生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
現代日本人はあきれるほど神様を信じていません。欧米に住んで感じる最初の事は宗教を持たない人を欧米の人は気味が悪い、と感じるようです。質問されたら、嘘でもいいからブディストです、と答えていないと信頼されません。さて宗教を信じてテロリストになると困りますが、普通の常識的な人は信仰があると隣人を大切にします。神の前では人類は平等ですから差別意識はありません。どんな偉い人の前でも礼儀は重んじますが、心の中では劣等感もなく、平安感を維持できます。厳しい現実生活の中で、不治の病になっても魂の存在を信じていますし、どんな罪深い人生を送ってきても神様の寛大な愛と許しを信じているので安心して天国に旅立つことができます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
現実吟味力が欠落していると騙されたり、誘惑されたり、判断の選択に支障が出ます。相手を信用してよいかどうかを吟味する力は訓練が必要なようです。一度人から騙されたから、もう信じないという人がいますが、これは益々幸福になるチャンスを失います。人を信じる喜びは大きいのでこの<信じる>営みはとても重要。騙されたも、騙されても、それでも異性を愛する人がいますが、この場合は愛の孤独感が怖い場合もあれば、それを知りつつ愛に生きようとしているのでしょう。カトリツクの神様は人に裏切られても裏切られても、それでも人を愛し続ける神様です。長く厳しい人生の中で、この神様と出会った人々は大きな安心感を持ちながら生き抜いています.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分の両親が本当の両親かと悩む事例は案外多いようです。それぞれの背景が違いますので、ここでは解決方法は書けませんが何故、信頼できないか、その気持ちを傾聴していく必要があります。ただ傾聴するだけでは治療になりません。不信感の問題は必ず理由があります。科学的に証拠をあげられるとか、上げられないとかの問題もありますが、心理療法でのこの領域の解決方法は<信じて見えてくるもの、信じてみえなくなるもの>の視点で解決していく必要があります。信じると幸福曲線(平安感、友好的な感情、健康感、幸福感、統御感)に自分を追い込める成育史上の事例、信じないと自分をストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱)に追い込む事例を十分語り合う内に必ず解決します。時間をかけてこの二つの事例を語り合う内に、その事例に相応しい答えが見えてきます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
まさか,あの人ではないだろうと思いましたが、私が近所の野川を散歩しているとき、昔の患者さんにばったり会いました。遠くから似ている方だなあ、と思いながら近づくと、相手も私かどうか、観察していたようです。自信がないので、そのまますれ違おうと思いましたら<あ、お久しぶりですね。今、驚いたことに、すぐ下流で鯨が泳いでいるのを見ました。こんな小さな川にもクジラがいるのですね>。私はとっさに<それは初めて聞きました。どのあたりにいましたか?><ええ、100メーターくらい下流のあのあたりです><驚いたでしょう><ええ><どんな感じのクジラですか><何とも幸せそうでしたよ>。幸せという言葉を聞いたので安心して別れました。さてここで大切なこと、相手の異常な言葉を聞いた時、すぐ侮蔑したり嘲笑したら患者さんは必ず錯乱していきます。上記のような会話が必要です。しばらく患者さんを信頼するとはどういうことかを考えていきます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
<目からうろこ>と言う格言がありますが、時々経験します。この<うろこ>が落ちるタイミングはまさに天の摂理みたいなところがあり、サムシンググレートの存在を感じます。幼いころの未熟さも知識と経験の蓄積から段々と知恵がついてきますが、その知恵も生育のそれぞれの段階で、逆に成長を妨げる要素にもなつているようです。そんな折に<目から鱗現象>があると、新しい知恵に気づき、生きる喜びが新鮮な中に生まれてきます。相手の眼差しを楽しみながら自分を反省するとその鱗がはがれるチャンスが増えるようです。仏像が若い人々に愛されるのは、あの優しい眼差しが苦しむ人々をいやすのでしょう。日本人が仏像を見つめる心は本当に美しい.
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
散歩のとき、色々の方とすれ違います。すれ違う相手の目を見たとたん、何故かこちらの気分は悪くなり、なんとも不快になった経験はありませんか?さてアイルランドを旅すると、よく玄関先や門柱にホワイトビーンとかニンニクを下げている家に遭遇します。聞いてみると妊婦が邪眼を持つ旅人に見つめられると赤ちゃんが変になる、という言い伝えがあるので、ホワイトビーンを下げておくとその悪い気を吸い取ってくれるし、ニンニクはドラキュラから守ってくれるからだと説明を受けました。遠くからいかにも邪眼を持つ人が来たら目を合わせないことが秘訣のようです。人間は弱い動物ですので邪眼は避けましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分の心以外は全て驚きの対象だ、と言われています。この法則を知ると相手の目を見ながら、相手を楽しむことができます。さて人間は何故、自分の心の世界が正常で、自分以外の心を驚くのでしょう?それは魂のせいだと論ずる学者もいます。人間は魂と心(精神)と身体で構成されていますが、心と身体は周囲の環境にさらされていて、いつも激動の流れの中で生きざるをえません。自分自身を無くしたら周囲に流されて混乱し滅びていきます。そこで魂が自信をもつように意識無意識の世界で激励してくれているようです。自分の心の世界を自分で否定したら生き抜くことは不可能です。自分以外の人の心の世界を楽しむくせをつけると人生がとても楽しくなります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
愛しい恋人に会うと必ず目を見つめあい、そして愛の世界に没入すると言われています。ロミオとジュリエットを読むと何とも美しい世界が展開します。若いお母さんが赤ちゃんを見つめる目は何とも美しいし、見返す赤ちゃんの目も愛らしさに満ち満ちています。目をみつめて無言の愛を伝達する、それは言葉が要らず、しかも空しい言葉なしに100パーセント愛を伝達できる世界です。嫌いな人の目を見る人はまずありません。好きな友人とは安心して目を見ながら会話を楽しみます。このように目を見つめて会話出来る相手を沢山持つ人は最高の人生を送っています。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
生まれつき目つきが悪い人はいません。赤ちゃんのまなざしは全員綺麗ですが、成育史の中で辛いこと、哀しいことが蓄積していくと、知らず知らずに眼差しが邪眼になる場合があります。平素、優しいまなざしでも、その人が怒り心頭にたっすれば、その眼力に恐れをなして目をそらし逃げ出したくなります。眼は口ほどにものをいいますから、猫ちゃん、わんちゃん、道端で逢うカラス諸君も、必ず私の目を見た後、行動しています。私のマンションの階段で時々合うカラスがいます。おはよう、と声をかけ優しい気持ちで目を見ると逃げませんが、私が機嫌が悪い時は、玄関を出たとたんに飛び立ちます。しばらくこの邪眼と慈眼について考えます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分の感情をもてあまし親友やこれと信じた知人に感情を吐露すると説教をされ、二度とこのおっつあんには本音や感情、気持ちは言わないことにしよう、と思ったことはありませんか?聞いてくれるだけで十分なのです。この微妙な感情の裏を知り尽くし、黙ってひたすら聞いてくれる人を持つ人は幸せです。人生には確かに説教をされて運命が拓けたことはありますが、この年齢になっても、感謝に該当する説教は、せいぜい二つか三つです。あとはトンチンカンな事例ばかりです。このように感情を何も言わずにいったん受容することが最大の愛です。激情を吐き出すとそのあとんは今後、どうすべきかという知恵はその人自身にわき出すものです。その湧き出した気づきを、どう取り扱うか、ほとんどの人はその湧き出したものを無視している現状を見ると、もったいないなあ、と思います。人生での難問への答えはその人自身の中に存在している、という真理を大切にしましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
感情の意味を考え、その意味を探索する喜びをいったん知ってしまうと、人間はとても幸福になります。お顔の表情が豊かな愛にみちた人を観察していると、あるがままの現実をいったん素直に受容しているタイプであることが分かります。理想と現実を冷静に識別し混濁していません。<私とあなた>の関係においても、私は私、あなたはあなた、ときちんと識別できるタイプの人です。おバカさんになるほど、自分の思い通りにならない相手に腹をたてたり配慮が足りない、と相手を侮蔑し悪口を云います。育った環境で自分ではどうにもならない性格が形成されていますから今更ぐちを言っても始りません。これから自分の感情の意味を倫理道徳で自虐的に批判せず、この感情は自分にどんな意味があるのかを冷静に観察する習慣をつけると、その感情の発生原因がわかり、その意味もわかり、自分の感情の曼陀羅を楽しみだします。感情は神聖なものです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
感情がなくなるとまず能面のようになります。生まれつき能面の人はいません。赤ちゃんは実に豊かな表情をしています。さて冷戦華やかな時代、1960年代、公用でモスクワに居ました。当時のソ連政府は人間の誕生をも政府の管轄下に置いていました。産院病棟では赤ちゃんが包帯で全身をぐるぐる巻きにされマグロのように並べられていました。将来大人になった時、政府の統制を素直に聞くように赤ちゃんを教育していました。自由意思を育てるのを警戒した産院政策のひとつです。現在のロシアはその産院政策を中止し赤ちゃんは手足を自由にばたばたさせています。感情は自由に羽ばたかせていかないと人は必ず能面になりやすい理由は何故でしょう?一方、感情に支配されると人間は自分の人生を破滅に追い込む傾向があります。抑えると能面になり豊かな美しい感情は亡くなります。セルフコントロールをどうするか、大きな課題です。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
何?、人食い人種だって!、と驚かれるでしょうが、1973年のメキシコでの或ワークショップでの話です。ニューギニアの人食い人種の村出身の某宗教家ですが、ニューヨークでの1970年代の生活と1940年代のその村での子供のころの生活を比較しながら貴重な経験談を語ってくださいました。地域と文化と歴史の違いで傍目には感情生活が相当違うと想像されますが、どの時代、文化、地域でも、その感情生活は同じだと断言していました。不安、怒り、鬱、錯乱はどこでも同じだそうです。人肉を食べない人が異常者、人肉を食べる方が異常者、それぞれの時代と地域と文化では扱いが違います。そのように心理療法では第1回の面談では相手の感情を否定せず、何故このような感情になっているのかを冷静に洞察していきます。何故この人は身体症状となるまで自分を追い込んでいるのか、その原因を見極めるまでは相手の感情をそのまま受容していく必要があります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分がまだ未熟なので、あまり人の事は言えませんが心理療法で成功する為には<感情の受容>という修行を相当努力しないと成功しません。大学病院では患者さんに<あんなのような大バカ者は初めてや>と言われますが、そんなとき、かーっとなるようでは大学病院を辞めた方がいいでしょう。だいたい患者さんになじられる時のパターンが決まっています。患者さんの異常な感情に理解を示さないとなじられます。患者さんは異常な感情を持つているわけですから、その感情を素直に受け入れた上で病理の原因を洞察しなければ仕事になりません。人は思考と感情と行動で人生が成り立っていますが、治療では思考と行動は後回し、まずはその異常な感情をセラピストは受け入れる必要があります。受け入れるとは賛成するのとは違います、その異常な感情をいったん受け入れた後、何故、そのような感情になるのかを分析していきます。暫く感情の受容という問題について思索していきます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2020年11月16日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私とあなたの関係において、自分が愛されているとわかった時から、何が変わるでしょうか?健常な人なら今までのように相手の言動にいちいち怒らなくなります。今まで1程度の言動に対しても自由を侵された不快感から反応を示していたのが、3程度の言動は笑いながら、その不快感を飲み込んで、相手の愛だけを信じてニコニコとその不快感は流しされるようになります。相手が図に乗って5程度くらい踏み込み過ぎたらバチっと諌めます。このようなピンポンのやり取りをしながら二人の愛は固まっていくのが普通です。しかし人の愛を何故か信じる力のない人も確かに存在しています。人の愛を信じる力の無い人はいつも孤独感と不安感のうちに人生を送るでしょう。100パーセント人の愛を信じてはいけませんが全知全能の神様を100パーセント信じながら、人に対しては、いつも<愛と許し>を意識していれば永遠に愛し合える恋人を持つことが出来るでしょう。
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