生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私を陥れたがる人は昔のように沢山はいません。政界政府筋の関係の仕事、国立病院関係の仕事では油断出来ませんでした。昔の慈善事業と言われたNGOの自殺防止の仕事でも海外の生き甲斐支援の仕事でも私の地位を狙う人、私の発言に傷ついた人、恨みに思う人、嫉妬心からのさりげない復讐、色々の人々が居ました。どんな職場にも相手を陥れる人は沢山います。こうして人は人生で善意、悪意、無関心が入り乱れながら生き抜いていきます。倫理道徳から批判し合える間は、まだ楽な人生で、気がつけば汚職の嫌疑で牢獄、殺戮という社会もあるのです。国際関係の仕事では容赦なく敵と味方を明確にしながら戦い続けたものです。どんなに善意の相手でも敵のグループに属していれば、もう、それだけで敵扱いで戦い抜いてきたのですから戦場と同じです。さて幼稚園から高齢者施設まで人間は最後の最後まで敵と味方がいるのは現実です。あとは腹をくくり覚悟をすれば厳しい人生でも案外楽天的に明るく生き抜けるものです.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
時々、ぎょっとする人に遭います。知人だけの集まりのはづでしたが、友人が初めての人を連れてきてしまいました。その初めての人が、私に向い、いきなり<あなたって、どんな人?>と質問してきたので、私も周囲の人々も唖然とし、かつシーンとして、その人の顔と私の反応を見ていました。世間の常識では、初対面でこのような質問をする人とは生涯交際しませんが、親友の紹介でしたし哲学の教授という紹介でしたので、少々、むーっとしましたが<どんな人に見えますか?>と逆襲しておきました。すると<人の目を見て何かする職業ですか?>と切り返してきます。友人達は面白がって私達の会話を聴いていました。その人とは何故かその後、30年も淡々と付き合っていますが、親友にはなれませんでした。表現はともかく、あなたを知りたがっている人と面とむかって遭遇したとき、相手が敵か味方か、識別しないと、人生がおかしくなっていきます。自己開示の問題を暫く思索していきます.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
映画<ダウト>はニューヨークのカトリツクミッションスクールでの出来事を描いています。しつけに厳しい校長と疑念をかけられた神父と心優しい素直な若い修道女が登場します。知人の話に刺激を受けて見てきた映画<ダウト>は私に改めて<愛と許し>の必要を感じさせてくれました。生身の人間は、どんなに努力しても過ちを犯しながら生きていく動物です。愛し合っていても、人間は生涯、互いに相手を傷つけて生きていかねばならない生き物ののようです。人間は、どうもそのように出来ているみたいで、とても切ない映画です。見終わって感じた最初の想いは、私の周囲の友達、勉強仲間、仕事仲間は、互いの欠点や過ちを知りながら、決して互いを咎め合わずに、愛と許しを私に与えてくれているなあ、という感動でした。自分の周囲の人々に改めて感謝しました。互いの至らぬところを知りながら、それを口にせず、咎めず、許してくれている周囲の人々に感謝。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
欧米の大学では今でも<見神欲:ケンシンヨク:desiderium>を教えているところもあります。食欲、性欲、見神欲は人間に与えられた3つの本能です。見神欲は誰もが持つ宗教心のことですが、日本の現代人は、この本能のことを知りません。私が勤務していた某国立の大学病院でも、この見神欲が原因で大勢の人々が入院してきますが<日常の欲求不満>がこの見神欲が満たされないことによる精神疾患だと説明してもけげんな顔をしています。無意識の心の奥底で渇望している神仏への憧れを無視すると人は心を病んでいきます。大自然の中に潜むサムシンググレートを大切にすると心が穏やかに成長します。科学万能などという人は余程勉強していない人々です。科学を勉強している人ほど伝統的な宗教を研究しだしています。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
患者さんの<知りたいと思う心>を心理療法家は上手に利用しています。知りたいと思う心が原因でストレス曲線(不安、怒り、身体症状、鬱、錯乱)に陥る場合もあれば、幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感)になる場合もあります。健全な知りたいと願う心と不健全な探究心があるからです。病理学者も分からない事例が多い場合は遺伝、環境、老化、自律神経、免疫、分泌の6つの組み合わせで発病していることだけを意識するので十分です。それよりも遥かに効果が高い手法があります。それはその環境の中での生き甲斐を探すのが一番効果が高いのです.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
同じひとつの感情の中に留まっているとノイローゼになりやすいようです。このように何かの感情にのみ固執していると幸福感を感じる可能性が激減しますし益々身体症状が悪くなります。それに比べ、固執状態を放棄し、明るい別な感情を求めていると自然の摂理上、心が緩んできて、自然治癒力が働きだします。その自然治癒力は最高の妙薬です。自分を一度、すっかり自然の摂理に委ねる訓練をすると、自分の固執しているもの(思考、感情、行動)と身体症状の関連が見えてきます。どんな感情に固執していたかが見えてくると心が何となく自由になります。日常生活で10分でいいので自分の心の固執を解放させ大自然の摂理に自分をゆだねる時間を創造すると、相応しい知恵と勇気と元気が泉のように湧きだします。この小さな努力が自律神経を和らげ、それなりの環境で生き甲斐を意識させてくれ、免疫力を高め、元気を与えてくれます。ひとつの感情への固執は非常に危険なものです。健康な感情とはどんな状態か、といいますと、いつも右に左にと激流のように流れているようです。錯乱ではなく、幸せな気分のうちに、車窓の風景が変わるような、しかし、旅の喜びを感じているような。憎しみに固執していたり、恨み哀しみに閉じこもると、人はたちまち生きる喜びが半減していくようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
今回から第七章<自分を知る方法>に入りました。さて、子どもから高齢者まで好きな人、愛する人を知りたい、もっと知りたいと思います。その知りたいと思う心の不思議さについて心理学でも人間工学、経済学、政治学、哲学、宗教学、まして心理療法の学問でも何故、相手を知りたいと思うのか、その理由を研究しています。心理療法でもこの知りたいと思う意欲を上手に応用しつつ心の病を治療しようとしていますが、逆に知りたいと言う病的な分野も研究していきます。好奇心、知りたい、この意欲はとても大切な研究分野ですが、特に恋人の事を知りたい、という心はとても重要な研究課題で,この知りたい、と言う心理は真理に繋がるだけに、上手に活用したいものです。自分を知る方法について思索していきます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私が一番楽しい、と思う生活の場面は空想の世界です。現実の生活に身を置きながら頭は空想の世界をさまよいます。現実には楽しいこと、辛いこと、厳しいこと、色々ですが、10分とか20分の時間を創り、書斎で座禅風に座りながら、考えるべき学問の世界、信仰生活の世界(祈りの世界)、理想の世界を空想するのが一番楽しいのです。空想だけでなく、この問題で最悪の状態に追い込まれる現実とは、どんな状態になるだろうか、とか、最良に展開した場合、どんな現実になつているのだろうか、とか色々思索すると、自分がこの世とあの世を行き来している姿が分かります。つまり心が自由だとメビウスの輪のように表と裏の世界を自由に泳ぎまわっている自分を見出します。このシュミレーションを描く楽しみは人生でのオアシスです。思い込み、信念、倫理道徳を全部捨てて、空想、思索の世界を自由にさせて泳ぎまわるこの快感、光と影、理想と現実、表と裏を空想の中で、自由にのびのびと行き来すると、思わぬ知恵が湧いてきます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
患者さんを観察していると、この世は天国か、地獄か、という見方をしている人々が非常に多いようです。人はこの世をどう解釈するか自由ですが、この天国か地獄かという解釈の仕方はあまり利口とは言えません。比較宗教学という学問があります。古代から現代に至る歴史には沢山の宗教が生まれては消えていきました。現在生き残っている数千年の歴史を持つ宗教での天国と地獄の解釈も万とあります。私は天国とは愛のある世界、地獄とは愛のない世界だと確信しています。どんな病気になってもその方をしっかりと愛している人々、家族、友人、知人が確実に存在しています。本人には地獄と思える闘病の日々ですが、自分を愛している人が一人でも居る限り、地獄と思わないでください。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
明るいから良い、暗いから悪い、とは言えませんが、どちらかと言えば明るいと<福>が呼びこまれるのも現実です。中学、高校の同級会で何十年ぶりに学友にあっても殆どの人の性格はあまり変わりません。暗い人は相変わらず暗く、明るい人も今でも明るいのです。人生模様は様々ですので、同級会でびっくりするほどA君の人柄が変身していたので職業上の関心と勉強の為に、その職場を訪問しました。周囲の人々が明るいA君を心から愛している姿をしつかりと把握できました。確かに、三つ子の魂、百までも、と言われているように、A君の性格は変つていませんがA君の<考え方>が相当変化していました。現実を明るく希望が持てるように解釈しているのです。人は考えた通りの人間になる、と言われているように、考え方を変えると自分も、自分の周囲の世界も変わります。現実の解釈を変えると五感と体感の感じ方まで変わります。考え方を変えることで、現実の解釈も非常に変わってきます。どの人も神仏から愛されているわけですから一度、現実が天国だ、と解釈するのも無駄ではないようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
患者さんが健康な人に向かって吐き捨てるように言う言葉<この病気でないあなたになんか、分かりっこない>を巡り考えていきます。言う方も言われる方も非常に辛い場面です。病気ばかりでなく不慮の飛行機事故での被害者、通り魔による殺人事件、戦争に駆り出された人々、それぞれが吐き捨てる言葉<当事者でないあなたになんか、分かりっこない>。この言葉を<言われた人々の哀しさ、愛の喪失感、愛の孤独感>を<言った人>は考えません。このグループには永遠の冷たさが支配します。さて重症でも、悲劇的な事故に遭遇しても、(あなたになんか、私の気持ちは分からない)と(言わない人)もいます。その患者さん、被害者に対して、黙々と暖かい眼差しと温かい手を差し出しながら、虚しい言葉を発しないで生きている人も沢山います。このグループには永遠の温かさがあります。この<あなたになんか、わからない>という言葉をもう一度、静かに考えてみたいものです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人は幸福にならなければなりません。その為には<幸福の条件>と<幸福感>の違いをどうしても認識しておく必要があります。幸福の条件とは結婚相手は外交官の男性、女性なら財閥のお嬢様、という条件のこと。幸福感とは経済的、社会的な地位に関係なく、生物としての身体で感じ取る五感と体感での幸福感のことです。同じ幸福、と言う言葉からくるイメージでも、この違いは天と地の差があり,この違いを理解しておかないと現実吟味力が狂っていつてしまいます。今回は幸福の条件ではなく、<幸福感>が主人公ですが、この幸福感を感じ取る条件が一つあります。それが臨床心理学で<現実吟味力>と呼ばれる受容概念です。この現実吟味力が狂っていると幸福感を感じられるはずの現実を不幸と解釈してしまいます。終末治療の患者さんでも幸福感を感じながら尊い死を受け入れていく患者さんも存在しているのです。この現実を解釈するための心理療法の理論を思索していきます。辛い話ですが、避けて通ると益々、辛くなりますので正面から心理療法の理論を思索して、心からの幸福感を手にしていきます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
長いような短いような人生ですが、そんな人生からこの言葉を考えると、高校生の頃、教えてもらった言葉<求める者は受け、探す人は見つける>は、とても面白い考え方でした。今から考えても、ぞーつとするのは、もしあの時、神様が私の祈りを聞き届けてくださったら、今のこの幸せはないなあ、聞いてくださらなくて助かった、という汗の出るような思い出が沢山あります。西本願寺が所有する大切な宝物・親鸞聖人が愛読したと言われる<世尊布施論:マタイ福音書5-7章を中心とした景教の経典>もこの第7章<求める者は受け、探す人は見つけるーーーー>が中心ですが、宗教を持つ、持たないに関係なく人類が大切に保持してきたこの考え方<マタイ福音書の第7章>を読んだ人と読まない人は、その進路や生き方に大きな損失が出るでしょう。沢山ある明るい希望を与える哲学の最高峰がこの第7章だと思います。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
何が低級で、何が高級かなどと、このブログで書こうものなら私はすぐやられてしまいます。一番最初に飛び込んでくる槍は<おまえほどの低級な人間は見たことがない>です。ロンドンの学会で若いころ、人の論文にケチをつけたことがあります。若気の至りでしたが、この時にもこれに近い反論が飛び込んできました。どの世界でも相手にケチをつけると、大体、この言葉が出てくるのが面白い現象です。しかしです、どの世界にも低級なもの、高級なものが存在しているものです。人間の生身の世界で一番関心の高い領域は<男女の性の世界>ですが、旧約聖書の雅歌は花嫁と花婿の愛と性の世界を歌いあげた作品(実は人類と神の愛の世界の比喩的な表現です)が、あの世界を低級という人はいません。同じ性の世界でも愛の世界でも何が低級で、何が高級なのかを決めるのは私達自身の問題でもあります。今回は槍は飛んでこないかも。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年07月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
伝統的な古くからの宗教、少なくとも数千年の歴史を持つ宗教は世界からの厳しい批判の洗礼を受けていて、あまりいい加減な宗教哲学はありません。歴史をたどれば実にひどい話も山ほどありますが、現在の世界の大学できちんと教えている学問としての宗教はなかなか立派な内容です。アメリカの某大学の病院でも治療チームを二つに分け、患者の為に祈りながら治療に当たったチームと祈らなかったチームの治癒率を見た場合、明らかに祈りのチームが高い、という本がありました。一番良い祈りの効果測定方法?は自分が日々の生活の中で、心を天に向けて謙遜に神仏に祈る習慣をつけるとすぐ分かります。理屈は不要です。祈りながら、悔いのない人生とは何だろう、と自分なりの疑問を天に素直にぶつけつつ追求し探究していくと何となくその生き甲斐のありようが見えてきます。これは人に言われて(これがあなたの生き甲斐ですなぞと)わかるものではなく、血を流しながら、努力しながら、自分で見つけるものです。
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