散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

日本一短い鉄道

2020-02-15 | Weblog
芝山千代田駅から東成田駅まで1駅だけの芝山鉄道は全長わずか2.2km、所要時間およそ3分しかなくて
「日本一短い鉄道」ということを売りにイベントなど催して乗客を増やそうと営業努力している。結構、
もの好きなお客さんが引き寄せられるようで、ぼくなども芝山鉄道の社屋から芝山千代田駅を見下ろし、
ホームに停まってる列車を思わず撮ってしまった。


どうしてたった1駅だけなんだろう……?

東成田駅から先はすべて京成電鉄の路線だ。東成田駅は1991年まで成田空港駅だったが、第1ターミナル
と第2ターミナルに鉄道が乗り入れることになってからは、成田空港駅という名前を返上して東成田駅に
なったという。返上するまで芝山鉄道が空港に乗り入れていたかというと、そうではない。


開業したのは2002年だから、とっくに盲腸線

どうやら複雑な事情があるらしい。1966年に閣議決定で新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設
が決まると、住民の反対運動が起こり、激しい闘争に発展した。1977年に地元の芝山町が空港建設の
条件として鉄道敷設の要望書を運輸省(現・国土交通省)に提出したら、運輸省はその条件を飲んだ。
反対闘争はさらに激化して、1978年には反対派が空港の管制塔を占拠したこともある。


3分間、芝山鉄道に乗ってみた

どうにか78年に開港した成田の新東京国際空港。それからも京成スカイライナーが燃やされるなど
反対闘争が続いたようだが、運輸省が芝山町に約束した鉄道は作らなくちゃということで1981年に
芝山鉄道株式会社が第3セクターとして設立された。10年後に「成田空港駅」が東成田駅になって
メインの成田空港駅は第1ターミナルに移行したが、まだ芝山鉄道の建設は始まらない。


こんなに乗客が少なくて大丈夫か

1998年になって鉄道建設がようやく始まった。運輸省が約束して20年後に工事開始。よっぽど反対が
激しかったのか、やる気がなかったのか。反対派の所有地を迂回して鉄道が敷かれたので、最短距離
ではなく迂回路で敷設されている。反対がなければ2.2kmよりさらに短く、3分よりさらにすぐ着いた
にちがいない。工事が始まった4年後の2002年に芝山鉄道は開業した。


東成田駅から先は歩いたほうが早いみたい

空港第2ターミナルまで、ほぼ直線の(1か所だけ曲がる)地下道を500m歩くと10分ぐらいで着く。
成田駅まで行って乗り換えて空港第2ビル駅で下車するより早いんだろう。実際に地下道を歩いたら
すれ違ったのは1組の父娘だけ。あまり利用する人がいない地下道のようだった。


東成田駅の秘密扉を開けると昔の成田空港駅

30年ぐらい前まで使われていた「成田空港駅」のホームが地下にそのまま残されている。初めての
海外旅行は1990年だから、たぶんこのホームそのとき利用した。スカイライナーから下車した。


当時のスカイライナーの看板が残っている

30年使われていないが、電気も水道も通じているので営業しようと思えば明日からでも可能らしい。
成田が第3ターミナル、第4ターミナルと拡充されたら再びこの駅が利用される日がくる可能性も
あると話す、案内の人の目がそのとき強く輝いた。


「成田空港」の表示も当時の広告もそのまま

昭和のにおいがする。平成の30年間をスキップしてるから。たったそれだけのことなのにレトロ
と化している。平成っていったい何だったんだろう? 反対派はどこへ消えたんだろう?


ドラマなどのロケによく使われる昔のホーム

新垣結衣もここに来たし、菅田将暉もここに来たし、吉岡里穂もここに来たと案内人の人が語るとき
その目が再び強く輝いた。ロケに立ち会ってサインをもらったそうだ。何のロケだろう。まいっか。
芝山鉄道は現在、京成電鉄に乗り入れて芝山町の住民が通勤通学する足になっているが、輸送人員は
リーマンショック直前の1日およそ2500人をピークに現在は1500人程度まで下がっているので、観光
やロケの需要喚起にも励んでいるという話だった。その点、日本一短い鉄道でよかった。
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氷穴

2020-02-08 | Weblog
かさぶたをはがさずにいられない心理とたぶん同じなんです、わざわざ寒いときに寒いところへ行きたく
なってしまうのは。去年の冬は氷柱や樹氷を見に行って寒い思いをしたけれど、今年は暖冬だから氷柱も
樹氷も大きくならない。もう見納めかもしれない。温暖化でヒマラヤの雪も消えるくらいだから。



あきらめきれずに富士の樹海の鳴沢氷穴を見に来てしまった。年間を通じて穴の中は零℃以下だから夏は
2時間待ちの行列ができるらしいけど、冬は待ち時間なし。なんてお得なんだろう。この日は雪が積もり
外の気温はマイナス3℃。洞穴の中は零℃……ん? 外の方が寒い?



穴の中は狭くて高さ90cmしかないところも腰をかがめて通らないといけない。岩で頭を打たないように
ヘルメットを借りてかぶり、おそるおそる穴の奥へ石階段を下りていく。なんかすべる。怖い。



どこかで切り出してきたと思われる氷が穴に積んである。いかにも寒そうな眺めではあるんだが、でも
あったかい。穴の中あったかい。ほっとする。ずっとこのままでいたい。後ろから人がくるから、奥に
進まないといけない。



つららが下がっている。冬でも夏でも洞穴の中の温度が一定ということは、つららは夏でも下がってる
んだろうか? 下がってるんだろうな。夏につらら見たら涼しく感じるだろうけど、冬はつらら見ても
あったかい。外が寒いから、その分あったかい。零℃、あったかい。



石の階段を上って行くと、出口が近づくにつれて冷えてくる。マイナス3℃だし、雪だって降ってるし
風も吹いてるし、除雪やってるし。もういちど穴に入りたい。でも狭くて腰が痛い。そこで帰ることに
して家でブログを書いた。

関連記事:  芦ヶ久保の氷柱
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東京湾の第二海堡

2020-02-01 | Weblog
幕末に黒船が来たのが怖かったんだろう。維新が起きて10年後、西南戦争で不平士族が片づいたら今度は
黒船(欧米の軍艦)に備えて東京湾に「海堡」と呼ばれる人工の要塞を築き始めた。天然の猿島にも要塞
があるし、横須賀の観音崎のあたりにも要塞がある。観音崎の観音はカノン砲の観音。


第二海堡に行ってみることにした

猿島には上陸したことがあるので、こんどは第二海堡に上陸してみる。(株)トライアングルがたまに
こんな船を出している。富津からも横須賀からも30分ぐらい。第二海堡は浦賀水道航路のそばなので、
国内外の船がいっぱい近くを通っていく。邪魔だから撤去しようという議論もあったそうだ。


第一海堡はとりあえず素通り

第一海堡は水深3~4mの砂の上、第二海堡は水深10m程度の砂の上、第三海堡は水深30mを超える
砂の上。まだ機械などない明治14年から、大正10年まで40年ほどかけて人力で大きな石を積み上げて
第一から第三までの海堡を築いた。


軍艦みたいな第二海堡が近づいてきた

やっとできたころ、大正12年に関東大震災が起きて、海堡に大きな被害が出た。第三海堡など使用不能
になったという。作るのが最も大変だったろうに。地震だけでなく波風の力でも海堡は浸食を受けて、
結局のところ砲台として役立てられることがほとんどなかった。40年もかけて作っているうちに時代が
変わり、軍艦ではなく飛行機が戦争の主役になったことも理由の一つ。


基本的に上陸が認められていない

たまに開催される見学クルーズでないと上陸できないらしい。観光のために整備されているわけじゃ
ないから、足場が悪い。怪我をしても自己責任だとか、何やかや誓約書を書かされて見学にきた。水も
ないし、トイレもない。天気が荒れたら雨風をしのぐ場所もない。


富津の漁師が積んだ間知石(けんちいし)

一間がどれくらいか知ることができる大きさに切られた間知石は、四角錐のように奥が細くなっている
ので波に洗われても崩れない。関東大震災でも崩れなかった。これを漁師が運んできて積んだという。
えらいことだ。それでも砲台として役に立つ機会はやってこなかった。


燃料庫にはレンガとコンクリートが

防湿のためにアスファルトも塗られていたが剥がれてしまった。レンガは当時の最新技術だったし、
コンクリートは最先端の希少な素材だったけれども、江戸時代のままの間知石よりも弱くて崩れた。
海堡にはコンクリートがふんだんに使われているが、見るも無残にぶっ壊れてる。攻撃を受けたわけ
でもないのに自然の力に負けた。


砲台だった土地が斜めに傾き、上に見張台が

レンガ造りでコンクリートをかぶせた防空指揮所は、関東大震災で土地が傾いた後にまっすぐ建てた
ものらしい。レンガには桜の刻印があって、小菅の収監所で西南戦争に敗れた不平士族が懲役として
焼かされたもの。


コンクリートの砲台は崩れまくりで危険

地下に弾薬庫や兵士の詰所があって通路で移動できたはずだが崩れてしまって何が何やらわからない。
崩れたものが波に洗われてどこかへ消えたりもしているようだ。本来は地下だったところが今は地上
になっていたりする。


2008年ごろの第二海堡

だいぶ浸食されている。許可を得ないと上陸できなくなったのは15年ぐらい前でしかなく、2005年
ごろまでは釣り人が小舟で乗りつけて魚を釣ったり、掩蔽壕(えんぺいごう=基地の穴)に寝泊まり
する人もいたという。浸食されて、ちょうどいい釣り場だったのかも。


護岸工事を施された現在の第二海堡

軍艦みたいだと思ったのは、もともとの様子ではなく、最近の護岸工事の結果そう感じたところも
少なくない。周囲の縁取りみたいなのは護岸工事するまで存在しなかった。


掩蔽壕が使えないように埋め立て工事した

見学クルーズの許可が出るようになったのは3年間ぐらい。それまでは遺跡を人に見せる意図などは
なく、勝手に使われないようにしよう、波に洗われないようにしよう、という工事が行われて10年が
過ぎた。こんどは修復・復元するべきタイミングかも。


FORT NO.2 と書いて第二海堡(砲台跡)


関連記事:   猿島




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