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歩くことが唯一の趣味ですから。

番町界隈2

2023-12-02 | Weblog

番町界隈を歩いてブログを書いたとき、文人通りを行き来しても島崎藤村の住居跡が見つからなかった話をしたら、ご家族のかたが場所のわかる地図をくれたので改めて尋ねてみた。見つからないわけだ。脇道に曲がった場所で、案内板が木に隠れてた。

枝をかき分けて字を読むと、昭和12年(1937年)から藤村が6年間ここに住んだそうだ。6年後の昭和18年(1943年)は没年だから、晩年の住居ということになる。たまたまなんだろう、画家の藤田嗣治のアトリエが同時期に目と鼻の先にあった。藤田は藤村の亡くなる前後に神奈川へ疎開し、転居後のアトリエは空襲で焼けた。

いまはアパートになっている藤村の住居跡も、だから空襲で焼けたに違いない。もっとも藤村は昭和18年(1948年)に大磯の自宅で亡くなったというから、空襲以前に疎開なのか転居なのか大磯に移っていた。文人通りの住民はこぞって神奈川に越したのかもしれない。泉鏡花は空襲より先に近くの住居で逝去した。

そこから四谷駅のほうへ出て、お堀端の公園沿いに市谷駅のほうへ進んだら、内田百閒の住居跡があるはず……いただいた地図を頼りに尋ねると、あそこの角地がそうに違いないけど光文書院のビルがあるだけで案内板や記念碑のようなものはない。『ノラや』のノラはこの辺で失踪したのだろうか。

ノラを探して徘徊する百閒もかくやと近隣を捜索したら別の旧居跡に看板が出ていた。藤村が番町に転居してきたのと同じ昭和12年(1937年)に百閒も番町に越してきて、いまの番町公館のところに住んだが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼け出され、看板の立つ場所の掘建小屋に戦後も3年ほど住んだ。そのあと光文書院の場所に三畳御殿を建てて移り住み、昭和46年(1971年)に亡くなるまで暮らした。

さらに市谷駅のほうへ足をのばし、フランス出身の風刺画家ジョルジュ・ビゴーの住居があった角地にきてみた。工事をやっていて痕跡ひとつなかった。道路をはさんで向かいに吉行淳之介が住んでいた(時期はぜんぜん違う)というので、右往左往して調べたが何もそれらしき跡はなかった。

二七通りを九段のほうへ歩いていくと、寺田寅彦の住居跡は見つからなかったけれども東京家政学院の門前に『明星』発祥の地の案内板があった。明治33年(1900年)に与謝野鉄幹が主宰する東京新詩社の機関誌として始まり、高村光太郎、北原白秋、与謝野晶子(鳳昌子)らが寄稿した。集英社の『明星』とは別物。

その先の路地に入って1本目の通りとの角地が、平塚らいてうの住居跡のはずなんだけど何の痕跡もなかった。明治44年(1911年)に25歳で雑誌『青鞜』を創刊して、「原始、女性は太陽であった」という表題の文章を寄稿し、大変な話題になった。そのわりに案内板すらない。

二七通りに戻って九段のほうへ歩くと、塙保己一の和学講談所のあったところでまたビル工事か何かやっていた。『群書類従』を編纂した江戸時代の人で、若くして目が不自由になり、琴だか三味線だか弾いていたのが学問に志して古文献の研究に邁進したすごい学者さん。アパートか雑居ビルにでもなるのかな。

その先の永井荷風の住居跡はこのような更地になっていた。靖国神社のほうへ曲がったら小山内薫の住居跡があると思って、行ったり来たりしたけどアパートや飲食店があるだけで手がかりすら見つからなかった。塙保己一の和学講談所の跡の工事現場に戻って、国木田独歩の住居跡を探しにいく。

そこは大妻女子大や付属校が密集するエリアになっていて、国木田独歩の住居跡や坪内逍遥の住居跡や武林無想庵の住居跡を、いまどき珍しいセーラー服の学生らが通り過ぎる。もっとも独歩や逍遥や夢想庵の住居跡として表示があるわけでもないので、おそらく誰ひとり意識することなく入学から卒業まで通過するだけ。

坂を下って大杉栄の住居跡がどうなってるか見にきたら、そこの角地はセブンイレブンになっていた。獄死したアナーキストの住居跡がコンビニエンスストアになってるとは意地の悪いこと。もちろん案内板や記念碑の類など、あるはずもない。つまらなくなってきたので、そこから地下鉄に乗って家に帰った。つづき(番町界隈3)は、また今度にしよう。

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