崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「旧正」

2014年01月31日 05時15分55秒 | エッセイ
今日は中国文化圏のお正月、「おめでとう」。陰暦では1か月ほど遅い「旧正」の朝である。私は韓国の伝統的な農村に生まれ、父母の教育精神によって開化思想が強く心から陽暦による「新正」を過ごしてきた。特に日本居住が長くて陰暦を使うことはなかった。民俗学を研究しながらも民俗に沿った生活はしていない、民俗は単に研究対象としてきた。また母体信仰ともいえるシャーマニズムを研究しながらもクリスチャンである。韓国で以前秋夕の朝ラジオの生放送の時アナウンサーから「今韓国の民俗衣装を着て祭祀をしているところではないか」といわれて私の答えに困ったような対話になってしまったことを覚えている。私は民俗学者が民族主義者になった柳田國男には否定的であるように今多くのナショナリストの韓国民俗学者にもネガティブである。それは学者は客観的でなければならないという信念である。農村や故郷は私にとって懐かしい風景であって、内面的には近代化を常に考えた。農村啓蒙の小説を多く読み、農村啓蒙運動をしたことがある。自分自身は近代的な紳士になり、開化派人間という意識を常に持ちたかった。今元大統領のセマウル運動について原稿を書いている。
 しかし今反省するところがある。カレンダーの新旧を問わず心と愛の交流ができるなら名節は多くあってもよいだろう。玄関先に弟子たちから送られてきた旧正祝いのお土産を見ながら感謝の気持ちにあふれた。また新聞記者の西嶋氏のソウルからのお土産の韓国式「和菓子」(写真)にはびっくりした。隣近所の親しい人に韓菓をおすそ分けしながら説明したり、おしゃべりをしたりして、ここはもう一つの正月、「正月」である。日韓のカレンダーを見ると祝日など年中行事の日は倍加する。西洋のカレンダーからはもうすぐバレンタインデーが迫ってくる。心を交わす日を三、四重倍加させることができる。
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「反日大統領」

2014年01月30日 05時19分53秒 | エッセイ
韓国安東科学大学観光日本学科の教授である金相圭氏が明日が陰暦での正月なので挨拶のために韓国の伝統菓子の大きい「韓菓」を持って、昨日訪ねてきた。昔私が在職した啓明大学校日本学科を卒業して、神戸大学社会学科の長谷川先生に紹介し、留学し博士号を取得している。話題は私が知っている彼の同窓生の先輩後輩の状況だった。成功した人、そろそろ定年退職の話題がある反面、自殺者もいるという。当然韓国での日本語系学科の状況の話にもなった。日本では韓国をそれほど気にしないが相対的に韓国は日本を想像以上に意識しているという。日本の地震、津波、原発を以て日本を無視して中国へ方向転換してきた。日本が中国のPM2.5や空気汚染などをしばしば報道するように韓国のマスメディアは日本の放射能によって大きい大根の変形の画像をもって悪影響を報道(宣伝?)して日本の良い点などからの関心を外させている。それは彼の話の序説に過ぎない。今、日本語関係の就職率が低い日本語関係の学生募集は難しく、さらに政府は数年以内に大学生の募集を16万人軽減する政策を発表し拍車をかけているという。
 全体的に大学が就職率中心に専門学校化していく政策をとるようである。しかし就職のための多様な職種を増やす政策ではなく、全体の就職先が少ない状況で生き残るためには外国へ職を求めなければならないのにナショナリズム、孤立化政策をとるという。朴大統領の政治支持基盤の強い慶尚道地域も否定的になっていくのは私もここで聞いてわかっている。私は朴正熙氏のセマウル運動と女性大統領ということで心から強く支持してきた分、失望は大きい。「反日大統領」に対しては変化か、終息か、を期待するしかない。
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脱価値=バリューフリー

2014年01月29日 04時55分45秒 | エッセイ
NHK籾井勝人会長が従軍慰安婦問題について記者の質問に答えて話す中で「どこの国にもあった」と言って、騒ぎになっている。ノーカットで映像を見ると記者の誘導質問に落ちた感がある。最近政治的な「妄言下ろし」傾向が少ないと思っていたが日本国の代表的な発言台といえるNHKの会長の発言で、また、「妄言派」たちにもて遊ばれる良い素材になっている。しかし非難一色ではない。言論でも政治家でも参反の五分五分であるといわれている。今度も発言の内容より「その職位にいる人」としての発言が標的になっている。浜田健一郎委員長が「公共放送のトップとしての立場を軽んじるものといわざるをえない」と厳重注意したように、また多くの人から非難されるのが慰安婦や売春婦の内容についての反論ではなく、政治家は相手国(主に韓国)を傷付けないようにすべきだという当為論が流行っている。一般人が靖国、慰安婦について触れても大きく話題になることはない。いわば偉い(?)職位にいないからである。言論の自由とは偉い政治家にはないということを意味するのだろうか。普通政治家は微妙な話を学者に任せるというが、学者はもっと臆病であることは無論であろう。近代科学としての学問では「脱価値」「ニュートラル」「中立的」な方法論を尊重するとして、一般人は研究者に期待するかもしれないが、それは建前に過ぎない。
 言論の自由とはなんだろう。今、毎週行う読書会で私は緊急に「ミャンマー・シンガポールの慰安所の職員日記」を勧めて読んでいる。その読書会は完全に「脱価値」の真空状況の中で行われている。日本や韓国、軍や慰安所、慰安と売春、植民と被植民、戦争と平和などを一切を排除して読んでいる。私は昔韓国の卑賤民グループの中に入って調査をしたことがある。彼らは被差別は意識しながらも世間体をあまり気にせず自由に生きていることに驚いた。しかしそのグループの中では能力主義、愛とプライベートを尊重することに感動した。今、世間体を意識せず、脱価値、バリューフリーに研究する。「脱価値」の終着点は「価値」に至る。政治家と学者の異なる点は「順、逆順」だけであろう。
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『比較民俗研究』28号に巻頭文

2014年01月28日 04時50分33秒 | エッセイ
 『比較民俗研究』28号に巻頭文「植民主義者が記念されている南アフリカ」を書いた。大英帝国の植民地であった南アフリカのケープタウンを訪ねて調査した内容である。一読を願う。

 今は近い歴史、絶対悪とされている植民地史の現場を見廻るために私は南アフリカに行った。大げさなようであるが、遠くて近い話であり、植民地と近代化、抑圧と自由、不幸と幸福の調和や葛藤はどうなっているのか、観光ではなく、調査でもなく、放浪者のようにただその街を歩きながら考え悩むような旅であった。この旅行を計画している内に私は体調を崩してしまい、周りの人から、旅行を中止したほうがよいのではないかと心配する言葉を多くいただいた。しかし私は内心、「最後の旅」になっても行くと強く心に決めた。反日と親日の東アジアから遠く離れ、解放されて考えたいと思った末の旅であった。植民地という悲惨な歴史は希釈されており、歴史は歴史、現実は現実であるということをここでこの目で確かに見たい。ここで負の遺産を探して小さい問題を大きくするつもりはない。
 南アフリカのケープタウンにおいて2週間イギリス植民地遺産に関して見たり聞いたりした。2009年8月末、現地時間で朝7時ころ黄土の平野のヨハネスブルグに着き、3時間待って乗り換え、2時間飛行した後ケープタウンに着いた。春というより初夏のようであった。シャトルバスの利用者は私一人、車窓の左側には岩山の絶景、その下に見えたオレンジ色の屋根の建物群がケープタウン大学、右側は美しい海であった。気温と景色の良いところに多くの西洋人たちが早くから移住し、植民地化したところである。ケープタウンに来て3日間は晴れており、天気の良い国だと思ったが以後、風が強く雨が降って市の背景の山のテーブル・マウンティンのケーブルカーが運行中止になってしまった。それでも年中、気候は良いという。海に向っている高級住宅街には大英帝国からのイギリス人が多く住んでいる。その海辺を散歩しながら時々休憩をして、彼らの幸せを感じてみた。ここに訪ねてくる人は楽しみを味わうためであるとガイドは言っている。
 金やダイアモンドの世界的生産地として早くヨーロッパに植民地化され、人種差別の国、長期囚人であったマンデラ氏が大統領になった国である。イギリスはボアー戦争を行い、 1910年から有色人種を支配、約1世紀にわたり悪名高いアパルトヘイト問題を抱えながら近代化を成し遂げて先進国となったのである。現在アフリカ最大の経済大国であり、アフリカ唯一のG20参加国であり、ワールドカップが行われた。
南アフリカ人たちは植民地によって使うようになった英語であるが、南アフリカでは植民地に強制された英語を今でも公用語として使用し、英語が話せることにプライドを持っている。彼らは英語の下手な人には苦笑いをする。韓国人の目には植民地にされ、強要された言葉を使うことにプライドを持つということは理解に苦しむところである。しかし、ケープタウンにはその英語を学ばせるために韓国の小中高生たちが600人ほど来ていて(2008年現在)、 子供の時から英語教育を受けさせている。つまり安く英語を学習するために選択されており、その保護者を含めて圧倒的な数になる。
到着して直ぐケープタウン市内を歩いて回り、疲れて歩道に置いてある椅子に座ろうとしたら一つには白人専用(White only)、もう一つには白人以外の人用(Non White only)と書いてある。そのそばの建物が人種差別の裁判を行った場所だとの説明がある。人類の歴史には恥ずかしいものが多い。私は何処に座るべきか。以前日本人は白人扱いされたという記憶がある。これが人種差別の象徴的なものであろう。そのまま奴隷博物館に入場した。奴隷制に関する充実した博物館には観覧者が少ない。資料映像の動画が多く流されている。奴隷を残酷に扱っているのがテーマであろう。中には東南アジアから奴隷として売られてきたという歴史があるとも説明されている。イギリス人の人種差別とイギリスによる近代化の成功がともに展示されている。
 長時間歩いていてもここでは白人はほぼ見当たらない。日常的には全く有色人の世界である。白人たちは元の植民者、支配者であり、主に海岸沿いの景色のよい住宅街に住んでいる。同じ国民として被支配者の原住民、差別を受けてきた有色人種がいる。彼らは植民地として白人に支配されたその歴史を本当に受け入れているのか、あるいは法律や規制による安定状況にあるのか。彼らは元支配者の財産を「敵産」として収奪しなかったのか。アフリカは暗黒の大陸というイメージがあるにもかかわらず、有色人種は先進国民の意識を持っているのだろうか。それらを知りたい。
 マンデラの出身の刑務所はどうであろうか。偉い政治家がそこから輩出された環境は何だろう。悪名高い刑務所、マンデラ元大統領が27年間服務した刑務所へ向かった。ケープタウンから11キロ離れたロベン島へはフェリーで40分かかった。見張り塔の中にレクレーションホール、キリスト教会、映画館、図書室と図書館、運動場、テニスコート、病院、研究セクション、クリニック、医師は週2回ケープタウンから来院するなどが設置されていた。ガイドから人種、差別、植民地の話を聞きなかったらも監房を除けば福祉施設とみ間違いそうである。
 韓国でも多くの政治家、運動家、元大統領の金大中氏をはじめ多数の有名人が刑務所出身である。日本の刑務所のように中央から監視しやすくするために扇子型構造ではなく、ひとりひとりを管理するように感じた。しかもそこに読書室Study officeも用意されているのには驚かされた。刑務所とはほんとうに「教導所」であるという意味であろう。本当の意味で刑務所とは何だろう。罪と罰の話は二の次になっている。1994年その刑務所からマンデラ氏が釈放され、初めて黒人大統領になって、実質的に解放独立国になった。マンデラを釈放したのは白人のクラーク大統領であった。
 南アフリカでは現在も治安や人種問題などを多く抱えている。都会から職を求めて移動してきた人々を始め難民などが集まってできた町townがある。このケープタウンから20キロメートル離れたカリチョ(Khayelitsha)という難民キャンプである。これはこの国最大規模の黒人難民町がある。4万人ほどの黒人たちが集まって生活をしている。内部には警察もおらずく政府は犯罪を恐れて夜9時にはこの町に入る門を閉じて出入りを禁止している。私は中に入ってみたいと関係者に強く希望を出した。殺人事件もあって、個人で入ることは大変危険な所だと言われて断わられたが、再び願って入ることができた。仮の小屋のような家が密集していた。数軒の家を訪ねて入ってみることもできた。

 私の最大の関心は南アフリカでは植民地からの負の遺産をどう考えているかであった。終局的に関心を植民地支配者であったセシル・ジョン・ローズ(Cecil Rhodes) に絞ることにした。彼は1853年イギリスで生まれケープ植民地政府第6代首相を経て、1902年(48歳)ケープタウンで死去した人物である。ローズは生まれつき病弱でそれを心配した父親は、彼の兄が気候の良い南アフリカに行っているのでローズをそちらへ送った。健康を取り戻したローズは、兄とともにキンバリーで坑夫としてダイアモンドを掘り、1880年に鉱業会社を設立し、全世界のダイアモンド産額の9割を独占するに至った。この経済力をバックに政界へ進出し、1890年に首相にまで登りつめた。イギリスが1806年占領して以来、南アフリカを植民地として統治し、ローズはその中で生きた植民地主義者であった。彼は英国植民地アフリカに夢を持った一人である。ローズは首相として数々の政策を行ったが、それらは全て、大英帝国の下、 南アフリカに広大な統一された植民地、南アフリカ連邦を建設することを意図した。彼はまた、ケープとカイロ間を電信と鉄道で結ぶ計画を推進した。
ローズはまさに南アフリカの政治・経済の実権を一手に握り、その威風は帝王を思わせ「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。「神は世界地図が、より多くイギリス領に塗られる事を望んでおられる。できることなら私は、夜空に輝く星さえも併合したい」と著書の中で語っている。彼は現在のジンバブエのマトボに埋葬されている。彼を扱った映画『セシル・ローズ―その生涯と伝説―』などでそのように描かれている。ローズは熱心な帝国主義者であるとともに人種差別主義者でもあった。
 しかし彼は今も被植民地であった南アフリカで尊敬され、ケープタウンの市民の基金で建てられたローズ記念碑は生前彼が好きだったテーブル・マウンテンの北側の山腹に立っている(写真)。記念碑にはラドヤード•キップリングの詩:「彼はこの土地で生きて、この土地で死んだ/ここに霊がいる」と刻んである。その公園のコーナーには1910年ころ原住民の家をモデルに建てられたコテージのローズ記念レストランがある。私はそこで昼食をとりながら被植民地であったところに植民主義者が記念されているのは皮肉にも感じた。
私は既にイギリス植民地であったアイルランド、香港、シンガポール、マレイシア、ミャンマー、スリランカ、南アフリカを廻ってみた。またフランスの植民地であったベトナム、そして日本植民地であった台湾、サハリン、旧満州、韓国と北朝鮮、オランダの植民地であったインドネシアなどを廻って混乱してしまうような気がする。植民地であってもイギリスやフランス圏では旧宗主国に対しての怨念はそれほど感じないが、日本植民地圏ではそれが強く感じられる。同じイギリス植民地であってもアイルランドのナショナリズムと南アフリカの人種主義は異なっている。宗主国への怨念と恩恵の相反するようなことも感じた。
 500年も続いた南米諸国ではどうであろうか。私の旅はこのような疑問を持ってこれからも続くだろう。

John c. Hawley, India in Africa, Africa in India, Indiana University Press, 2008
Martin Meredith, Diamonds, Gold and War, Jonathan Ball Publishers: South Africa, 2008
Robert L. Rotberg, The Founder: Cecil Rhodes and the Pursuit of Power, Jonathan Ball Publishers: South Africa,
Alec Russell, After Mandela , Windmill Books, 2008
Charlene Smith, Robben Island, Struik Publishers, 1997

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告別式に参加

2014年01月27日 05時10分49秒 | エッセイ
昨日は東亜大学の櫛田宏治学長のお母様の告別式に参列した。葬儀礼式場での告別式に参加したのは初めであった。故人とは時々立ち話や挨拶を交わす程度であったが家族ぐるみの交際もあって本当に残念であり、心から冥福を祈った。学長が経営者であり、親族の多くを知っているので私も親族の行事に参加したような感もした。仏式で仏僧による念仏と説法の後、追悼のお言葉があり、続いて親族の焼香と250人弱の一般参加者の焼香が行われた。親族代表には喪主の櫛田学長、故人の夫であり大学創立者と息子の嫁、二人の娘が立っていた。娘婿は座席にそのままだった。韓国の儒教式とは親族と非親族の区別、娘婿のあり方が異なっていた。子供の参加は目につかず、静粛さが終始一貫した。一人の娘が涙を拭くことはあっても泣く場面は一切なかった。『哭きの文化人類学』の著者として、日本社会では距離のある本だったと自省した。
 仏壇は極楽を象徴するように仏像と故人の写真を中心に宮殿のような建物と菊、らん、カサブランカ、バラなどの花に埋まっており極楽鳥が仏壇の両側に飾られていた。これは「子供一同」「孫一同」の寄贈であると表示してあった。それらにはそれぞれの配偶者の名前は直接見えていない気がした。喪主学長のご挨拶では心を込めた母親の思い出をかみしめながら話をされた。心にしみるスピーチだった。思い出のアルバムの画像をみて、閉式になった。式前に電報の読み上げ、顕花は両側に飾られており、説明はなかった。世俗性を最小限にした仏式の良い印象であった。また参加者の中には大学在職中不和の人も参加していて、故人との関係、あるいは故人を以て改められたのであろう。故人と生者、生者と生者の関係を改める場でもあると思った。
 
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木暮実千代

2014年01月26日 06時04分43秒 | エッセイ
 
 昨日の朝、韓国から来られた元下関中等学校の派遣教員であった呉信媛氏が現在勤務している高校の女子学生4名を連れてきて邂逅した。そのグループの案内は石本弘之社長、韓国教育院長の金起万氏、日本人女子高校生の吉田さんであった。わが家族が加わった(写真上)。
 下関出身の美人女優木暮実千代の記念展示会、地元の人たちが懐かしく集まっているところを覗いてみた。シーモールのオープンフロアーで木暮実千代の甥(おい)である黒川鐘信氏の講演があった(写真下)。記念会会長の元自民党県連長の石崎幸亮氏、郷土作家古川薫氏が参席している。いわば地元に根を張っている人たちである。私は下関に移り住む前までは200本を超える作品に出演したという木暮実千代はもちろん田中絹代も全く知らなかった。地方では地元、郷土愛精神、村おこしなどで英雄化されることもある。私は地元の縄張りではなく、全国へ、さらに世界へ発信するいわば舞台を広げ国際化する要素はなんだろうと傾聴していた。
 元早稲田大学教授の黒川氏は戦前・戦中・戦後の叔母の女優人生を親族との関係の話も交えながら語った。伊藤博文や偉い男は妾を数人持っていた時代に大胆に活躍した女性として「きれいだ」と褒められていていたという。耳に残った言葉は木暮はあまりに多くの作品に出演したがために印象が薄かった、受賞経歴もないということばである。また「文芸春秋」企画の「昭和の美女ベスト50」には名前がなかった。ただ消えていった俳優であるという。そのような人が生き返って登場するところはやはり「地元」である。
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「殺して、殺された」

2014年01月25日 06時52分10秒 | エッセイ
 拙著『雀様が語る』は4つの新聞や読者からの書評と反響は好評とはいえるが、挨拶式の言葉が多く判断しにくい。多くの評論を出している鄭大均氏からは褒め言葉だけではなかった。私が読まれるために日本語の表現などを工夫したり遠慮した言い回しがむしろよくないというメールが届いた。つまり私の日本語の日本化によって個性が弱まったともいわれる。訛りのあるような私の日本語そのままでもよいというのだろうか、会って話してみたい。しかし全体的には面白い、内容が広い、視線や態度が客観的であると要約される。特に日韓関係に客観的であるという。
 韓国の朴政権が中国のハルビン駅に「安重根記念館」を建設した。韓国や中国が靖国で戦犯を祀ると日本を非難しながら韓国が安重根の記念碑を外国である中国に建てたことにすごく矛盾を感じる。これを客観的に考察することは大変難しく苦しいことである。犯罪人を祀るという点では同様である。ただ国家が異なる。日本にとっては初代伊藤博文首相は近代化の先駆者であり、安氏は暗殺したテロリストである。しかし韓国では安氏が独立運動の英雄である。二人共それぞれ国内では英雄、相手国からは敵的存在である。
 内政干渉しないという相対主義から考えると我が側から敵であっても相手が祀っても銅像を建てて英雄化しても互いに非難しない、干渉しない。しかし「悪いのは悪い」という絶対主義から考えると戦争犯罪とテロリストは同様に悪い。ここで客観的な視線を差し入れる必要がある。両国で使える教科書を作るなら「安重根が伊藤博文を殺したので死刑された」「東條英樹などは戦争をしたので死刑された」という「殺して、殺された」ことになる。これをもって日韓は平常になることも喧嘩することもできる。
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生き残りの人生

2014年01月24日 05時42分10秒 | エッセイ
 周りから訃報3件、特に順番を間違えたような訃報に心痛めている。夫が先に逝った後、妻の順という意識のある私にとって、逆では大変な困難が予想される。私にそのようなことが起きたら生きられない。悲しみは言うまでもないが、まず銀行でカードを使ってお金の出し入れや振り込みなどもしたことがなく、日常生活に困ることが多く、冗談っぽく「自殺するしかない」と言ってしまった。クリスチャンとして神からいただいた命の放棄は大罪であるのに。
 これと関連して一言いっておきたい。「生き残った」ことへの感謝である。私は朝鮮戦争の中から生き残ったことを常に感謝している。それは多くの犠牲者、死者に対して申し訳ない気持である。戦争犯罪を叱咤するよりもっと根源的、根本的な姿勢である。震災などで多くの人が亡くなった。またそこで多くの人が生き残った。中には重傷、財産を亡くして「生き残った」人もとても多い。まず死者を考えて生き残ったことに感謝の気持ちを忘れてはいけない。それが生きている苦労を克服する力である。誰でも波乱万丈の人生、生き残りの人生であるはずである。
 一般社会へ出る一歩前の4年生の「日本思想」の講義で教育観、死生観を語った。「人がいる」という知識教育を改革して「なぜ人がいるのか」のような考え方を指導するような教育の改革の必要性を強調した。この授業には韓国から訪ねてきた高校の4人の教員が参加した(写真上)。教員の一人は私の教え子の教え子であり、光栄だと嬉しさを隠さなかった。学生たちも嬉しい表情だった。
 今朝の山口新聞に私が人生論などを書いたエッセイ集『雀様が語る日本』が掲載された(写真下)。長い付き合い、長いインタビューしてくれた森脇直樹記者に感謝している。彼は私の取材を最後に社内でのデスクワークでの編集に専念するという。
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年賀状

2014年01月23日 03時37分39秒 | エッセイ
 年賀状の抽選で数枚が当たって「当たり」切手をもらった。例年に比して年賀ハガキを少なめにしたが結局年末にエッセイ集出版関係の挨拶を含めて例年より多くなった。毎年のことではあるが、その時期を終えて、いろいろな感想がある。正月1と2日に授受したものだけをもって考えてみると例年交換する人の数が少なくなっている。特にその時に来なかった人は気になる。元気ではないのだろうか、縁が薄くなった意味だろうか、縁が切られたのだろうか、高齢化したので止めたのかもしれないなどと想像する。遅れて届く賀状も結構多いのも事実である。昨日川村博忠先生とそれが話題になった。彼もやはり通常来ていた人から年賀状が来ず、後に奥さんから夫が亡くなったという悲報を受けたとのことである。一方的に送るような相手は少なく、貰った分に返事する方も多い。その他インタネット上の挨拶や電話などで音信がある人は別として、多くは無関心派が増えているのかもしれない。しかし中には当然年賀状1枚でも欲しい人、恩知らずと思われる人が浮かびあがる。彼らは年賀状を出す人にこだわりのある形式主義者と言うかもしれないが他の方法でも礼をしない人にとって年賀状は実践的な簡単な表示である。その意味では年賀状文化は便利なものである。
 ドラマを見ていながら悪役の人物に腹を立てたりすることが多い。しかしそのようなキャラクターが存在せず、良い人ばかりであれば面白くなく、ドラマは成り立たないはずである。現実に戻って、私は悪役の者か、どんな役をしているのか考える。地球全体から見て民主主義、平和主義で一色化していこうとするが、グローバルとか、国際化とはその善悪多様な宇宙を理解することである。はたして私たち一人一人はどんな役割を演じているのか問われる。またどんな役割を期待されているのか考えてみるのもいい。
 
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「殺人的」な寒さ、スノーファルト(私の造語「雪のアスファルト」)

2014年01月22日 05時38分58秒 | エッセイ
昨日は下関でも吹雪の日であった。日本では寒さをいう時北海道の雪まつり、つららが話題になるのが常である。しかし私は子供の時、当時38線が南北の境界になっていたので韓国の最北部の田舎の寒さを思い出す。雪も降るがそれより北風の寒風が強く、どうしてその冬を凌げたのか、今思うとかわいそうな思い出である。日本では家内の実家の秋田の寒風山の下も寒く、雪の多いところを訪ねて暴雪には初経験で驚いた。除雪車が走るのも印象的であった。後にサハリンで2回、零下30度以下の冬の調査では寒風の吹雪と暴雪は殺人的であった。ロシア人の運転手は万が一車のエンジンが止まった時の予備としてバーナーをつんでいた。道はスノーファルト(私の造語「雪のアースファルト」)に道路表示板も雪で凍って見えないところを走った。私は調査というより寒さを体験するような気持であった。カムチャッカでは真夏に海辺で皮製コートを着た異体験もした。
 寒さで死ぬことの危機感を感ずることはなかった私に「殺人的」な寒さ、その地域の人を理解できた。温暖化の話を聞くたびに私は寒い地域の人々を思い出す。下関は寒くない、暑くないと思われているが、冬一度は雪を見る。昨日の吹雪を窓から見ながら私の寒さの体験を思い出した。同時に主治医が私に気管支が弱いといい、冬が過ぎると私より先に安心したと言って下さる。春夏秋冬を過ごすのは生甲斐である。同年の同僚であった江橋氏が一昨日亡くなられた。私も死を近く感ずる。一日一日を大切にしたい。
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『見果てぬ祖国』

2014年01月21日 05時38分40秒 | エッセイ
 今日本でも韓国でも死語となったような言葉「杜門不出」を思い出す。人の出入りがない家や人を表現した言葉である。しかし子供の時に内向的だった私には親しい言葉であった。1週間でも家で本を読んでいて、母から外で遊んでくるようにとよく言われた。しかし私のその習性は長く続いて学者の道を歩むようになったのかもしれない。研究者を目指す学生にも長く座っている習性を身に着けるように話したこともある。こんな冬の寒さには「杜門不出」の日が多い。テレビから解放されて孤独なほどの時間を作り、まとまった作業をした。本も読んだ。
 フィリピンの独立運動家の医師・小説家のホセ・リサール著村上政彦氏の翻案小説『見果てぬ祖国』を読んだ。原語のスペイン語ではない英語から二つの小説を一本化したものである。スペインの300年間の植民地におけるカソリックの宗教組織や神父、修道会の弊害を告発した内容である。特にスペイン人のダマーソ神父の悪業に興味があった。「僧服を着ている神父」という表現は韓国語に直訳すると仏教の服装とカソリックの混合のように滑稽であっても日本文では可笑しくない。なにより注目したいのは西洋植民地とキリスト教の関係である。つまり植民地政策にキリスト教の宣教者が乗ったのか、植民者がキリスト教を利用したのかなど問題点があるが、フィリピンでは後者であったことが分かる。聖職者の悪業は訴え罰しにくい。彼らは信仰で偽善、逃げ道を用意しているからである。主人公のイバルラは無暴力運動によって植民と被植民を超えてヒューマニズムを主張したが、銃弾で死んだ。この本が翻案されたことには評価はいろいろであるが、私には聖書を読み直すような気分であった。この小説より著者のリサールがもっと劇的である。
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真のグローバル化はまだ遠い

2014年01月20日 06時03分53秒 | エッセイ
 韓国のある評論家が日本の人気料理漫画『味の達人』の著者雁屋哲(73)氏が書いた「日本の食べ物にはもはや希望がない」と主張したことを引用しながら福島原発事故の深刻性を指摘し、ユネスコ人類無形遺産で日本の「和食」が選ばれたことにも否定的に述べ、日本は韓国に謝罪すべきだと言う漫画も添付して(写真)FBに書いて反響が大きい。放射能の問題を指摘したのは客観的といっても「和食」と「謝罪」にまでつなげて論じているのを読むと、いわば「日本亡国論」の類のように思われる。私は日韓関係の悪化が政治レベルだけであり、一般的にはまだ健全だと楽観的に見ていたがこの文を読んで大きく憂いを持つ。
 この話をもって在日の友人と話をした。彼は日本の食べ物の清潔、安全性を高く信頼し、少なくとも韓国や中国から非難されることはないという。日本にも食中毒、今問題になっているソロウィルス、農薬などの問題があるが、そのたびに日本人は和食に信頼感を増している。日本は伝統的に魚を生で食べるほど衛生感を持っている文化である。しかし和食が好き嫌いは別としてキムチ以外に和食も文化遺産か、とか、謝罪云々するのは的外れであろう。在日の友人は韓国のこのような否定的、非難がすぐ在日がへートスピーチされることを心配する。真のグローバル化はまだ遠い。

<お知らせ>
*2月中旬『竹林はるか遠く』の著者の作家アメリカ在住の川島擁子氏が来日する予定である。会いたい人は一報してください。
*私の新著『雀様が語る日本』が下関の熊沢書店に入荷されました。
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「楽園の島パラオ」

2014年01月19日 05時12分06秒 | エッセイ
 金曜日(2014.1.17)発行の「東洋経済日報」に私の連載エッセイ「楽園の島パラオ」が掲載された。同紙には新刊案内として拙著『雀様が語る日本』が紹介された(写真)。

「楽園の島パラオ」

 先日南洋群島の楽園島と呼ばれる日本植民地であったパラオに行ってきた。ミクロネシアの島の国パラオまでグァムを経由して行った。グァムの空港でのボディチェックは捕虜者のように両手上げてエクスレー写真を撮られた。グァムでは乗り継ぎなのに出入国の厳しいアメリカの審査を受けなければならなかった。観光地であり、安全のためにこんなにも厳しいのだろうか。
 日本は熱帯地方の小さい島々を31年間植民地とした。当時、なぜ日本は3500キロも離れた南の島まで足を伸ばしたのだろうか。時差はなく、日本語がほぼ通じる、戦跡を含む多くの日本文化が残っている。多くの日本人がほぼ不便を感じることなく暮らしており、日本の免許証で一ヶ月以内であればそのまま車の運転ができるという。
 私は旧日本植民地を広く回ってきたがここを最終地として見ておきたかった。パラオはスペイン、ドイツ、日本、アメリカに植民地とされた国であり、今日本にはどんな感情を持っているのだろうか。日本植民地の教育や統治には、戦後のアメリカ時代より良かったという人が多い。反日の強い韓国とはまったく異なった歴史認識をもっている。
 アメリカ人の日本史研究の大家であるマーク・ピーティのミクロネシア戦争史に関するNanyo(南洋)という本を機内で読んだ。彼も日本がこのように遠い南洋まで植民地にしたのか疑問をなげかけている。それは南国へのロマンと楽園の夢をもったのではないかと述べている。今その島では住所がなく、交通信号もなく、ヤシ、バナナ、パパイヤ、各種花が咲いていて、のんびり暮らす人々の楽園であるといわれる。本当に楽園であろうか。私は熱帯雨林地域であり果物が豊富であろうと想像したが意外に少なかった。スーパーマーケットでも果物や野菜が貧弱なのには驚いた。野菜が足りなく長生きができないともいわれる。
 1914年日本海軍が「侵襲」したという所を案内していただいた。日本統治時代の南洋庁、戦車、トチカなどにも案内していただいた。終戦70年弱過ぎても日本との関係は友好なる関係をはるかに超えて親密になっている。戦争当時使った大砲や戦車、防空壕など日本軍が残しものがそのまま置かれている。そこに居住するある日本人は「ここの人びとは、大統領まで親日的だよ」と言う。日本からの援助金でパラオでは初めての花火大会があったこと、東日本の災害とパラオの台風の災難で助け合った話を聞いた。短い滞在中に二度ナショナルミュージアムに訪れた。「日本植民地が現存」しているような展示のように感じた。原住民のための公学校で教育を受けた人の懐かしい当時の思い出と、戦争被害の証言を紹介している。
 パラオの歴史は全てが植民地史であり、それを自国史にするしか仕方がなかったのかもしれない。外国による開発近代化と表現している。日本が夢を賭けた旧植民地、まだ現に南国の理想郷として、多くの日本人が訪れる「楽園エデン」として生き残っている。












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戦争映画の意味

2014年01月18日 06時10分38秒 | エッセイ
 昨日は神戸中心広く関西地方に大きい地震が起きてから19年目の日、私はその日、広島大学に赴任する準備のために名古屋から地震現場を通過したことを思い出した。私自身は朝鮮戦争を辛く体験したが日本に30年以上住みながら大地震は経験していない。戦争は私にトラウマであり研究の志向にもなっている。戦争のドキュメンタリーや映画をよく見るのもそのためであろう。1941 年 12 月 7 日に起こった悲劇について、3 時間の長編の米国映画『パール・ハーバー』(監督マイケル・ベイ、2001)を鑑賞した。戦争映画や史劇映画はただ背景が戦争か歴史であり、単純な恋愛物語りに過ぎないものが多い。戦争の場面だけを見るためにはドキュメンタリーを見ることも多い。
 タイタニックのような巨大な悲惨さのようにこの映画でもハワイと東京、飛行機の攻撃・空襲の場面に巨大な金額を使って撮影したのは見てわかる。なぜこの物語りを表現するのに巨額の経費を費やすことなく食卓とベッドくらいがあれば作れそうであるが戦争を背景にしているのか。戦争映画についてみるなら旧日本軍の真珠湾奇襲攻撃により壊滅的打撃を受けた米国、私はずーとアメリカ側を同情、応援してみていた。それは戦争を見ているよりスポーツゲームの観戦のようなものであった。競技運動場を背景にした方が制作費が安上がりになったかもしれない。攻撃されて復讐の反撃の復讐物語りにするにはもったない。
 この映画で戦闘と戦争は何を意味すのか。志願して出るアメリカ軍人の頻繁に見るキスシーンと日本軍の真面目な忠誠愛国の対比は私の胸に響いた。なぜ巨額の製作費と最新鋭のテクノロジーを駆使して製作したかその価値が納得できた。戦争映画の古典であれば出征した夫や恋人を待つ妻や女の物語りである。しかしこの映画は戦争文化の国際的な比較ともいえる、革新的である。この映画が公開されて10年も過ぎ、評価がなされているが私はそれらと違った感想である。 
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無償人生

2014年01月17日 05時24分11秒 | エッセイ
田中メモリアル記念館で開かれている下関生まれ,在住の古川薫先生の米寿記念展を見た。彼は目下文筆活動をしている。作品目録で現在まで932の創作活動が分かる。多い作品などを展示するには空間が狭過ぎる。さらには見に来る人の数が少ない。しかし私にとって得たことは大きい。それは情報や知識より人の生き方が見えて、考えたことである。古川氏は少年時代航空機のエンジニアになろうと飛行機の絵と模型をつくったのが展示されている。そして工業高等学校の機械科を卒業し、航空機会社に勤務した。私は子供の時に自動車の運転手、中学時代は遺伝子学者とラジオ技術者になりたかったが、高校時代には小説を読み作家になりたかった。しかし細かい描写がうまくいかないことから評論家を目指し、大学の国文学を選んだので古川氏と似て異なる点を照らし合わせた。私も小文、雑文などを入れると500位はあるのではないかと思うが古川氏が圧倒的に多い。
 彼と徹底的に違う点は彼が受賞作家という点である。展示会では彼が10回ほど直木賞に挑戦して受賞されている。そして彼は常に「直木賞作家」という肩書で生きるような印象が強い。賞とは社会やある分野からの評価であり、名誉あることである。その点で私は無賞人生といえる。評価されている部分もあるかも知れないが、正直に考えると賞や評価は目標ではない。人生の過程には褒められたり叱かれたりするのが常であるように、賞や罰も付くものである。無償人生の私にとっては読んで下さる読者がいることが賞である。
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