生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
赤ちゃんにとっての真理とは<お腹がすけばお母さんから母乳を飲むこと、排泄がありお尻が汚れれば清潔なおむつをタイムリーに交換してもらうこと>です。この母の営みがあれば、赤ちゃんは人(自分以外の人、他者である母・人間)を信頼する真理を悟り疑い深い人間にならずに済みます。疑い深い人間でも大きな神仏の愛に触れたり、誠実に愛してくれる恋人を得る機会があれば、愛の営みの中から疑い深い嫌な性格も修正され愛し愛される美しい世界に生きることができるようになります。エリクソンは0から2歳の期間に人間としての<希望力、基本的信頼、不信感の原型>が確立されるという理論を展開しています。森羅万象を素直に観察し、その中から大人の真理を悟る前提として、赤ちゃん時代で身につけたこの真理<希望力、基本的信頼力、不信感>が人生を悔いなく生き抜く生命力を生み出します。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
欧米の大學での生き甲斐心理学の基礎は身体からのシグナルの識別方法を哲学としてとらえてから勉強を開始します。どんな意味かと言いますと、生き甲斐を自分で探しだす方法として自分の身体に注目させるわけです。身体は現代医学の対象です。医学的に非常識なものは学問の対象にしません。その範囲の中での心理学であり宗教学でもあるわけです。オカルトの恐怖を一番体験し排除しているのがバチカンです。現代の学問を大切にしようと、いつも努力しています。さてその範疇の中で<魂>が訴えてくるうづき、これは比較宗教学として研究していきます。<心>は真善美の範囲ですがこれも心理学として研究していきます。このように人間の生き甲斐を徹底して研究するには<魂と心と身体>からのシグナルをどう意識化し知覚するかが生き甲斐支援活動に当たる私たち学徒の勉強の方向性を示しています。難しい話をして恐縮ですが、赤ちゃんから老人までの生き甲斐支援活動では日常の言葉を使いながら悩み相談にあたりますが、相談を受ける方はこの生き甲斐の心理学を学問としてキチンと勉強し修行していく必要があります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私は今、何と幸せなんだろうと感謝しています。私が今、親しくしている人々は決してあからさまに自己主張して私を困らせるようなことはしません。面と向かって強引に、恥ずかしげもなく自己主張する人々に辟易した時代もありました。仕事をしていれば利害得失がぶつかり合うのが当たり前ですから当然自己主張戦争に巻き込まれます。さて今の仕事はNPO法人という仕事柄もありますが奉仕精神の人々と仕事が出来るようになると醜い自己主張戦を目にする必要がありません。NPO法という法律が日本社会でも正しく理解されるともっと社会が良くなるはずです。アメリカで一番有名なNPO法人はハーバード大学ですが、この法律は資本主義とキリスト教から生まれました。資本と正義と愛が上手に折衷され、妥協点を生み出し、調和された自己主張がこの法律です。案外、NPO法は人々を幸せにする原動力になるかもしれません。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人がそれぞれ所属している社会、職場、文化環境の違いで、それぞれの自己主張のあり方で人生に成功したり、嫌われたりして生きています。現実吟味力の問題ですが、難しい問題です。心理療法で取り組む<健全な主張か、不健全な主張>かの識別基準はどの場合でも、どの事例でも、その人がどの程度、感情を正直に表現しているかを洞察していきます。感情を偽ると人は駄目になっていきます。どの世界で生き抜く場合でも五感と体感を正直に意識の上にあげている人かどうか、で識別していきます。自己主張が健全かどうかの問題をしばらく思索していきます。自己主張が異常になると、本人の人生も周囲の人々も破壊されていくからです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
赤ちゃんから老人まで毎日困ったことを抱えて生きています。明るく元気で生き抜く為に難しい学問や神学を学ぶように神様は要求しているのでしょうか?私はそうは思いません。心を病んだ人、知能の遅れた人、どんな人間でも学問が出来る、出来なに関係なく素朴に手を合わせて神様に祈ることさえ忘れなければ神様は自分の生きる道をきちんと示してくださるはづです。心が知識、学問に飢えれば学ぶ、答えや方向性が分からなくなれば祈る、大学病院でも祈る医師や看護師さんは患者さんに愛されていました。人を愛する人は我慢・忍耐をする必要がないようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
我慢・忍耐と戦う内に人はそのストレスで身体症状が出てきて高価な薬を飲んだりしている人がいます。どんな妙薬よりも効き目がある方法があります。自分は何の為に生きるのか、生きている目的を明確にすることです。神経症、精神病、人格障害ですらこの目的を明確化したことで元気にたくましく生き抜いている人々は沢山います。この答は他人から言われるものでなく自分で探すものです。この為に生き甲斐の心理学があります。答えは自分の心と身体に潜在しているのですが何らかのストレス(不安、怒り、身体症状、錯乱)がその答えに気付かせません。生き甲斐があれば自殺などしませんし日々生きることが楽しくてたまりません。一日24時間でなく30時間くらい欲しくなる毎日です。我慢・忍耐など必要なくなります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
我慢・忍耐は人生の常ですが、何故か心があまりにも純粋で自分の我慢・忍耐を意識化出来ない人がいます。恋愛結婚をして旦那の暴力を自分の愛が足りないから、と悩む女性、児童虐待にもかかわらず、それが親の犯罪と知らずに悩む子供たちも沢山います。倫理道徳、思い込み、優しさから今、感じている我慢・忍耐を無意識の世界に追いやる人々もいます。自己否定、劣等感から何故か、正当な我慢・忍耐を異常な我慢忍耐と解釈する人もいます。それほど自分に自信がないのです。自分が至らないからこの我慢・忍耐はしょうがない、と考えるところから心の病気が始まります。我慢・忍耐をどの程度感じているか、その自己分析から他者の悩みの支援が出来るようになります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
<愛は訓練>と言われています。子供が母を愛し、母が子供を愛する、この段階はいまだ本能的な領域ですが、大人になり社会活動をする年齢になると奉仕活動、福祉医療活動のような大人の愛の世界に突入します。色々の宗教の信仰者を見ると人間の実力を超えた神仏の愛、慈愛をあたかも自分でも出来るかのような錯覚(心理療法では<as,if person:あたかも、何々であるかのような、というタイプ>し、実力以上の愛を注げない自分に悩み、卑下し、ノイローゼになる人が沢山います。人を愛そうと努力される姿には敬意は表しますが、自分の実力を知らない悲劇です。分相応の愛に生きる必要があります。実力を超えた愛を基準に忍耐すると身体症状が出てきます。身体症状を出すような不健全な愛はよくありません。あくまでも平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感を感じる範囲での愛を意識し知覚して愛の訓練を楽しみましょう.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私のブログは心理療法を勉強している人々の為のコーナーです。苦しむ患者さんを支援していく為には自分を知る必要がありますが、これがなかなか難しい。自己主張訓練をする中で思わぬ自分を発見し、はっとして謙遜になります。傲慢な医師、セラピストは患者さんを支援出来ません。さて精神病棟を見ると入院だけはしたくありませんが、器質障害は除き、心因性の病理になる遠因は日常生活での我慢、忍耐の限界を何に基準を置くかで決まるようです。日々の色々の人間関係の中で、自分の我慢、忍耐の限界をどこに置くかで、その基準をどんな考え方にするかで心の健康が決まります。この問題をしばらく考えてみます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
<異文化での驚き>は慣れてくると当たり前のような気分になり自分を混乱させなくなります。アフリカ、南米の人々、イタリアの伊達男のきざきざ会話、そんな驚きは卒業しましたが、日本での驚きで一番すごいのが、感謝を知らない人々との出合いです。心から有難う、と言わないのです。人から親切にされるのが当たり前、ちやほやされるのが当たり前、こんな人々を両親、兄弟、恋人、職場の上司や同僚の関係で持つ人は悲劇です。感謝を知らない人々は<自己愛パースナリテイ障害という人格障害の傾向あり>と診断して間違いないでしょう。<有難う>と心の底で手を合わせられない人々が本当は一番不幸なのですが、何故か本人はいつまでも気付かないようですし警告されると怒り出す特徴がこの病気にはあります。自己愛パースナリテイ生涯の治療は難しいのですが不可能ではありません。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
数年前のお話です。鎌倉腰越の勉強会の帰路、学友と小田急線に乗り楽しく会話をしていました。途中の駅から、どうもバレーボールの運動選手かと思われる高校生らしいお嬢さんたちが7-8名乗り込んできました。いづれも背が高く堂々として少々汗臭いのですが、実に爽やかな感じでした。お顔は健康に輝き少々太めの御脚もいかにも美しく青春万歳という感じでした。しみじみ青春は悩み深いけれども命のエネルギが爆発しそうで、むせるような青春の生命力に感動しました。少々疲れ果てた感じの私が急にいきいきとしてきて、そばにいるだけで逞しいい命をたくさんいただき感謝しつつ帰宅しました。このお嬢さんたちはいづれ社会に入りそれぞれの人生と格闘しつつ人生を送るわけですが、どんな困難に遭遇しても明るく元気に逞しく生き抜いて欲しいなあ、と思いました。若者の心身から発露される無言のエネルギーに感謝と乾杯を捧げます.

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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
日本社会に住んでいるときは気にならないのですが、海外、特に欧米に住むと時々、親しい研究室仲間からあなたは気味が悪いと言われたことがあります。どうしてですか、と質問すると<何を考えているか分からない、何を嫌だと感じているかはっきりしない>からだと言われました。私は父親から日本男児は感情を顔に出してはいけない、と教育されていましたし、日本社会ではアカラサマニ感情を出すな、と折にふれて言われていました。日本社会では、私は自己主張をするほうだと思っていましたが、欧米ではそのように言われ混乱した青春を思い出します。現代の日本の青年男女でも、まだ、そう言われているようです。イギリスで日本の留学生を世話してくれているイギリスの友達も、今でも日本の留学生は<自分の好き嫌い、考え方を主張しない>から気味が悪いと嘆いています。文化の違いはどちらが良いとはいいきれませんが、現代社会での日本人が感情を抑圧しすぎて心を病む姿を垣間見るとき、心の病、自殺防止の観点からもそろそろ感情抑圧と自己の伝達の分野で反省する必要があるようです。日常生活での<驚きの感情>は若さを現わす健全なバロメーターですので驚きの感情を抑圧せず何故、その感情が湧き出したのか、その意味の解釈を楽しみながら生きていきたいものです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
交通事故で意識を失い病院でふーっと目覚めた人は必ず、ここはどこですか?と質問されます。私が臨終のあと、ここは、どこですか?と天国で目覚めた場面を若い頃から空想します。その驚きは大変なものだろうなあ、と思います。天国だったら幸福ですが、もし地獄のようなところだったら、どうしよう、と恐怖に駆られた青春時代もありました。しかし今はカトリツクのお陰で、どんな人生を送っても目覚めたところが地獄だ、とは思わなくなりました。特に欧米の大聖堂や絵画、音楽に触れていくうちに自然と死後の世界を楽しむ習慣が身についてきたようです。また日本を旅をしつつ古い神社仏閣で感じる神秘の世界にも居心地の良さを感じます。比較宗教学を専攻するようになるとエジプト、インド、中国、アフリカ、南米、ロシアの宗教を見ても、いかに人類が自分の魂を無意識のうちに信じているかがわかります。どんな人生を送っても全知全能の愛である神様がしっかりと人間を支え愛しているのが分かります.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
信頼している或修道女さんから聞いた話ですが、某神父さんが臨終のとき、その神父さんの友達が臨終とも知らずに電話してきたそうです。枕もとにいた人が、お友達から電話です、と遠慮して一応聞いたら、その神父さんは電話機に向かい<今、俺は臨終だからね>と話したので、その友達はふざけられたと思ったそうです。そのあと、その神父さんは亡くなったそうです。大往生です。私は両親をはじめ沢山の方々の臨終に立ち会いましたが、この神父さんのように自分の死を明るく受け止め今から天国へ旅立つ喜びに勇み立っておられる風景は初めてでした。自分の死、臨終をこのように迎えられる為に、どこをどう考えたらいいのでしょう。自分の成育史での驚きと人生での知恵について思索していきます。驚きは知恵の始まり。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年10月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
患者さんの中には自分と周囲の和を図る為に、いつも自分を抑えているのです、と嘆く方がいます。日々生きていく途上での自分はだらしがない、自己主張がない、機嫌取り、などなどと自分を痛めつけている姿はとても哀しく、どうかそんなに自分を責めないで下さいと叫びたくなります。正義感を抑え、怒りを抑えている自分が嫌になるそうです。色々お話を聞くと幼いころの家庭はいつも争いの怒号しかなかったので今は、とにかく平安を保持する為に全て自分を出さないそうです。我慢と忍耐からくるストレス曲線(不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱)と我慢から生まれる平安な雰囲気(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感)のどりらを選びたいか、と言う質問には明確に平安感、と断言出来るA子さんは、この選択が一番良いと思います。異常でもなんでもなくA子さんの生き方なのですから。
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