひたすら勝戦しか考えないだろう。スポーツやゲームのように戦争はそのメカニズムによって進行する怖さがある。
 今の日韓関係の不和をときどき私は戦争中のように感じている。休戦することは難しい。扇動する人がいる。支援する人がいる。前線の戦線を担当する政治家、愛国主義を語る国民が多い。反日と嫌韓が高調する。中止することは難しい。喧嘩もそうである。始まったらやめることは難しい。中止するか休戦するためには必要なものがある。それは被害である。お互いに「被害を大きく受ける」ことが休戦に、平和に至るということを知らなければならない。だから戦争が起こらないようにするしかない。愛国、愛族の愛はよいが、愛は敵を持ちやすいことに注意すべきである。教育が必要である。(写真は朝鮮戦争勃発記念式、韓国群山で筆写撮影)

熱意の議論と冷淡なメディア

2015年07月26日 05時32分16秒 | 旅行
 昨日朴裕河氏の講演会「帝国の慰安婦の著者が語る慰安婦問題」には100人ほど集まり、コメント、質疑など総合的に2時間たっぷり行った。以前科研の研究会に朴氏をゲストスピーカーとして推薦したが実現されず今度別途に行ったものである。研究会の形をそのまま公開するということで広く広報はしていない。私のフェースブックとブログに発信したものと毎日新聞と朝日新聞のご協力でお知らせしていただき、聴衆50人位のものになろうと予想して資料を50部ほどとした。しかし70人の記帳、他に学生20人、教職員などあわせると100余人ほど、予想の2倍の聴衆の方々が来られた。東京、北海道、広島、福岡などからも来られ、地元の知人たちも参加した。中には我がマンションの住民も数名参加した。福岡のRKBテレビからは高藤秋子記者とカメラマンなど3人が来られ終始撮影、別途インタビューも行った。西日本新聞の平原記者も取材、中国新聞の伊東氏も懇親会まで参加してくださり、報道関係の方々に感謝である。しかし地元の下関のメディアからは一人の参加者もなく、それが話題になった。ある人は西日本新聞の支局を再開すべきだとも言っていた。それよりメディアにも言論の自由がないと断言した人もいた。
 朴氏の講演は主に『帝国の慰安婦』の論点となる部分を紹介。売春、慰安、帝国の植民地と戦争、戦後処理において家父長制による女性差別などが指摘された。世界日本研究者たちの声明文をもって賛成するところを指摘した。コメンテーターの原田環氏は韓国をはじめ世界諸国における問題から普遍的な扱いはどうであろうかとコメント。10人の質問紙を読み上げ総合して発表者のレスポンスを聞いた。和解と謝罪の問題に触れた。私はクロージングとして日本は宣伝はしていないが補償としての行動をしていること、再三謝罪しても韓国等からは謝罪と受け止められていない現実に総理大臣以下、閣僚が机を並べで謝罪するのはどうだろうかと述べ、エンドとした。懇親会では東京からこられた拉致家族支援する会の会長であり、東京キリスト教大学教授の西岡力氏が世界日本研究者たちの声明文に対応する日本人たちの声明文が8月に発表するという内容の説明がなされた。争論になりそうであったが、料理を前にしていることからその時点で議論は止まった。

70とは

2015年07月25日 04時47分44秒 | 旅行
 昨日は韓国のあるテレビ局から取材に来られた。本社から2回も電話があって趣旨は分かった。それは戦後70年をふり返って見る日本の植民地に関するものであった。特に日本から朝鮮半島へ移住した歴史に関するものである。私には「収奪と侵略」について語って欲しいという。そのテーマに関して経済的な立場から研究している方を紹介した。先日は他社から似たような企画の話もあって韓国でも70周年記念番組が多く作られていると分かった。なぜ70年がそれほど重要な節目になるのだろうか。還暦の60周年か、100年でもないのに、70周年で話題になるのはなぜなのか。それは現時点が問題になっているからであろう。日中、日韓などの関係が上手くいかず互いに戦争のような脅威が存在している時、それを節目として話題性を強めているのである。
 歴史認識もそうである。過ぎ去った過去が問題になることはない。ただ教科書によって学ぶものに過ぎない。しかし現在の状況によって政治的なカードとして生き返って恐ろしいものにもなりうる。それが「歴史認識」という言葉である。慰安婦問題が典型的な例である。今日は台風前夜の隙間を利用するように朴裕河氏の「慰安婦問題」の講演会が行われる。毎日新聞と朝日新聞の案内だけで広く広報はできていない。研究会を公開する形にするつもりである。戦前に帝国と占領地の版図の中で起きた問題が戦後の現在日本と韓国の問題として変身した問題に突っ込んだ議論ができればと期待する。

夏休み

2015年07月24日 04時43分36秒 | 旅行
 今学期も終わりに近くなっている。夏休みには学生、教職員たちもいなくなりキャンパスは寂しくなる。「休み」を楽しみにする人は多い。朝鮮半島では休日を「遊ぶ日」とも言う。労働から解放される、リフレッシュするともいう。また人によっては刑務所から釈放されたような気分になる人さえいる。大げさに言うと休みに関して考え方、態度が人生観であると言える。
 しかし高齢化社会では定年退職し、年金生活になると仕事がなく、困っている人が多くなる。つまり休みがありすぎ、多すぎになっているからである。また職業であっても作家などの自由業の方たちは休みと仕事が重なっていていつも自由と思われるか、いつも労働しているようになる。研究者もそれに似ている。研究者によって土日や休みはもっと研究に没頭する時間になる。長い夏休みをどう過ごすか。休息、遊ぶ、労働それぞれ怠け者にはならないことを考えてほしい。(写真は生徒を引率来校してご挨拶を語る韓国馬山の舞鶴女高の教頭先生の徐先生)

「生食文化」

2015年07月23日 03時56分14秒 | 講義
新しく留学を希望する三十数名の高校生たちと先生たちが来校した。雨の中下車する一人一人を迎えた。私が赴任した時はまったくいなかった留学生。学長、副学長をはじめ多くの方々のご協力で今では数も多く、教育状況も安定してきている。最初は同僚たちからも反対され、悪い陰謀でも企てるのではないかという見方をする人もいる中で進めてきた。元学長に長く提案し、説得したが大いに賛成すると言いながら一人だけであれば良いと言われたこともあった。今は百数十人に至っている。私は大学の経営を超えて留学を通して国際化を強く期待して推進したのである。今、留学生に「日本文化論」を講義している。先週は日本食の特徴を魚を生で食べる「生食文化」と「納豆文化」を講義し、授業の様子を録画していただいた。日本留学の経験者である私が留学生を対象に講義し、体験的な日本文化論を公開しようとする。
 同僚である地理学者の川村博忠氏がベルギーの国際地理史学会に参加発表して帰国された。中国や韓国など東アジアからの参加者が少なく、日本の学者の熱意があったというような話を聞いた。EUROを使ってタクシーに乗り、昔ヴィーンで留学した経験を生かした数日間の話を楽しく聞かせていただきながら一緒に昼食をとった。彼は80歳近くてもご自分の健康管理の話は少なく、奥さんの話が多い。10時間以上の飛行時間の負担などには触れない。疲れを知らず青年のように夢を持っている。去年厚い著書を出版されたのにまた新しく執筆を計画している。

東京大学コリア・コロキュアムでの講義録(要約)

2015年07月22日 03時47分01秒 | 旅行
今週の土曜日25日にいよいよ朴裕河氏の講演「慰安婦問題」を行います。参加者は私が去年東京大学大学で講演した慰安所日記の講演録と合わせて聞いて下されば幸いである。

東京大学第二回のコリア・コロキュアムで講義録

司会:
慰安婦帳場人の日記を読んで』というテーマで昨今にぎわっているいわゆる慰安婦問題について人類学者でいらっしゃいます崔吉城先生がどういう風に考えられているのかということをお聞かせ願いたいと思っております。
私:
今日は日韓関係の悪さに乗るのではなく、最近私の読書会で読んだ本の話をしようと思います。韓国では今我々が書くような日記を書く習慣はありませんでした。日本の影響を受けて近代になってから現れたものであり、しかも書かれた日記も多くありません。今日ここで紹介する日記は慰安所に直接関係した帳場人のものですので、慰安婦関係の本としては非常に貴重な資料だと思います。1943年から1944年の2冊は慰安所管理人としての日記です。日記はハングルと日本語の漢字やひらがな、カタカナ混じりで私のような立場の者が翻訳しやすいのではないかと思います。なぜなら当時植民地教育を受けたとしても彼の日本語の使い方は私が使う日本語と似ているからです。濁音や長音などが私とほぼ同様に間違っているところが多いのです。その時に日本語を習っても、日本語のレベルは私よりはちょっと上かもしれませんが、基本的な日本語の間違いは私と同じであることが分かりました。
また日本語と一番異なる部分は距離の単位です。日本では「一里」「4キロ」、朝鮮ではその10分の1です。日記ではいろいろなところで混同し、間違いが出ており、時には日本式、時には韓国式で書いています。彼は日本帝国に忠誠を尽くした人だと言えます。日記は万年筆で書いたので、インクが薄くなったりしています。毎日書いたのか2,3日まとめて書いたのでしょうか。色は鮮明ではないですが、青色です。漢字とハングルと混合して書いていますが、日本語の固有名詞などはほぼ例外なく日本語の片仮名を使っています。朝鮮人たちは全員創氏改名で書いてあり、朝鮮人同士では朝鮮語、日本人とは日本語を使っていたようです。彼が乗った軍用船の名前を「○○」と伏せています。その○○という部分を伏せているのは、もしかしたら読まれることを恐れたのではないでしょうか。この日記から戦地の慰安所で稼いだ様子、戦争もお金の力でやっていたように感じます。3万2千円を本国の実家へ送金、今のレートでは低く見積もっても1000倍、ある方は3000倍から5000倍、つまり3万2千円というのは今のお金で3000万円か、5000万円ぐらいということになります。一つの慰安所でこういうようなやりとりがあって、銀行も数多くあるし、そのような慰安所がアキャブだけで36か所あったわけですから、どれくらいのお金がその地域で動いたのかが想像できます。
 釜山から船に乗ってビルマへ、インドと国境の地、アキャブという大変激しい戦地でも、慰安所がおそらく30軒ほどあったようです。車で高さ3050メートルの険しいアラカン山を越えていく過程がきちんと書かれています。そこからラングーン、シンガポールなどへ移りながら慰安業を営んでいて、その人間関係のネットワークはインドネシアやボルネオなどまで広がっていました。当時朝鮮人たちは東チーモル地方まで人が往来しながら女性を連れて行って慰安業を行ったことがわかります。マレーシアで食堂をやった人が料理店をはじめ陶器屋、餅屋、お菓子屋などの商売をし、その国の人も巻き込んで、牧場や農園などの開発まで、あらゆるところに商売を広げていったということがわかります。
 彼は慰安業を恥ずかしい商売とは思っていなかったようです。彼は日本の記念日などには慰安婦たちと積極的に公の行事に参加しました。人に誘われてビルマ人の遊郭に遊びに行ったのですが、つい怖くなって戻ったなど、そのまま帰ったのはちょっとビルマ人の遊郭は自分たちの慰安所とは違うという意識を持っていたようです。彼は教養のある人です。博物館とか映画をしょっちゅう見ていました。多いときは週に2回。あちらこちらの劇場で日本のニュースや舞踊なども観光を勉強と兼ねて行っています。一方では占いをしてもらったこともあります。
 移動する時に証明書を持って、軍施設を利用したということは注目すべきです。自動車とか、軍の施設を利用するということはどういうことだろうか。軍との密接な関係があったのではないだろうか。しかしなぜいちいち許可申請をしたのだろうか、軍人ではなかったからでしょう。軍人であればおそらくそこまではしないだろうとも思われます。軍の施設に便乗した記述が多いので、正式には軍人とか軍属ではなかったと思われます。そうだとすると、軍隊なら泊まるところが決まっているはずなのに、彼には決まった場所はなかったのです。ある個人の家を借りて使うとか、基本的には月にいくらというように支払って、食事も買って食べていたので、移動とか宿舎などを含めて考えると、彼は軍人でもないし、軍属でもなかったことは確かです。
 シンガポールの慰安所の菊水倶楽部は都会の真ん中にあるのです。都市の真ん中に慰安所がありました。軍人が訪ねて来るようになっていたようでした。経営者たちは慰安所を売買したりしました。どこの家にするか、保証金を払って、毎月いくらとかで借家にしたり買ったり売ったりしたので、基本的に売買によって慰安所が設立されたのは間違いありません。ただ軍の兵站から慰安所を移動させなさいという命令が来たことです。結局慰安婦たちが反対して、すぐには移動しませんでした。慰安婦を性奴隷にしたのか、そうではなかったのか、移動はどうしたのかなど気になる部分があります。 
 収入が最高記録の日だと喜んでいます。「軍人がいなければ退屈でしょうがない」という慰安婦もいました。彼女らは一人一人がお金をもらっており、韓国に送り、確認の電報を受けとっていました。慰安婦の生活はどうかというと、結婚していったん離れても戻されたりした人もいますが、そのまま家庭に入った人もいて、全体としては割と自由で、映画館に行ったりもしていたことが日記に書かれています。日本の占領地だったので、軍隊との関係は、軍政の時で、軍がコンドームを配ったりしていて、健康、衛生管理という点では軍が経営していたと言えるかどうかが非常に難しいところですが、これを読んでいると、基本的には軍が治安など、全体を担当しているので、そこに行くために入国許可証など色々なものが必要あり、基本的には一般人と軍との協力関係にあったのではないかと思われます
司会:
帳場人や似た人物が書いている日記であれば、それは大変重要な資料であることは事実だと思います。質問をなさる方は御所属とお名前をお願いします。
質問者1:
私はエッセイストなんですが、今日のお話の中で、日記の題名に慰安所という名前がつけてあります。しかし、ここで働いている女性たちはこのいただいた資料の中では、酌婦とかあるいは慰安婦、それからもう一つ「稼業婦」と呼ばれており、問題となっている慰安婦というのは、この日記から…慰安婦との違いは、
私:
酌婦というのが、警察に出す文書では「稼業婦」と「稼営業婦」となっています。売春婦という言葉は使っていないですね。全体としては、強制性のある慰安婦とは全く感じられませんね。日記には一つも強制して連れて行ったという文脈はないですね。
質問者2:
朝日新聞の桜井です。今の話と関係しますが、韓国ではこの日記ですね、日本軍による朝鮮人の強制動員の決定的資料だとされており、今も出ていましたが、この日記には募集の過程がない。そうすると韓国ではどの部分が決定的な資料なんですか。
先生:
韓国語の裏表紙に書いてあります。「戦時動員の一環として組織的に行った」という内容の文です。この部分は安氏が何を根拠にして書いたかわからないです。
質問者2:
要するに、安先生の序文には書いてあるけれども日記からは読み取れないということですか。
私:
裏表紙には第四次募集団の募集は軍の指示に従って強制連行したのではないかとか、軍が業者に強制して連れて行ったのではないかという文を書いています。
質問者3:
一つは、この日記の筆者は雇われているわけですよね。そういうことは、経営者とは別にいるわけですね。経営者と日記の筆者との関係とか、経営者について何かかが日記の中に出てくるのかをちょっとお尋ねしたいです。
私:
経営者の名前はだいぶ出ています。文脈から見ると、彼ら経営者は慰安所だけではなく軍事工場などにも手を出していますが、朴氏は実務をしていました。しかし朴氏は基本的には経営者にはなっていないんですよ。その慰安所の社会の中では最高の実務者だということですね。
質問者4
韓国朝鮮文化研究室の本田と申します。今の六反田さんの質問に関して、経営者というのは出資者、いわゆるスポンサーということでおっしゃっているのですか。
私:
その経営者たちは、家を買い慰安所として使い、車も買っています、そのお金がどこから来たのかはわからないです。その資本は朝鮮から持ってきたり、そこで商売したり、して儲けたものでしょうか。それ以上はわからないです。
質問者4
具体的な名前も出てくるんですか。出資者というか資本者というかオーナーの名前。
私:
オーナーの名前は出ます。夫婦であることがわかります。この日記からは朝鮮人だけで、30何か所で、大体計算して慰安婦が一ヶ所に16人から20人ぐらいいて、アキャブだけ600人から800人の女性が来ていたのではないかと思います。売春には「兵隊券」という軍票を使いました。
質問者4
「売春宿」とありますが、慰安所と違って売春宿があったということですか、慰安所というのはどういう意味で使われていますか。
私:
慰安所というのは、サービスだと言いますか、まさに「慰安」でしょう。この日記では経営者には慰安と言う意識があったようですが、基本的には実際に商売ですし、そういう意味では売春業であるといえます。補注:彼はビルマの慰安所を売春と言っていました。
質問者5:
当時解雇するような記述があるのか。そもそもこの人はどういう人なのか。どうしてビルマに行って仕事をするようになったかはその日記からわかるのか。
私:
まず朴さんという人がどういう人かというと、代書士という仕事をして、その後慰安婦の売春業を朝鮮でやっていた方です。その延長でビルマへ行ったと思われます。軍隊が彼を連れて行ったかどうかについては、この資料では直接軍が連れて行った印象は全くありません。
質問者6
神田外語大の林です。一つは女性の慰労に対してどこがお金払ったのかという記述、例えばシナ港内にも軍が来ていてという記述がありましたが、お金の移動、出どころが気になったのと、それから、私は台湾で韓国人にインタビューすることがあって女性の話にもありましたが、ケースによってはすでに両親にお金を払って娘だけを連れて来るというのは中にはあるようで、日記の中に女性を連れて来るとか、原因に関して書いてあるのかなと思って。
私:
それは韓国でも問題になりました、前借金ですね。行く前に準備金として貰って行ってから働いて返す。それが普通です。日本の映画でも前借金がよく出るんですね。親がそれを貰って娘を売ったりする。この本の解説にはその前借金があったはずだと書かれていますが、日記の文には出ていません。
質問者7
先ほど先生は韓国の日記は日本の影響で始まったとおっしゃいましたが、そういうことを評価することは韓国では問題になりませんでしたか。というのは両班あたりがかなり書いていたように私は感じていましたが。そういう意味で日本の影響でという表現でというのは韓国ではどうなのか。
私:
日本との関係で日記の書き方に注目したいです。日本植民地時代の教育によってきまったフォームに合わせて書くことを意味します。
司会
ということで時間ですが、さきほどのお話の中では、これが出版されるということで。もう一度先生に拍手を。どうもありがとうございました。

時々裏切られた背信感

2015年07月21日 04時32分34秒 | 旅行
 広島大の教え子から今年も忘れずお中元が届き、美味しくいただいた。普段は高くてなかなか買えないものを贅沢に、美味しく、そして感謝して味わった夕張メロンには彼との思い出がある。サハリン朝鮮人の炭鉱労働史を調査した時彼の運転で夕張に寄ったことがある。私の頭には夕張は炭鉱しかなかったが、彼は夕張といえばメロンだと教えてくれた。それで炭鉱に行く途中、車を止め唇が腫れるほど美味しいメロンを飽食した。その後私の頭には夕張というと炭鉱よりメロンと印象付けられている。また昨日は家内が母の味の緑豆のチヂミを作ってくれた。それとメロンは最高の贅沢であった。メロンは子弟関係の強い情の絆になっている。
 一方年を取るにつれて感謝を多く感じながらも時には裏切られ、背信されたという感情も増えていくような気がする。自分に自信がなくなっているのかも知れない。どうしても心に留まっている人たちが浮かぶ。ある人は彼の人生の大きい転換期に私が2回も機会与え、順調に人生を歩んでおり、嬉しく、幸いと思っているが、彼からは有難うの言葉さえ聞いたことがない。もう一人は彼が必要とするところに何度も推薦して彼の希望が叶った。彼は必要な時だけ親しく近づいてくるが、結局私を裏切り、離れていったのである。このようなことはよくある話ではあるが在日や韓国人の中には先輩や恩師を否定的に非難して自分が優れた人になりたい人が多い。私の恩師もある弟子に反論反撃されて悩んだ。私の同年輩からも背信された話をよく聞く。フレジアーが父殺し民俗に注目したように、人間社会には普遍的にあること、ただ加齢によって背信感を強く感じるに過ぎないのかもしれない。

「国際紳士」

2015年07月20日 04時34分21秒 | 旅行
昨日は大連から来られた二人と門司の大連航路記念館へ行った。案内で行ったが、実は私もその記念館ははじめてであった。満州映画に関する資料も多く林氏にはよい良かった(写真左は林氏、右は同館の室長の松永武氏)。数十年間中国を一人で調査をしてきた私には中国人相手の辛い経験もあり、楽しいことさえそれで帳消しになっている。しかし最近国際化された二人の中国人に会ってその印象はキレイに消えた感がする。講師として来られた崔戈氏はアメリカコロンビア大学に留学した方で明るく東洋の敬老思想と西洋のレディファストなど調和したマナーを身に着けた青年である。中には対照的な人もいる。中国の漫漫的、西洋の個人主義だけを取り入れて悪賢く生きる、悪い点だけが混ざった品のない人間も多い。国際化によって「国際紳士」が生まれる一方「国際小人」も生まれる。韓国人にとってアメリカンドリームは広く大きい。我が世代の人はアメリカに留学して帰国して出世する夢が多かった。しかしアメリカへ200万人ほど移民して、その夢は小さくなり、否「問題児をアメリカへ」という言葉も一般化されている。
 広島大学在職中の話になるが、以前ニューヨークで在米韓国人に会った。その後彼は日本まで私を訪ねてきて国際学会を北朝鮮で開くことを提案した。私はその前に広島で国際学会を行うことになり、普段は絶対しない私が積極的にスポンサーを募り、世界から学者を呼んで学会を盛況させることができた。しかし彼は私が募金したお金をもってアメリカに逃げたので、結局私の借金となった多額の金を私自身が払うことになった。国境をなくすボーダーレスが国際化と思われるが、国境を巧みに悪用する人も多い。

「中国のアメリカ政策」

2015年07月19日 03時46分47秒 | 旅行
本欄でも度々指摘したように今安保法案が上程中問題になったのは中国の脅威によって日本国民の不安から起きたものである。その状況を忘れて憲法論になっているが日本の首相の靖国参拝による中国の反発、また石原慎太郎の尖閣列島に関する発言対応と中国の挑戦などが繰り返され、雪だるまのようになった経緯がある。また一方では米中関係とも関わる。日米安保も中国への脅威にならざるを得ない。昨日私が所長を務めている東亜大学東アジア研究所主催の講演会が行われた。大学関係者以外にも市民を含めて20余人参加した。中国の大連理工大学外国語学部 副教授崔戈博士により「中国のアメリカ政策」について中国語の講演を現東亜大学大学院博士(後期)課程の林楽青氏が通訳をした。司会は本学の礒永准教授が務めた。
 アメリカは旧ソ連の崩壊後中国と対置してきて、中国を牽制するため、アメリカの戦略重点を東アジアに移転した。そして東アジア米軍基地の拡大化と軍事体制を維持しながら貿易と投資などを拡大した。それは中国の地域経済圏への主導権を阻害することである。中国側が「アジア投資銀行」などを提唱してもアメリカは常に消極的な反応である。崔氏は米中関係はいつか中東のような紛争や戦争が起kるかも知れないと述べた。彼は平和を保つための政策を提案した。米中の両国は最低限の存在を認めあうことである。それは核心的な利益には触れないことであり、それを侵さないことである。つまりアメリカは中国の共産党政治体制を維持しながらの経済発展を見守ること、中国は東アジアにおけるアメリカの軍事基地を認めることである。両国はお互いに守るべきであろう。しかしアメリカは時々中国の民主化や人権を問題にしており、中国の体制には脅威になっており、中国は東アジアにおける米軍への脅威になるようなことをしている。このようなことは危険だと思っているようである。米中関係は当然日本や韓国にも影響が及ぶだろう。アメリカの中国への政策は基本的に北朝鮮にも同様な感があり、東アジア全体と繋がっている。
 私は中国はいつも高慢な大国主義と思っていたが彼は中国を大国とは言わず「新興国」と言った 。彼は英語を流暢に話す。彼と長く話をした。彼は欧米の古典文学の作家をはじめカント哲学、マキアベリの君主論など多くの西洋文化についても博識が高い。私は中国の学者と西洋文学の話をしたのは初めであった。まだ30代の若い青年の彼と大連市認定の通訳者である林氏のコラボレーションがとても良かった。台風で中止になるのではないかと心配であったが無事に終えて何よりであった。

「臭い納豆」

2015年07月18日 04時30分25秒 | 旅行
 先週の講義の留学生たちの感想文には日本人はなぜ魚を生で食べるのか、モンゴル人は魚は食べない、魚を生で食べるのは嫌い:食中毒、非衛生的、フグの猛毒などの意見があった。また私を含めほぼ全員が納豆は好きではないという発言が多い。納豆は嫌という理由は粘り気と臭いである。モンゴルの留学生のトルバト君は納豆は食べ物がない時代に豆が腐ったものを食料としたところから食品化したのではないかとも言った。牛乳文化の中のチーズの発生のように考えたのかもしれない。そこで15日NHKの「クローズアップ現代」の映像を流し、日本で納豆の消費が減る一方、海外への輸出が増えていくことを紹介した。味、粘り気、臭いなど抵抗のある日本食の納豆が海外へ進出する力は何だろう。粘り気を無くし、臭いが消された納豆、それは日本人にとっては美味しくないものになる。しかしそれが海外から迎えられているのはなぜだろう、学生たちに答えを迫っていった。
 日本は長寿の国、健康に良いという栄養学的な点であった。日本のイメージ、日本文化そのものが商品となったと言える。日本は黄砂やPM2.5の中国とは対照的に清潔、長生きの国というイメージが強い。今中国産が世界に溢れる中、日本商品が生き残る道が見えてきた。例えば中国産Made in Chinaと日本産Made in Japanを対照的に並べることである。中国産と対照的に日本製の優秀性を示すのである。量と質の競争である。今TPPで話題になっている日本のコメもそうである。昨夜今日の講演のために来られた中国の国際政治研究者の崔戈氏*写真に日本の安保法について意見を求めた。それは今日の講演で聞けると思う。(本日14時から東亜大学13号館、無料)関心のある方はぜひ参加を願う。