崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

王朝への夢

2013年11月30日 05時23分45秒 | エッセイ
「楽しい韓国文化論」を無事に終えた。次の第3回目には何をテーマにしようかと意見を聞いているところである。韓流ドラマ映画の話で歴史ドラマを面白く見ている人が多く、話題になった。私は困った。歴史物語りには関心がなかったからである。それは歴史的考証があまり良くなかったことを経験的に知っていることと、王様やヤンバンという王朝文化へ批判的な私の偏見のようなものがあるからである。人はなぜ歴史物語り、王朝文化に関心が強いのか。何千年も続いた王朝の独裁専制文化に慣れてきて遺伝子だあるから天皇制や王制を懐かしく思う人が多いのかもしれない。
 北朝鮮の金家3代続きの現代版「金氏王国」にも賛成できない。朴正煕が暗殺されなかったらおそらく韓国も北朝鮮と同様の国家になっていたであろう。朴正煕の娘が現在の大統領になっている。ソフトな外交上手い「女性」大統領に私は期待していたが「2代独裁」のようで、今まで良かった日韓関係をも損なうことになっている。最近脱稿したハングル原稿は『私が生きてきた朴正煕時代』である。以前から関心を以って調査したセマウル運動に基づいて書いたものである。私がその時代に生きたことの証明のようなものである。
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「病院で別の赤ちゃんと取り違えられた」

2013年11月29日 05時46分55秒 | エッセイ
 60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所は「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい母子家庭に育ち、苦労を重ねた」として、病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡して話題になった。つまり東京・江戸川区の60歳の男性とその兄弟らが起こしたもので、60年前に生まれた病院で取り違えられ、別の人生を余儀なくされたとして、病院に賠償を求めた。私はこの話を聞きながら韓国のドラマの日本版と感じた。最近楽しんだテレビドラマ「全てを上げる」は生み親が病院で自分の女児の幸せのために他の子供と取り代えた娘と生みの娘の間の葛藤、今視聴中の二つの韓国ドラマ「天までとどけこの思い」「お姉さん」も生み親と育て親、成長した本人たちの葛藤を描いている。このような医療ミス、あるいは迷子、棄児などによる運命的なことが話題になっている。
 韓国の親日作家といわれる金東仁作「足指が似て居る」(1932)を思いだす。性能力のない男性が赤ちゃんを連れて来て自分の実子であると祖祖父や自身の‘足指が似て居る’といいながら実子として愛を込めて育てて行くのを描いた短編小説である。今度は先進国と言われている日本で現在、起きたでき事に、特に裁判文には冷笑を禁じえない。病院の広い意味での医療ミスに賠償を命じるのは理解できるが「経済的に恵まれた環境で育てられるはずだったのに、取り違えによって、貧しい母子家庭に育ち働きながら定時制高校を卒業するなど苦労を重ねた」と指摘したことについてである。60年もの前、死者を含む事件というか、死後裁判、経済的賠償のようなものである。相手が財閥であったらどのくらいの賠償になるのか、愛情に対しての賠償価はどのくらいになるのか。本件は医療「ミス」だけが問題であり、他のことは考慮すべきではないと思う。なぜこの国、この親に生まれたのか恨む人、あるいはこの国、この親に生まれて感謝する人もいるだろう。あなたはどちらを選ぶだろうか。幼稚な裁判から偉大な人生観を学んだ。




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性と美

2013年11月28日 05時43分31秒 | エッセイ
 数年前京都造形芸術大学で講義を市民に公開した時「性と美」を講演した時のことを思いだす。その際私は韓国の春画を見せながら田中優子氏の浮世絵と比較しながら議論した。その議論は『京都のくるわ』(新典社)に載っている。田中氏は法政大学の次期総長候補となっている。
 昨日日本文化論講義でそれを紹介しながら講義をした。韓国の李朝時代、日本の江戸時代の性的表現は非常に対照的であることを説明した。マリノウスキーの「性と美は異なる」という「セクシー」の意味を探った。日本人、韓国人、中国人の学生たちは戸惑っている表情であった。来週は映画「さゆり」を見せると約束した。その直後ある教員から私が「学生にポルノ」をみせたと学生からきいた話を伝えてくれた。非難か賛美か、「豚に真珠」の結果になりかねないけれども講義を続けたい。
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『旅する対話』

2013年11月27日 03時10分12秒 | エッセイ
 さる日曜日、国立歴史民俗博物館で私が講演する時,前の席で良くフィードバックしてくれた二人、東京シネマの岡田一男氏と宮本記念財団の宮本瑞夫氏が視線に入った。宮本氏については先述したが、ここでは岡田氏について一言触れておきたい。彼とは10年ほど前「日本映像民俗学の会」で出会ったが特にハンサムなこの「一の男」に親密さを感じるようになったのは他に訳がある。以前私が二度カザフスタンで調査した時に親しくなった映画監督のソンラブレンチ氏と岡田氏が古い友人であることを知ってから私と三角関係の親しい友人となったのである。
 この度彼は姜信子著『旅する対話』に「永年のご厚義に感謝しつつ岡田一男」と記したものを下さった。その本には姜氏がザーラ・イマーエワと対話する映像のDVDが付いている。早速読み始め、映像をみた。「いってらっしゃい」「わたしの名はエラザ」など岡田一男制作の映像には懐かしきソン氏が語る場面があった。1937年スターリンによって沿海州からカザフスタンへの強制移住史を語る映像と文(岡田訳)に私の視線は止まった。辛い艱難史を語る中でその時代は本当に幸せな時代だったと言う。

  その時代は、私にとって本当に幸せな時代でした。周りの世界の大変動も、貧しさも関係なくどの子どもにとっても  一様に楽しい時代でした。我々には民族の差異など、全然気になりませんでした。(263ページ)



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嬉しい再会

2013年11月26日 05時47分04秒 | エッセイ
日中関係が最悪だと言われる中,韓国から達西高等學校と馬山高等学校の高校生60余名の学生たちが本学を訪問して海外研修を行った。いわばオープンキャンパスであり、中には本学に留学を決心した学生もいた。理事長、校長,引率教員たちも同行され,本学へ大型青磁が寄贈された。入学式などで花を生けるとよいサイズであり、嬉しく賛辞を言ったら「それは困る」と言われた。美しいものであり、皆に見てもらうという意味が伝わらず意外な言葉であった。生け花をして青磁も鑑賞されるのが良いのではないかと思ったが、それはあくまでもそのものが鑑賞されるべきものだからであろう。
 引率教員の中から一教員が遠くから私を見つけて走ってきて頭をセメント床につけてお辞儀をした。私は彼の手を引っ張り起したが彼は涙ををながしながら大声で嬉しさと長くご無沙汰したことを謝罪した。私は「生きていたらこうして逢えるんだね。嬉しい(죽지 않으니 이렇게 만나보네)」と言った。その言葉は老人たちの口癖のような品のない言葉だと思っていたが口から自然に出た言葉だった。彼は25年前の教え子であり、私が結婚主禮をした人である。傍から突発な異様な光景に日本人の教員、韓国から来られた人が師弟関係、親孝行の良い光景だと言われた。理事長や校長そして彼と並んで学生食堂でカレーライスを食べた。彼は私の結婚主禮辞のように幸せな家庭、息子が軍に入隊して、娘は大学生4年生だという。夕方船着き場まで見送りをした。本当に嬉しい再会であった。
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「植民と植樹」

2013年11月25日 05時28分36秒 | エッセイ
 昨日は 会場へ行く電車の切符を落としてしまって同行者の証言により特別許されてでた。初めてのことで自分で自己管理力が劣っていると反省し、また発表の失敗の予兆ではないかと思った。早めに会場に着き、準備をしておいたが、やはり最初の画像を探せず、そのまま7分「多島海探訪記」(渋沢:27分、1936年)の見ところを語った。続いて1936年渋沢敬三と宮本馨太郎の撮影の映像を北村皆雄氏と追跡調査を行った。韓国の民俗学会でその映像を紹介し報告した時のエピソードを中心に語った。蔚山大学で講演した時高齢者たちが宮本馨太郎作の「蔚山達里」(宮本:14分、1936年)は偽作であると言われたこと、また比較民俗学会で上映し、民俗学者の任東権氏が講演で「やはり偽作だ」と言った時は唖然、失望の極みだった。それはゴム靴とポプラの木は当時見た記憶がないこと、ゴム靴は戦後韓国時代に現れたものであり、日本人が朝鮮植民地が成功したように作ったプロパガンダ映画だというのであった。私はその話をそのまま語った。聞き手からは面白がって何度も爆笑が出た。冗談のように聞こえたかもしれない事実である。そこに私の冗談が加わった。ポプラの木の植樹は植民地へ「植民と植樹」の例、成長の早いポプラとアカシア(悪シア)の話をした。韓国では成長が早い竹が異様なほど成長の早いことを例えて、帽子を脱いでタケノコにかぶせて、うんこをしていたら竹が伸びて帽子が見当たらなくなったという私の恩師から聞いた笑話をして会場騒然爆笑であった。
 老人たちの「偽作」説を聞きながら私は老人が「過去」を左右するような権威に対する不信感から老人を主なインタビューを中心とした民俗学、引揚者や慰安婦たちの証言などまで強く広く深く検討し始めた。そこで過去を固定化しているモノ、文字記録などと記憶とは別の性質のものであると考えるようになった。「偽作」説は老人の作り話や嘘ではなく記憶違いであると評価するようになった。そして企画者の提案通り「記録と記憶」に関する講演をした。総合討論の司会者朝倉敏夫(国立民族学博物館)氏と総合司会の内田順子氏も賛同してくれて嬉しかった。成田から福岡へ、小さいハップニングはあっても冗談が多すぎだったかなと反省し、昔韓国での講演のように日本語で自分の調子に戻せたような気分でもあった。竹と帽子の話を思いだし一人で思い出し笑い、夜11時過ぎ帰宅した。写真は右から北村、私、朝倉、李文雄、井上、高、O、李恵燕、岡田、内田、宮本、原田、松本)
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「花祭」の一日

2013年11月24日 05時05分23秒 | エッセイ
 11月23日国立歴史民俗博物館で「花祭」(渋沢:18分、1930~1937年頃)「花祭」(渋沢:13分、1929~1934年頃)「花祭をたづねて」(宮本:12分、1930年)「下粟代の花祭」(宮本:41分、1962年)「映像から読む花祭り」をみながら、人によっては見てから 小林光一郎、宮本瑞夫、北村皆雄の諸氏の解説、それに続いて佐々木重洋(名古屋大学)氏の講演「今、花祭の全記録に挑む―花祭の継承における映像記録の意義-」があった。それは私にとって刺激的であった。民俗文化財政策に関する話であったからである。民俗文化財や無形文化財として指定すること、文化庁が記録映像を撮ることは村おこし、郷土主義、民族主義につながることへ問題点を指摘した。韓国ではそのようなことから国粋主義を高調させてきたし、中国では少数民族の宗教性は保存することを避けて「迷信」としていることなど問題があることを指摘した。それを深く吟味し、考えてみることが必要であろう。
 韓国では李杜鉉先生が1960年代アメリカ帰りに昨日鑑賞した「花祭」を現場で見て帰国して韓国文化人類学月例会(場所は高麗大学)でスライドを見せながら「花祭について」を発表したことを聞いて覚えている。先生は後にそれを私の調査地であった韓国東海岸の祭り「東海岸別神クッと合わせて東アジアのなかでどんなに豊かな芸能性があったかと述べている。そこには拙著が引用されている。昨日宮本瑞夫先生が花祭の「内清め」「瀧払い」「五方」「神楽」「花の舞」「湯ばやし」「外道払い」「しずめ」の過程を韓国の別神クッをみるように、つまり別神祭の「不浄」清めから踊り、ムガム、そして「祝願」で終わることと同様楽しむことができた。また夕食は私の発表の準備の打ち合わせになってしまった。写真(李文雄、李恵燕、高、北村)
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植民地時代の映像には植民地が反映されていない

2013年11月23日 04時58分06秒 | エッセイ
昨日は朝から北村皆雄氏、韓国からの高光敏氏、李恵燕氏と打ちあわせ、会場にはぎりぎり到着し、「関係席」で宮本瑞夫先生、内田順子氏、岡田一男氏など久し振り懐かしく再会、新しい出会い、会は内田氏司会で始まった。大学などで行う講演や学会の発表とは違って劇場で演技をするような雰囲気、懐かしく親しい顔の笠原政治(横浜国立大学名誉教授)氏が有名な俳優のように見えた。宮本馨太郎が1937年3月26日から2週間で撮った「パイワン族の採訪記録」(47分)を解説した。民具調査に物作り過程などが映像で良く撮られていた。観光化による生産、再演して撮ったのが分かる。海軍省製作の「海の生命線」に映る南洋文化との共通文化が理解できた。服装など私が調査した中国の南部の少数民族のチアン族とも似ていると感じた。笠原氏は日本統治時代の貴重な動画資料であるがその時代性(日本人)が現れない。
 続いて大塚和義(大阪学院大学)氏が登壇した。彼は学生時代に私の本を読んだと挨拶をしてくれた。 宮本馨太郎が1938年8月10~31日に撮った「オロッコ・ギリヤークの生活」(18分)を解説、上映された。日本の樺太少数民族の政策により作られた「オタスの杜」など私はサハリン調査の地域経路が多く楽しく鑑賞した。特に私が訪れたオタスの杜の元風景が印象的であった。トナカイ飼育のオロッコ民族村を思いだした。
 共通点が多かった。物作りの紐が台湾では麻、樺太では柳の根と説明されたが、韓国では葛の蔓の繊維が使われた。木上葬は朝鮮半島でもあったものであり、明日私が総合して講演するつもりである。上の二作には撮影者の宮本氏と日本植民地が現れない。植民地時代の植民地が反映されていないこと、もう一つのプロパガンダのように感じた。明と暗の作られた映像であろう。写真(左から北村、笠原、私、宮本)は食堂で中国、北朝鮮などでの撮影の困難さと、台湾の民主化などについて、雑談のように語ったが重要な話が交わされた。


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「記録と記憶」

2013年11月22日 05時54分22秒 | エッセイ
 4年生への講義では彼らが社会へ出て生きること、否、一生、自分らしく、前向きな生き方をもって生きることを祈る心で話すことが多い。昨日のフェイスブックで竹中英俊氏の映画に関した文に「我々には命があるからだ。我々は思考する。我々は考える存在だからだ。」というところに目が留まった。昨日の「日本思想論」で似ている話をしたので。天皇に手紙を渡した山本太郎氏の問題を持って、なぜ問題か、天皇とはどのような存在であるか、なぜ日本人は天皇制を認めて存続させるのか、なぜ親を愛するか、など質問で学生たちは考えながら答え、講義は和気あいあい楽しく、なかなか終わらない。急いで福岡空港から成田へ、よる遅くホテルについた。
 今日から3日間、昔私が4年間客員教授を務めたところの国立歴史民俗博物館で行われる「映像民俗学」に参加して、最終日に講演をして帰宅することになる。私は渋沢敬三の1936年作の映像をもって「記録と記憶」という題で講演する。それは後に本欄で紹介する。このようことを連日考えながら歩くことはまさに「命があるからだ」。私のこのようなことは仕事であり、趣味のようなものである。仕事を苦労とか、辛いとか、刑務のように生きることは無駄である。ポジティブに生きることを考えている。それを授業や講演でもっと多く語りたい。

開催要項
日程:2013年11月17日(日)、20日(水)~24日(日)
場所:歴博講堂
定員:各日260名(先着順)
※事前申し込みは不要です。
※定員を超えた場合ご入場できないことがあります。予めご了承ください。
参加費:無料
主催:国立歴史民俗博物館
共催:財団法人 宮本記念財団、神奈川大学日本常民文化研究所、公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館、渋沢敬三記念事業実行委員会、一般社団法人 日本映像民俗学の会
協力:歴博友の会
開催趣旨
映画を用いた民俗研究の先駆者として、渋沢敬三と宮本馨太郎に焦点をあて、民俗研究における映画制作、活用の意義について考えます。11月17日(日)の開幕講演会では、渋沢と宮本、アチックミューゼアムの映画制作の時代背景やそれぞれの関係性について深い理解が得られる4つの講演が予定されています。20日(水)から24日(日)は5つのテーマで、計22作品を専門家の解説を交えて上映するほか、関連する講演、シンポジウムなども予定されています。

11月17日(日)10:30~16:30 (開場10:00)
〈映像祭〉開幕講演会
10:30 開会にあたって
10:35 副館長挨拶 大久保純一
10:45 講演1 「渋沢敬三のアチックミューゼアムと宮本馨太郎の仕事」
宮本瑞夫(宮本記念財団)
12:00 休憩
13:00 講演2 「渋沢敬三から見る動く映像」
岡田一男(下中記念財団/東京シネマ新社)
14:00 講演3 「宮本馨太郎 昭和初期における郷土映画の構想」
北村皆雄(ヴィジュアルフォークロア)
15:00 講演4 「渋沢敬三と宮本馨太郎は、映像をどう理解し、利用しようとしたのか」
原田健一(新潟大学)
16:00 質疑
司会:内田順子(本館研究部)
11月20日(水)13:00~16:30(開場12:30)
特集1:うみ・やま・かわの民俗
13:00 ごあいさつ
13:05 「八丈島の記録」(宮本:10分、1931年頃)
解説:林 薫(八丈町教育委員会)
13:35 「霞ヶ浦のほとり」(宮本:3分、1931年頃か)
「霞ヶ浦にて」(宮本:10分、1935年)
解説:榎陽介(福島県立博物館)
14:05 「昔時の運輸制度 伊那街道の中馬」(渋沢:18分、1931年)
解説:櫻井弘人(飯田市美術博物館)
14:45 「谷浜桑取谷」(渋沢:19分、1935年)
解説:真野俊和(元筑波大学教授)
15:35 「片品川に沿うて」(宮本:15分、1930年)
解説:内田順子
16:05 「奥利根の流れ」(宮本:14分、1930年)
解説:内田順子
司会:青木隆浩(本館研究部)

11月21日(木)13:00~16:10(開場12:30)
特集2:くらしと行事
13:00 ごあいさつ
13:05 「珍しい深田の田植」(宮本:3分、1936年)
「白萩村アワラ田植」(渋沢:8分、1936年)
「あわら田の田植え」(宮本:23分、1962年)
解説:西谷大(本館研究部)
14:05 「越後竹沢村と三面風景」(宮本:12分、1935年)
「古志郡竹沢村牛角突」(渋沢:12分、1935年)
解説:山田直巳(成城大学)
15:10 「渡辺小勝氏イタヤ細工」(渋沢:10分、1934年)
解説:成田敏(元青森県立郷土館学芸員)
15:40 「うちはの出来るまで」(宮本:12分、1930年)
解説:内田順子
司会:川村清志(本館研究部)

11月22日(金)13:00~16:00(開場12:30)
特集3:パイワン・オロッコ・ギリヤーク
13:00 ごあいさつ
13:05 「パイワン族の採訪記録」(渋沢:47分、1937年)
解説:笠原政治(横浜国立大学名誉教授)
15:00 「オロッコ・ギリヤークの生活」(宮本:18分、1938年)
解説:大塚和義(大阪学院大学)
司会:内田順子

11月23日(土)10:30~16:00(開場10:00)
特集4:花祭
10:30 趣旨説明
10:40 「花祭(綱町邸)」(渋沢:18分、1930~1937年頃)
「花祭(三河北設楽郡)」(渋沢:13分、1929~1934年頃)
「花祭をたづねて」(宮本:12分、1930年)
解説:小林光一郎(神奈川大学日本常民文化研究所)
12:00 休憩
13:00 「下粟代の花祭」(宮本:41分、1962年)
解説:宮本瑞夫
14:00 「映像から読む花祭り」(北村皆雄編集、30分)
解説:北村皆雄
15:00 講演「今、花祭の全記録に挑む―花祭の継承における映像記録の意義-」
佐々木重洋(名古屋大学)
15:50 質疑
司会:内田順子

11月24日(日)10:30~16:30(開場10:00)
特集5:1930年代の蔚山・多島海の民俗
10:30 趣旨説明
10:35 「朝鮮」(宮本:14分、1936年)
解説:李文雄(ソウル大学名誉教授)
11:10 「多島海探訪記」(渋沢:27分、1936年)
解説:崔 吉城(広島大学名誉教授・東亜大学教授)・高 光敏(島嶼文化研究院)
進行:北村皆雄
12:00 休憩
13:00 シンポジウム
13:05 講演1 「アチックミューゼアムのウルサンでの活動と現代」李文雄(ソウル大学名誉教授)
13:45 「多島海残照-1980年代-」(北村皆雄編集:15分)
解説:北村皆雄
14:05 講演2 「多島海の現代」高 光敏
15:00 講演3 「記録と記憶」崔 吉城
15:40 総合討論
司会:朝倉敏夫(国立民族学博物館)
総合司会:内田順子


〒285-8502 千葉県佐倉市城内町117番地 
国立歴史民俗博物館 広報サービス室 広報・普及係 TEL 043-486-0123(代)




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「文化学術交流に展望」

2013年11月21日 05時20分28秒 | エッセイ
 下関の地域新聞の長周新聞に先日の大学主催のシンポの内容が記事になって届いた。いつも充実した記事化には大きく期待するようになった。それは竹下一氏が全体を漏れなく分かりやすく記録してくれるからである。私は自分の発表が十分伝わっているかどうか心配だった。

「崔吉城教授は、ペルシア湾岸の文化、対馬海峡との比較で、運河や海峡との概念についてふれ、海はもともと国境がなく、共有するものだとの見解を示した。そして、東アジア共同体が叫ばれるが、経済的な面からだけでなく、文化共同性の構築の重要性を指摘した。その上で、慰安婦、靖国など歴史認識問題が横たわっているが政治家たちにはそれを発展させることはできない。学者に任せるべきであると述べ、歴史認識論をテーマにインタネットを活用した韓国、中国・台湾の姉妹大学を結ぶ遠隔授業の構想を提案した。(中略)グローバリジェーションで、国際化が進んだと思われたが、それが危険性を持っていることがわかってきた。ボーダレスを作ると言いながら、国境をつくってきた。日本海や対馬海峡などの呼称をめぐってもナショナリズム、右傾化が見られる。悪いのは政治家とメディアだ。政治家は知識がないと、知識人は発言しなければならない。知識の不足は教育で補うべきだ。次代を開く上で、大学の力は大きいと訴えた。」

 昨日11月20日付「文化学術交流に展望」という題下でよくまとまっていて記録物として保存するものとなった。昨日企画委員として会議に参加してシンポの反省と評価を行った。110人参加の中61人のアンケートが収集され反響の多くが肯定的な評価であったが、学生参加が少ないことも指摘された。教員と学生を「強制動員」することが議論された。学術会議には教育的に連携して参加させる方法を提案した。私は教育のチャンスを与えるのは強制ではなく、多少強制でも良いと意見を出した。また終ってない。録音したものを起こして「紀要」などに記載すること、映像を編集することまで議論された。学長主導の記念行事が実っている。
 
 
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「東アジア共同学術交流ネットワーク作り」

2013年11月20日 04時45分02秒 | エッセイ
先週(11月16日)東亜大学40周年記念シンポについては参加者の多くの方々から反響がよく、メールなどでもお礼の言葉をいただいて嬉しく、恐縮である。そのシンポで私は「東アジア共同学術交流ネットワーク作り」について発表した。その始まりは「海峡」とは国境概念がなく、元々共有すること、つまり関門海峡と朝鮮海峡の海峡には境界を超えている観念であること。この境界を超えるボーダーレス領域観念から考えると「東アジア」とは“アジア大陸の東部に位置する、太平洋に面した地域”を意味し、国境ははっきりしない概念である。地理的には中国の東部と朝鮮半島、台湾、日本、東南アジアとシベリアの一部をカバーする概念である。中国の中西部や南部を含むのは難しく、むしろロシアが含まれる。文化的には儒教文化・漢字文化などを共通の概念として、ロシアが含まれない。
 「東アジア共同体」作りへの提言、提示が多くある。しかし尖閣諸島問題、竹島問題、日本海呼称問題、歴史の教科書、言葉の問題など国境が妨げになっている。グローバリズムとは逆行の国粋主義によって日本と中国と韓国は、それぞれ歴史認識の隔たりが大きい。
 私は東アジア地域の平和共存と繁栄を追及するために働き掛けたい。東アジア地域の相互理解と相互協力のために大学・学術協力体制を構築させたい。インターネットなどを利用して遠隔授業を通して問題点を客観的に、分析、意見、議論したい。Eラーニングによる遠隔教育、韓国、中国、台湾の姉妹大学と連携し,本学通信制大学院ブロードバンドシステムを利用して講義し、受講生とはEメールで通信することが楽しい。大学が共同体構築の核心部を牽引したい。(写真は昨日毎日新聞の朝刊)
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ハルビンに安重根の銅像

2013年11月19日 04時08分21秒 | エッセイ
先程ラジオから昨日朴大統領が中国指導者とハルビンに安重根の銅像を作っていることを確認して満足したという話が流れた。その地域の朝鮮族の民俗記念館には安氏関連の資料が展示されているようであるが、さらに銅像を建てるということである。強大な建築ではないのでそれほど問題ではないかもしれないが国民感情や国際政治の問題を起こす憂いがあるので以前本欄で指摘したことがあり、ここで再考してみたい。日本人は一般的に伊藤博文を暗殺したテロリストの安重根を英雄化することには抵抗感を持っていると思われる。私もそのことについては賛同しているが、しかし日本史の中で暴力で社会を変えてきたことなどはどうなのかと疑問が残る。考えてみると明治維新も騎兵隊の討幕(反乱)という暴力によって始まったことであろう。暴力は個人に止まらず国家権力による戦争もそうである。暴力で点綴している歴史はさて置いて、今の状況から考えてみよう。朝鮮半島では安氏銅像建ての趣旨が受け入れられるかもしれないが、他方日本人には感情的に傷つけることになるだろう。朴大統領の「歴史認識を改めなければ日韓友好はない」ような態度は正しくない。
 コロンブスがアメリカ発見以降、新天地発見へ、帝国主義の植民地へ、今はグローバリズムと国際化への期待が大きく、ロマンスを持っている人が多い。しかし国際化の影には「国粋主義・ナショナリズム」という敵が隠れていることを知らなければならない。多くの韓国人から「女性大統領が問題だ」と聞かされたが、私はむしろ女性大統領を出した点が良かったと反論した。しかし今私は彼女の対日態度は良くないと思う。私の期待はずれの一号と言いたい。日本には100万以上の朝鮮系、韓国系の人が住んでいて、日本人と「共に生きる」「ヘートスピーチ反対運動」を起こしていることを配慮しなければならない。大統領を囲んでいる人たちの偏狭な知識、頑固な大統領の態度は是非直して欲しい。
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朝鮮学校で公開授業

2013年11月18日 05時14分24秒 | エッセイ
 昨朝下関の朝鮮学校で公開授業に参観した。運動場には車30余台が駐車。地域住民や支援者たちが訪れ、児童・生徒42人の授業を参観した。新しく校長になった呉栄哲先生が迎えてくれた。いわば正規(一条)学校ではない各種学校として、日本政府から支援金を受けられない民族教育機関であり、朝鮮人として生きていける象徴的な学校である。この学校は総合的には日本の正規教育の枠の6.3.3に沿った教科課程が設けられている。
 私は参観して日本の中での民族教育の意味、学習用語としての朝鮮語・韓国語の事情、日本語と日本文化への教育などに注目した。教室内前面にあった金日成などの肖像画写真はなかった。授業はすべて黒板に白墨で板書して行われた。プロジェクトなどの器機は一切使われなかった。中学2年生の「社会」明治維新の成立について授業が行われた。日本史そのままを説明しながら板書して、生徒は一方的に受身的な授業であった。小学校の「音楽」では先生がピアノを引きながら音を楽譜に書く、私が受けた教育方法とは違った、良い授業だと思った。
 子供は親によって不平等にならないようにという思想が流行っても国家や民族が子供に教育、言語(国語、民族語)を選択しているということは不平等ではなかろうか。なぜこの子供たちは朝鮮学校で、朝鮮の「民族教育」を受けなければならないのか。それが日本語と朝鮮語のバイリンガルあるいは多言語の国際化であろうか、日本の中の孤立した閉鎖的な民族集団作りであろうかなど考えさせられてた。学父兄、総連、日本政府が深刻に考えて政策を立てるべきである。私は多文化、多民族教育、あるいは同化教育など、基本的な問題を考えながら歩いて教会へ着き、秋収感謝節の礼拝に参加した。昼食は盛大な韓定食のように餅、ジャプチェなどの韓国料理を楽しんだ。同席の張竜傑教授の紹介、私から萩の在日1世の90歳の女性の一生記の本を紹介しり楽しい時間を過ごした。
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私は「年少者」

2013年11月17日 04時56分18秒 | エッセイ
 昨朝花屋を廻り材料を購入して我が家のプランターの枝などを利用して盛花を生けて、東亜大学開学40周年記念式典とシンポジウムと祝賀会を飾った。式典では慶南大学校の朴在圭総長から祝辞代読と陶磁器の寄贈があった。ハングルの代読は学部からの弟子である張竜傑氏、日本語の通訳は私の広島大学時代の弟子の李良姫氏、一緒に立っているのを見るだけで嬉しかった。100人を超える多くの人が集まったのも嬉しかった。懐かしい知人にも一々挨拶が十分できなかったのが心残りである。
 シンポジウムには3人が内容などの打ち合わせもせずに活動経歴で何とかなるのではないかという思い通り良かった。発言順番を年齢順にした。古川薫(直木賞作家)氏が88歳の超高齢者、川村博忠(東亜大学客員教授)氏が後期高齢者、そして私崔吉城が高齢者、私は「年少者」として発言し、そして壮年の鵜澤和宏氏が司会をした。古川氏の海峡からアジアへの認識が新しく広がったという話、川村氏の下関の港湾国際都市への発言は私の内容のイントロのような内容であり、それに沿って私はペルシア湾岸文化を例にして対馬海峡を挟んだ東アジアのネットワーク作り、大学の使命について発言した。そこに鵜澤氏が要領よくまとめて、アジアとの良き付き合い方の模索を提起して、「海峡国際都市下関の未来と大学の使命」は有意義なシンポになった。
(写真は私作の生け花)
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朴在圭総長からの記念品

2013年11月16日 03時38分20秒 | エッセイ
今日行う大学開学記念式典で姉妹大学の韓国慶南大学校の朴在圭総長からの記念品を張竜傑教授が持って来られた(写真)。総長の親筆署名入れの特別注文の白い陶磁器である。李朝白磁の優雅な雰囲気を持つ。生け花の花器として一品でもある。張氏はそれを手荷物で持ってくる時の苦労話をした。その白磁が韓国側の税関で文化財搬出の審査受けに時間がかかり過ぎて焦ったという。昔、私も文化財専門委員として民俗資料の搬出審査に空港に出張したことがある。基本的には1910年以後のものは審査対象にならない。しかしこの白磁は創作陶磁器であっても文化財風に見えたようである。記念品を送って下さった総長の温かい心をいただき、展示し、花を生けるのに利用したい。朴総長の記念祝辞は今日の式典で張教授により代読される。
 昨日の夕方は張教授たちとの会食を欠席し、以前に約束した午後6時半からの会議の会場に時間的に余裕を持ってバスに乗った。しかしそのバスは下関に来て以来利用したものとは異なった路線のものであり、住宅街を廻るものであった。初めて知った路線であり、時間が掛り遅れそうなり焦ってしまった。下車、走り、会場に到着して安堵したのはよかったが、事務担当の人以外私一人だけ、間に合ってホッとし、他の人がいないのに失望した。しかし、約束を守った充実感はあった。歩いて帰宅、夕食は大分遅れ、食後すぐベッドに入った。ある在日新聞から年頭寄稿文の原稿依頼、自著のエッセイ集の最終校正などの仕事を放置していたのが気になった。
 
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