生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自律性とは何でしょう?自分が幸せに、かつ、悔いのない人生を送るには、この自律性についてしっかりした考えkたをしていませんと、無理なようです。さて「生き甲斐の心理学」で言う所の「自律性」とは何でしょう?自分を律する、という意味は万とあり、その必要性は誰でも分かっています。ここでは何を律することを一番大事にしているか、といいますと「自己実現への道」です。どういう事かと言いますと、一度しかない人生を無駄にはしたくないと、誰でも願っているのですが、あちこちに目が移り、迷い、戸惑う内に、自分の中の沢山の選択肢、欲望、願いに目がくらみ、自分を律する意識が低下していきます。ですから時々自分を律したい事柄の内から、一番大事な律したい内容について考えないと、どんどん変な方向へ流されていきます。律する、という言葉は嫌な言葉で、ややこしく、めんどう。出来れば律する、などという世界から離れ、楽々と楽しく、だらだらと暮らしたい気持ちも人間にあります。律してばかりいたら、神経も疲労し、日々がこちこちの面白くないくそまじめな生活となるかもしれません。どんな領域を真剣に律したら人々がそれなりに生き抜いていけるか、この律する基準について皆様はどうお考えでしょうか?
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
やる気のない大人がふと、そのことに気づき、どう生きるか、と考えた場合の対処方法を思索します。幼児期の思い出の中に「恥辱感」がやたらと多い人の場合は顔は、ニコニコしていても、心の奥深い根の部分では人を信用しなくなっていて、程々に、まあ、まあ、という形で,どちらかというと玉虫色にしつつ、白黒が明確でなく、自分の人生での自律性に欠落している場合が多いようです。何故かといいますと相手を信頼して心を開くと、相手が横柄に、かつ、図々しくなってきて、言いたい放題、信じられないような暴言や行動を自分にしだし、こちらの心が傷つけられ、こちらは、どんどん自信を喪失されていきます。こうした幼児期を数年、継続すると、いつのまにか、自分が虐めの対象に祭り上げられているのに気付きます。人間には残虐な性格があり、その小さな友人グループやクラスに弱い人がいますと、いつも虐めの対象にする、いわゆる「スケープゴード:生贄の子羊」の存在を人は創り上げます。全ての欲求不満をそのスケープゴードにぶつけ、そのグループの平和が成り立つのです。スケープゴードが一人いると、その社会は平和なのです。ここに人類の不幸があるわけです。人間の社会を何とか平和にしたい天才が現れますと、その原因分析が始まります。古代から、この矛盾に悩み、何とか解決したいと考えた天才達が数世代かけて生まれたのが神話、民話、各種の宗教です。人間の業(ごう)、とか原罪と定義される範疇の哲学的問題です。このように人間の幼児期での疑惑感は必要悪みたいなところがあり、一概に悪い事、と断定出来ない領域の問題なので、私達は過去の恥辱感や習慣的な疑惑心の再解釈をする必要に迫られます。性格となった「恥辱感を敏感に感じやすい大人、疑惑感を著しく感じやすい大人」である自分に気付くと、人はどんどん、その傾向から解放されていくものです。フロイドは「無意識の意識化」という原理から、この哀しい自分を改善していく原理をひねり出しています。










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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
恥辱と疑惑の関係のお話です。エリクソンが盛んに述べている「恥辱」とは、どんな意味か、エリクソン本人に聞かないと分かりませんが、私が心理療法の現場で体験した事例とは、大人のくせにいつまでも意思力も無く、自律性の無い、いわゆるだらしの無い大人達が相手でした。世間でいうだらしのない大人、なのですが、生育史を傾聴していく内に、泣いてはならない心理療法家(原則論:泣くと感情に支配され冷静な対応が出来なくなる危険がありので、原則としては泣かない努力が必要なのです)なのですが、本当に辛くなり、その夜は帰宅しても、どうしてあのような環境で幼児時代を送らなければならないのか、人生、人間業、人類の姿に絶望した若い頃を思い出します。その患者さんに後日お会いする時は、相当緊張しているらしく、相手から、どうかそんなに哀しがらないで下さい、と激励された思い出があります。私は変な心理療法家でした。患者さんが私を激励するのです。しかし、相手は、どんどん心を開いて、色々と意識化し、言語化してくださるようになり、仕事が順調に流れました。さて子供の頃の「恥辱感」は本人の心構えが悪い場合もあれば、周囲が酷い場合もあります。どちらにしても本人の記憶の中に「恥辱感」があるかどうかの問題なので、その倫理道徳的な側面や考え方の善し悪しは後日の問題です。今後、生きていく時に、馬鹿馬鹿しい「恥辱感」を感じないようになれば、それでいいのです。問題は過去の記憶の中の激しい嫌悪感を伴う「恥辱感」をどう処理したら、これから明るく元気に爽やかに生き抜いていけるか、それを対処していきます。暫くこの恥辱感と疑惑の相対的な関連について思索します。








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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分の父親が母方の父の首を切り落としたような場合、あなたはどんな気持ちになるでしょう?持統天皇の幼児期のお話です。父である天智天皇が母方の祖父・蘇我倉山田石川麻呂を殺戮してしまう悲劇は後世の私達には衝撃の歴史です。持統天皇は母の哀しみや、その政治的悲劇の真ん中でそだっていくわけです。持統天皇の場合は意思力も自律性も抜群の女性として育ちますが、普通、このよな環境ですと、意思力と自律性に欠落があるのが普通です。ここで勉強しておきたいのは、性格形成の過程で「意思力と自律性と幼児期の恥辱・疑惑の3つは深い関連性がある」という原理だけを意識化しておいていただきたいのです。自分の幼児期の解釈を変えると世界が変わります。どんな幼児期でも哀しい思い出を逆手にとり、持統天皇のように強烈な意思力と自律性を持つ事が出来ます。ホモサピエンスという人間の心理は、どんな職業、立場でも同じです。




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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
一概には言えませんが、意志力と自律性のない大人は、幼児期、恥辱と疑惑を感じさせるような日々を送らせているようです。さて、どんな事でしょう?エリクソンという学者の論文だけを見ると、ああ、何ともまあ残酷に、こんな理論を平然として述べているのか、と若い頃反感を感じたことがあります。といいますのは、その人格発達論の中で、2-4才の時の幼児期に、何らかの体験から、親、兄弟、または周囲の人々から恥辱と疑惑を感じざるを得ない生活や体験に追い込まれた場合、その子は、自分の力では、どうにもならない日々ですので、段々と自律性を失い、意思力に欠落がうまれてくる、と論文に書いています。その事を、私はとてもがっかりして、これでは、人々は自分の人生に対して希望を持てないではないか、こんな幼児期の体験が人の人生を本当に左右するのだろうか、とエリクソンを馬鹿にした事がありました。若い研究学徒が陥りやすい傲慢です。私の学習不足からきているのですが今はこの理論のお陰で、とても有難い理論だと感謝しています。暫く幼児期の思い出の中にこの恥辱と疑惑の原型をもたらす出来ごとが、いかにその人の生涯を左右しているかを思索していきます。




















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2018年05月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
カウンセリングの対象となる「不信感」について思索します。現実吟味力が健全ですと、どんな環境の中でも、明るく元気に爽やかに生き抜く事が出来ます。しかし現実吟味力が病的ですと、どんな幸せな環境でも周囲の人々を病的に疑い、周囲の人々も邪眼のその人を避けるので、益々愛の孤独感から、人を信頼しなくなります。こうして悪循環の人生を送る羽目になります。心理療法上、問題になるのは、過去の生育史上、何らかの哀しい出来ごとが重なり、人を疑う事が当然のような人生体験がある場合です。この当然、人を疑う幼児体験を自分がしている、という想いは自分を惨めにしていきますので、大人となっても、その出来ごとを抑圧し、見ないようにして成長するのが普通の人間です。カールロジャースという学者は「三つ子の魂、百までも」という日本の諺のような理論を命題として述べていますが、その理論は「一度幼児時代に形成された傾向は、大人になるにしたがい、強化されていく」法則のようなものを生身の人間は所持しているので、自分の傾向と渇望を恐れなく意識化しておくと、その悪い点は改善されていく、という理論です。自分の生育史での癖、習慣、傾向をしっかりと意識化しておくと、無意識の内に病的な不信感は治りますので、勇気をもって一度、信頼のおける「生き甲斐の心理学」を大事にしているカウンセラーと相談するのも良い方法と思います。一人で改善するのは案外難しいものです。





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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
基本的信頼について思索します。人は基本的信頼感を持たないと幸福になれません。「邪眼の人生」と言う言葉がありますが、この意味は「あなたと私」、つまり二人が相対して語り合う時、その眼差しが何とも疑い深い目つきの人に時々遭遇しますが、本当に恐ろしい感じです。目の病気の場合もあるので、一概に、この人は邪眼だ、ときめつけるのは危険ですが、心が疑い深い場合は、そのまなざしが自然にそうなります。子供や犬、猫、カラス等の小動物はまず大人(人)の目を見て、逃げ出したり、近づいたりします。子供や動物は生き抜いていく為に相手が敵か味方かを眼差しで判断しているようです。アフリカの戦乱の国での基本的信頼と平和な日本での基本的信頼感の在り様、内容は当然、違ってきますが、ここ日本でも職場や電車での人への基本的信頼感は現実吟味力が無いとと識別できません。おれおれ詐欺の電話のある日本ですが、この基本的信頼感について暫く思索していきます。




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2018年05月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
希望力について思索します。エリクソンという学者はその性格発達論の中で生き抜く力は0才から2才の間に「希望力の原型」が決まると説いています。臨床心理学は人間の現象を見ては理屈を述べていきますので、世界の学者の所説にいちいち目くじらを立ててはいけません。ふん、ふん、と聞いていればそれで十分です。物理学や数学のような感覚で臨床心理学の原理にいちいち怒る人がいますが、無駄なエネルギーを消耗するだけです。専門家への道を歩む場合は世界の学会に乗り込んで、楽しみながら論戦する必要もありますが、喧嘩をしてはいけません。専門家になる場合は厳しい学問の世界で大いに論戦して下さい。しかし、暮らしの中のカウンセラーの場合はあまり論戦は意味がありません、喧騒めいた論戦は馬鹿馬鹿しく、いつも楽しく優しく語り合う必要があるだけの話です。さてこの生き抜く希望は赤ちゃん時代にお母さんが適当な時に、必要な時にお乳を飲ませてくれ、必要な時に、汚れたおむつを替えてくれれば、赤ちゃんは人を基本的に信頼する原型を身につけ、不信感を持ちませんが、放置されてお乳も、おむつも替えてもらえないと不快感からギャーギャー泣きだします。それでも放置されると周囲の人間を不信感でうけとめる性格が形成されていきます。こういう環境で、希望と信頼と不信感の原型が形作られていくようです。この傾向の自分に気づけば、人はまた、新しい道を見つけ、明るく元気に逞しく、爽やかに生き抜くエネルギーを、それなりに悟り、生きていけるように創造されています。この自分の疑い深い性格に気付かないと永遠に「邪眼の人生」を送る羽目になります。勇気をもって疑い深い自分の性格を認めた上で、この原理を意識化し、素直な人生を送りたいものです。




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2018年05月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
希望と基本的信頼と不信感の関連について思索します。生き甲斐の心理学を勉強する時、或人は精神病の事例研究をやたらに聞きたがりますが、私は生き甲斐の心理学では病棟の事例ではなく、楽しく歴史を勉強しながら原理のみを勉強するように勧めます。大学病院等で働きたい場合は専門の大学に進みプロの道を歩む必要がありますが、暮らしの中のカウンセラーとして身近な人々を支援する場合は、この章のように原理を学び、その上で歴史上の人物を他者分析したほうが良いのです。人々が幸せに生き抜く上での基本原理を勉強していきます。暫く、人生での希望力と人を基本的に信頼する力と不信感の関係性について暫く思索していきます。疑い深い人は幸せをどんどん捨てていきますので、首題の事を誠実に考えてみましょう。









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2018年05月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
持統天皇は何故岡寺に住んだのだろう?ヒトの運命は住む場所で激変していくお話です。色々の歴史書で面白おかしく書かれているのが今日の首題のテーマです。持統天皇は息子を天皇にしたくてたまりませんが、姉の息子の評判は大変なものでした。子供の頃から可愛がっていた姉の息子・大津皇子を殺戮した為、どうも明日香には住んでいられない事情があり、山深い岡寺に身を隠すように住んでいた歴史書が沢山あります。さらには吉野の宮滝に30回以上も出かけている理由についても歴史は面白く書きたてます。現代の私達も会社が倒産したり老後になったり重い病気になったり、事件に巻き込まれたりしますと逃避する場所が必要となります。こんな時、自分を助けてくれる人々がいればラッキーですが、人生はそう上手く流れません。生育史がそれぞれありますが、自分が生きている意味を悟っていれば道は拓けるようです。従来通りの場所に我慢して住み続けたために道が拓けた人、そこに住み続けたために、人生が破局していく人、この現実吟味力の違いが人の運命を決めていきます。






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2018年05月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
談山神社と現代の人々のお話。古代史大好きの人々には多武峰の談山神社という言葉に触れただけで、もう古代史に胸がわくわくしだすものです。大化の改新は天智天皇と中臣鎌足で行われましたが、その密議を積み重ねた場所が、ここ談山神社と言われています。現場に立つと、何故、この場所が選ばれたか、その地形から理解出来ますが、私達も密議を図る場所で成功したり挫折したりします。しばしば電車の中で上司の悪口と深刻な密談をアルコールからみで声が少々大きかったら、そのまえの席に上司の夫人が居て大騒ぎになった映画のような、笑い話のような、哀しい話を昔、聞いた事があります。どこまで本当か分かりませんが謀(はかりごと)は相応し場所でしませんんと悲劇が生まれます。談山神社には藤原系氏族の一覧表が売られていて、私も買いましたが、今まで清和源氏だと信じていましたが、何故か、私の氏も藤原氏一覧に書いてあり「何とか会」に入りませんかと上手にお誘いが書かれていて、年会費も品良く書かれていました。さすが藤原一族は知恵者だなあ、と感動しました。藤原氏の歴史は大化の改新から始まり、その一族は明治政府にも、現代の官僚にも大きな影響を与えている話は歴史書に沢山、書かれています。生き抜く知恵はどうして形成されていくのでしょう?どんな時代でも明るく元気に爽やかに生き抜いていきたいとは思いますが、中々、難しいものです。しかし生きる目的が明確化されると人々は物凄いエネルギーを発揮します。









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2018年05月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
飛鳥寺の就学旅行生徒のお話。飛鳥寺で色々思索していると中学、高校生徒も沢山きているのに気付きました。私は最初は興奮していましたので学生の会話は耳に聞こえてきませんでしがが、一段落しますと、とても面白い会話が聞こえてきます。色々の学生がいましたが、私の興味をひいた会話は2種類でした。(1)はやくここを出て「何とかでゲームの店にいこぜ}(2)最初の仏教ってどんな事をおしえていた、と思うかい?。この2種類の会話のどちらが良いか、悪いか、という視点でなく、この中高生徒も今の段階で何に一番、興味があるのだろう、という視点です。(1)の会話も(2)の会話もそれぞれの今の彼らの生育史が紡ぎ出した言葉で、それぞれに深い意味があるのです。ゲームをやろぜ、という学生はひょっとして将来の電子機器の大学者になあるかもしれませんし、仏教の内容について真剣な眼差しで友達と会話していた人も東大寺の偉いお坊様になるかもしれません。どちらにしても飛鳥奈良地方を旅している学生達の心にどんな形にしても、古代日本の歴史が心に刻みこまれたことは間違いありません。一粒のからしだねとなり、この契機が幸せな人生を形作る契機となって欲しいいなあ、と思いました。巻かれた種は将来、どんな花を咲かせるのでしょう?自分は何の為にいきているのか、この思索が何よりも優先していれば、美しい気付きがあることでしょう。自分は何の為にいきているのか、を思索しなしと、人生は破滅の方向に流れだします。結論は中々でませんが、常日頃、この第一課題は人の人生を左右します。





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2018年05月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
飛鳥寺で感じた自分の人生。飛鳥寺は日本最初の仏教のお寺として有名です。その裏庭に犬小屋があり、そのワンちゃんの名前が何と「イブ」ちゃんなのです。アダムとイブ、このお寺の住職様は比較宗教学の研究をしたのかなあ、と旅仲間と談笑しつつ、もう少し先まで歩きますと、そこの大化の改新の際、首を切られた蘇我入鹿の首塚があります。何とも複雑で意味ありげな風景と思いませんか?最初の仏教のお寺の庭に可愛いワンちゃん「イブ」が私を迎えてくれたのです。何故か、老犬ですが、私にしっぽをふってくれたのも何となく意味を感じました。他の観光客には知らんぷり。昼寝をしていて、だらだらしていたのに、私の声に重たいからだを相当努力して起き上がり、互いに好意を表現しあいました。首塚を訪問し、歴史を思索し、また帰路、そのイブちゃんの所に来ますと、また昼寝をしています。他の方の優しい声掛けには応答しないのに、私が声をかけると、薄く眼を開いて相手を確認し、初対面にもかかわらず、私と分かるとまた重たい身体にむちあてつつ、起き上がり、私にしっぽをゆっくりと振ってくれました。仏様の慈愛をこのイブちゃんに感じたものです。私はカトリツクです。面白いなあ、と思いました。飛鳥寺でイブという名前のわんちゃんと出会い、蘇我入鹿の首塚で彼の魂の平安を祈った後、私の心には何とも言えない暖かい歴史の流れを感じたものです。必死で生き抜こうと努力するその時代時代の日本人、そして1300年の後に私のような人間が一人で勝手に夢想し、幸福を感じて、そして私は生きている限り、日本人の生き甲斐支援活動をしながら生きていこうと決意する、こんな事を考えながら自分の首塚を訪ねててきた平成に日本人を、蘇我入鹿はどんな思い出天国から私を見ているのでしょう?







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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
持統天皇の生き方から考えてみます。現代の日本は飛鳥奈良時代に原型が造られていますが、私達が学習する日本歴史の冒頭部分に近いページが大化の改新です。ご存じのように天智天皇と中臣鎌足が登場し、蘇我入鹿の首を刎ねる場面を見せつけられ驚き哀しみ、人の歴史の物凄さを少年時代に感じたものです。その645年に天智天皇の娘として生まれたのが持統天皇です。ここでは幼名時代の呼称を避けて書いていきますので了解下さい。畏れ多くも持統天皇と比較して恐縮ですが、私が生まれた年に2・26事件がありました。皆様も自分が誕生した時代に日本で何か起きていたかを意識化すると、とても楽に生きていけますので、是非、調べておいて下さい。持統天皇は645年に生まれたので、その年の歴史上の影響が生涯を左右します。天皇だから、と考えては勉強になりません。但し、どんな視点から自己分析をしたらいいか、どう自己分析をしたら自分が生まれてきた目的があぶりり出せるか、色々と生き甲斐の心理学は研究してきたのです。無駄なエネルギーを使わないで幸福になる為に、日本人の場合は(1)汚れと禊(2)もののあわれ(3)甘えの構造(4)恥の文化(5)わびとさび(6)幽玄美 以上6視点の他に沢山あるでしょうが、生き甲斐の心理学、心理療法の場合はこの6つの自己分析から相当大きな現代のストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の5つ)から解放されていきます。例えば私の場合は2・26事件の年に生まれています。父親は海軍の職業軍人、戦後は戦犯、その家族となれば、それ相応の人生をたどります。この6つの特色と自分の成育史と日々のストレスは深い関係がありますので、その関連性を学習するのがこの「生き甲斐の心理学」の面白さです。任族の個性美を病理とする傾向に注意しましょう。


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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年05月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
奈良京都の旅をしながら自己実現への道を思索してみます。人により相当反応は違いますが何故か、奈良、京都の旅は日本人にとって好ましい場所のようです。ニューヨークやロンドンへの旅も、それなりに刺激的で色々勉強にもなり楽しくもありますが、奈良京都への旅は日本人の心の故郷を旅するような心地良さを人々に感じさせます。現場に立つとその地の霊気のようなもの、独特の雰囲気を感じます。越後の山の中と、ここ地元の名刹・深大寺の森の雰囲気は相当違います。この違いは言語化するのは困難ですが、私の五感と体感から言語化すると二つのものを感じます。一つは日本人としての私の魂の領域、もうひとつは私の生育史から感じるものです。このように日本人としての魂、私の生育史、この二つから、どう言語化していくか、暫く思索してみます。この二つの言語化から私が何の為に生きているのか、に焦点を当ててみます。越後の山の中とか深大寺の現場の雰囲気と申し上げてもピンとこないのが当たり前ですので、奈良京都の現場に立った時の話のほうが読者にはピンとくるでしょうから、大いに奈良京都の旅を思い出しなながら書いていきます。
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