散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

立山黒部アルペンルート再び

2022-05-29 | Weblog

以前に一度このルートを通った。調べてみると2010年6月だった。12年前だ。そのとき一度で十分だと思ったはずなのに、干支ひと回りで同じルートを辿ることになるとは……12年後どうなるか。

とある月曜日に有給休暇を取得して、土日月の3日間で富山・高岡・氷見を散策するつもりが2日間で完遂した。余りの月曜日、まっすぐ帰京するのも味気ない。せっかくの有休なのだから、富山から扇谷まで立山黒部アルペンルートでも通って長野から帰ろうと思ったのだ。

富山から1時間ほど富山地方鉄道(いわゆる地鉄)に揺られて立山へ。そこから立山ケーブルカーでおよそ7分、標高977m の美女平まで急勾配を上り、さらに立山高原バスで50分ほど除雪したての道路を標高2450mの室堂まで直行する。100mあたり気温が0.55℃〜0.65℃下がる。

いくらなんでも薄着じゃ寒いのではないかと思い、前の日に富山駅前の好日山荘でフリースを買っておいた。市街地でこれを着たら暑い。しかし標高2450mの雪壁の間を散策するには、せめてこれぐらいなきゃ凍えてしまうのではないか。

最初のうちは着込むことをせず、薄着で電車に揺られウトウト……気づいたら立山の手前で、すっかり山間の風景になっていた。満足したので引き返して帰京しようかと思ったけど、そのほうが面倒くさいので立山黒部アルペンルートをさらに先へと進むことにした。

立山ケーブルカーはこのように乗客のスペースと同じくらい荷物を載せるスペースがとってある。黒部ダムを建造する際このケーブルカーで資材の一部を運び上げたし、現在も整備の資材を上げたり下ろしたりしている。要するにダムの建造と保守のためのルートを4月15日から11月30日まで観光客にも開放してるわけだ。

標高977mの美女平で高原バスに乗り換える。バスの中で一応フリースを着ておく。終点はもう2450mの雪景色だから。この月曜日、ちょうどバスに乗り込んだ時間から会社の部会がGoogle Meetで行われ、休暇なんだけどスマホで視聴してみた。最初のうちは接続できたけど、やがて圏外になった。あたりまえだし、届けを出した休暇だから別にいいんだ。

車窓から、称名滝とかいう滝がよく見えた。スマホで撮った写真がそれなりの視認性があるくらいだから、肉眼だとなかなかの迫力で、すっかり満足したから引き返して帰京したくなったけど面倒くさいので高原バスにそのまま揺られていく。

除雪した雪が道の左右に積み上げられている。12月から3月まで雪に閉ざされているのだろうか。おそらく4月の初め(あるいは3月の終わり)から除雪を進めて、4月15日に立山黒部アルペンルートの観光がスタートする。ちなみにこの日は4月25日で、平日なのに観光客がいっぱい同乗していた。

窓から見てると雪の壁がだんだん高くなっていく。標高が上がるにつれて厚くなる。バスの車高など超えてしまうから、雪崩でも起きたら大変だ。命がいくつあっても、これが崩れてきたら一溜りもないだろう。そんな楽しい想像しながらバスに閉じ込められて登りつめる気分も、12年前とまったく変わらない。

車窓から見上げる雪の壁。これが崩れてきたら一溜りもないと、しつこいようだけど想像せずにいられない。地震が多い昨今だから、何があってもおかしくない。まあいいか、ここで死んでも……12年前にそう感じたから、立山黒部アルペンルートを通ることは金輪際ないと思ったのに、出来心でまた通り抜けている。

そうこうするうちにバスが終点に差しかかると、歩いて雪壁を見物しに下ってきた人がいっぱい。フロントガラスは上のほうが青くなってるので、そこまでが雪のように見えるかもしれないけど、そり立つ壁がフロントガラスには収まり切らない。この人たちも雪崩が起きたら一溜りもない口。

自分も同じように終点から歩いて下ってみる。フリース買っといて本当によかった。来ると思ってなかったから、そのまんまの装備でここまで来たら雪崩が起きなくても遭難していたかもしれない。防寒のほかに必須なのはサングラス。これはいつも携行してるので大丈夫だった。

除雪はこんなので行っている。ロータリー除雪車、その名も「立山熊太朗」……これ1台で全部やるわけじゃなくて、たくさんの重機で除雪する様子が公式の「立山黒部アルペンルート絶景動画チャンネル」で視聴できるらしい。だが見ない。

ここから立山の反対斜面、大観峰まで立山トンネルを10分かけてトロリーバスで通り抜ける。まったく景色が見えない。中間地点で対向車とすれ違う以外、トンネルの中を単調に走行する。坑夫はもっと単調な作業に耐えたはずだから、トロリーバスの中で10分じっと耐える程度どうということはない。

大観峰は標高2316m。終点の建物を雪が厚く覆い、出入り口から雪を掘り進んでトンネルができていた。これを通り抜けると黒部平まで下るケーブルカーを見下ろすことができる。

あんなのが落ちたら一溜りもない。命を危険にさらす立山ロープウェイの乗車時間は7分。月曜なのに団体ツアー客らと箱に同乗して、標高1828mの黒部平にたどりつく。黒部平はこれまで通過してきたポイントにくらべて人が少なくて、そば屋さんが空いてたので昼ごはんにする。

富山を出たのが9時21分、そばを食べたのが13時ごろ。バックパックにつけているカッパのキーホルダーがいつのまにか千切れてどこかへ消えていたので、売店で雷鳥のキーホルダーを買って代わりにつけた。いずれ千切れて消えるだろう。

13時20分の黒部ケーブルカーで5分ほどトンネルを下り、標高1455mの黒部湖へ。そろそろ飽きて帰りたくなってるから、ちゃんと時刻を覚えてる。ケーブルカーなのに土中を通るというのも、いかにも作業用の経路らしい。

ここから黒部ダムの上を10分ぐらい歩いて渡り、さらにトンネルを5分ぐらい歩いて通り抜けないといけない。じつは、歩いて抜けるトンネルの中がいちばん寒かった。いくら外が春の光に照らされようと、トンネルの中は冬の寒さ。フリースはトンネルの中でこそ役立った。

関電トンネルを抜ける電気バスに16分ほど揺られて扇沢へ。このトンネルの中も寒かった。コロナ対策で窓が開いてるから冷気がビュービュー吹き込んだ。夏は涼しいんだろう。電気バスって、関西電力のバスの愛称かと思ったら、ガソリンではなく電気で走るバスだから電気バス(そのまんま)だった。

終点の扇沢では、くろにょんが愛嬌を振りまいていた。標高は黒部ダムとそう変わらない1433mなのに、ここからはポカポカ陽気で暑いくらいだったのでフリースを脱いだ。長野行きの14時40分のバスに乗り、16時20分に長野駅につき、17時05分の新幹線かがやきで東京駅には18時35分についた。移動ばかりの1日だった。

 

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富山城

2022-05-22 | Weblog

路面電車が交通の妨げにならず日常の足になってる地方都市の暮らしが羨ましい。そんなことを、たしか寅さん好きの友人が酒を飲みつつ語ったのは何年も前だけど妙に覚えてる。富山も路面電車が現役だから人が住みやすい場所だろう。心なしか空気がおいしい。花がきれい。

それに何を食べてもうまい。だから名物をわざわざ食べようと思わないのに、駅そばで腹ごしらえに白海老の天麩羅そば食べたら結局うまかった。魅力の多い富山だけど観光する機会になかなか恵まれなくて、あまりよく知らない。初めて訪れたのは寝台急行「北陸」がまだ運行してた時期で、訪れたというよりも寝台の車窓から明るんだ街とか田畑の美しさに陶然としたまま、降り立つことなく金沢まで運ばれた。

それから富山の地面を両足で踏み締めたことは5本の指が余るほどあるといえばあるけど、それは立山黒部アルペンルートを観光するための乗り換えだったり、黒部峡谷トロッコ電車で観光するための乗り換えだったり。満を持して北陸新幹線が開通したときは仕事でいち早く新幹線に乗ったものの、やっぱり富山は通過して金沢に行ってしまった。行きも帰りも富山は通過した。

ろくに観光したことがない富山でじっくり何かを見ようと思った。そうなると富山城ぐらいしか行くところがない。城跡の公園には博物館もあるというから、どこだろうと探してみたら取ってつけた櫓のような天守閣のようなあれが博物館だという。道理で小ぢんまりしてる。

富山城は土塁を主体にしていたから、ごく一部にしか石垣がない。だから城址公園も平べったくて、どこが城なのか一見よくわからない。昭和29年に富山産業大博覧会が開催されたとき、残された石垣の上に建てられた鉄筋コンクリートの城みたいなのが富山市郷土資料館(富山城)だった。

がんばって城らしく見えるアングルで撮った。この外観は、彦根城や犬山城などの現存天守を参考にデザインされており、元々あった富山城の復元ではない。復元どころか富山城がどんな姿をしていたか現在よくわかっていない。というより城らしい城の姿をしていたことが歴史上ほとんどないと、資料館の展示を見るとわかる。

富山(というか越中)は応仁の乱のあと、守護の畠山氏がこないから守護代が3人で分割統治していた。代理の管理人みたいなものだ。一向一揆が起こって守護代を殺したり追い払ったり、物騒なことになったので周辺の上杉氏や武田氏など大名が鎮圧を図る。すると一揆勢力と結んだ守護代の神保長職が拠点として土塁(富山城)を築いた。

けしからんぞと攻め込んだ上杉謙信が富山城を落とし、そんな上杉謙信を武田信玄が一向一揆と共謀して攻め立て、しかし謙信が発奮して信玄と一向一揆を越中から追い払い、越中全域をほぼ支配下に置いたのも束の間、やがて織田信長の勢力が越中まで伸びてきた。信長と結んだ神保長住(長職の子)が富山城に入り、その支援のために信長が遣わした佐々成政が何だかんだで越中一国を与えられ富山城主に収まった。

本能寺の変のあと佐々成政は豊臣秀吉によって越中の支配を安堵されたにもかかわらず、秀吉と家康が信長の後継者選びをめぐって対立すると、織田信雄を推す家康側に佐々成政がついたため、秀吉の征討を受けて富山城は破却された。(その頃も富山城は土塁が主体だった)

鉄筋コンクリートの資料館はこのように土足で階段を上がることができる。現存天守だと履き物を脱がなきゃいけないから、そこが決定的に違う。さて、秀吉が征討して破却した富山城には、のちに前田利家の嫡男の利長が入城し城郭として整備されかけたが、まもなく大火で焼失して廃城になった。それから昭和29年に鉄筋コンクリートの資料館ができるまで、富山城が城らしい城だった期間はほとんどない。

ちなみに前田利長は富山城を捨て、高岡に東京ドーム約4.5個分の広さを誇る巨城を築いた。そうとは知らず前日に訪ねた高岡城址(高岡古城公園)は、富山城址と比べると規模がかなり大きく、城郭としての整備が行き届いているように思われた。

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高岡

2022-05-15 | Weblog

日本遺産に認定されたということで、観光客を歓迎しようと駅前に「Curun地下街」を整備して、このように特大の宣伝パネルを掲げて「日本遺産めぐりはこの地下街より↓」と誘導している高岡。

そういうことなら地下道を通ろう。ついでにカフェで朝食でも済ませようとエスカレーターで地下道に下りると、みごとにシャッターが下りていて、新しそうなのに無人の空間が広がっている。ちょっと怖いので地上に出た。

地上は地上でシャッターの下りた商店が並び、無人の歩道が寂しい。外資の要求に屈した無能な政党が大店法を成立させて20年あまり、日本中どこの駅前もこんな感じだから、高岡だけが寂れているわけじゃない。とはいえ地下と地上のダブルパンチは少々こたえる。

ひとつひとつ看板を見て歩くのも、やはりいつものこと。マドンナ……いったい何の店だろう? 近くに寄って確かめてみると、グンゼとかワコールの宣伝物があったから女性の下着を扱う店らしい。下着だけじゃなくて婦人服もかも。

角を曲がって続くアーケードも、このようにシャッターが下りている。代議士はいまや外資の要求を飲んでキックバックを得るのが主な仕事だから、自国民がいくら困窮しようと関係ない。消費税は上げるし福祉は切り捨てるし法人税は下げるし雇用は非正規にする。誰ひとり救わない。

無人のアーケードを抜けると、高岡大仏が見えてきた。ここには人がいくらか集う。やはり最後は宗教だ。高岡の大仏は、奈良、鎌倉と並ぶ「日本三大仏」だと高岡の人は誇る。しかし他所の人はそうではない。兵庫大仏、岐阜大仏、牛久大仏、鎌ヶ谷大仏、板橋大仏、鋸山大仏……各地に「我こそは」という大仏が御坐す。

高岡大仏の台座の下に回廊があり、傍に絵馬掛けがあった。「マイノリティが生きやすい世界になりますように。」という絵馬が目を引いた。メジャー争いより大切なことではないだろうか。マイノリティは都会のほうが生きやすいかも。人口が少ないと相互監視が強くてマイノリティは肩身が狭いと聞いている。高岡はどうだろうか。

回廊の奥に大仏の顔面が……これは明治33年(1900年)高岡の大火災で焼けた、総金箔舟形光背に千体仏を配した木造の大仏で、かろうじて顔面だけ焼け残ったもの。「お顔に残った疵は火の用心を戒めておられます」と傍の掲示に記してあった。

さらに足を伸ばすと高岡古城公園に出る。天守閣も櫓もないけど堀と縄張りが立派な城址で、堀端の「俺たちの酒場 キャロル 大衆酒場」(と窓に書いてある)が目を引いた。本丸跡の射水神社で絵馬など眺め、さらに足を伸ばして「藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー」を拝もうかと思ったけど、なんかもういいやと思って引き返した。

駅前に戻ると、このような「ドラえもんの散歩道」が目に入った。高岡は藤子・F・不二雄の生まれ故郷で、二十歳まで暮らして上京しトキワ荘でまんが道を突き進んだのだった。藤子不二雄A(Aは丸囲み)は隣の氷見で生まれ、AとFは青年期に高岡古城公園などでブラブラしたとか。

私が、ここ高岡市で生まれたのは、昭和8年のことです。このふるさとの自然の中で遊びながら、私の体と心は育ちました。時代とともに変わっていく高岡、その中に生まれたこの公園が、昔も今も変わらない子供たちのオアシスとして、いつまでも子供たちの夢と創造性を育む場であってほしいと願います。 1994年7月 藤子・F・不二雄

高岡駅の反対街に足を伸ばして、国宝の瑞龍寺へ。加賀藩二代藩主前田利長の菩提寺で、江戸初期・禅宗の典型的な建造物群として高く評価されているとチラシに書いてあった。ぼやかしてるけど明が瓦解した江戸初期に大陸から渡来した黄檗宗の影響を強く受けた建造物群なのではないか。

黄檗宗の寺にあるタイプの木魚が、ここにもある。やっぱりそうじゃないかと思ったけど、専門的なことはわからない。国宝の仏殿には、本尊として中国民代の釈迦・文殊・普賢の三尊をまつるので、明代のスタイルであることは間違いないようだ。

 

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氷見と伏木

2022-05-08 | Weblog

氷見というのは盲腸線の行き止まりだった。気になるので富山から高岡まで行って、盲腸線に乗り換えることにした。ところが高岡につくと、このような立札がホームで待ち構えていた。

ICカードが使えないから、いちど改札を出て切符を買わないと盲腸線に乗れない。次の列車までどれくらい時間があるか、確認すると1時間以上あった。それならと高岡駅の改札を出て、観光案内所で資料など集め、切符を買って氷見行きの列車に乗る。

氷見の駅前には何もない。そろそろ昼ごはんの時間なので、おそらく列車との接続を考えて駅前に停車している100円の周回バスに飛び乗り、ひみ番屋街という終点まで行ってみる。そこへ行けば新鮮な魚を取り揃えた飲食店がありそうに思えたから。

ひみ番屋街はこんな感じの、氷見漁港場外市場だった。道の駅でもあるようだ。帰りのバスの時間をあまり気にしなくても、氷見駅まで歩いて戻れそうに思えた。そこで今朝採れた魚だとか、干物などの加工品、お土産などを見て歩く。

せっかくなので寿司を食べる。氷見駅まで戻ったら、バスで大堺洞窟住居跡を訪ねてみようかどうしようか。大正7年(1918)日本で最初に発掘された洞窟遺跡で、6層の遺跡を発掘した結果として縄文文化と弥生文化の時間差が分かったという。それをいま改めて見るべきかどうか。

考えながら駅のほうへ歩いてたら橋の欄干にプロゴルファー猿がいた。周回バスが怪物くんのデザインだったので、そんなことではないだろうかと思ったとおり、漫画家の藤子不二雄A先生(Aは丸囲み)の生まれが氷見だという。

だから向かい側には怪物くんがいた。欄干の四隅に漫画のキャラクターがいる。バスの車窓から町を見たとき、すでにキャラクターだらけの町だと認識はしていたので、歩きながら駅のほうへ戻って確認しようと思ったのもひとつある。

忍者ハットリくん

笑ゥせえるすまん 喪黒福造

ところで大正17年に縄文時代と弥生時代の時間差がわかったということは、明治17年に東京で弥生式土器がみつかって長いあいだ縄文時代と弥生時代の関係が不明だったということか。どっちが先でどっちが後か、1か所の地層で発見されて初めて時間差が明確になったわけか。

「喪黒福造と記念撮影はどうですか。」って、バス停にでっかく書いてある。傍には喪黒福造の模型がドーン! これと記念撮影すれば、心のスキマお埋めしていただくことができるのだろうか? 

目と鼻の先に氷見市潮風ギャラリー藤子不二雄A(Aは丸囲み)アートコレクションがあり、大人200円で原画やら何やら見ることができる。ちなみに藤子・F・不二雄先生は隣の高岡市で生まれ育ったそうだから、人がマンガと聞いて思い浮かべるあれこれのかなり大きな部分は富山人の作だった。

A先生は東京は椎名町のトキワ荘2階14号室でせっせとマンガを描いたという。暖房設備が火鉢しかないとしたら、冬場はさぞかし寒かったことだろう。ラジオを聴きながら座布団にあぐらをかいてマンガを描いたのだろうか。まさか正座ってことはないだろう。

そんなこんなで時間調整しながら駅から離れた商店街のわかりにくい場所にあるバス停で13時23分発のバスを待って大堺洞窟住居跡へ行こうとしたんだけど、10分以上たってもバスが来ないから諦めて盲腸線で伏木駅まで引き返し、徒歩25分の高岡市万葉歴史館へ。(バスが15分遅れで通り過ぎるのを見かけた)

大伴家持がこよなく愛したという雨晴の風景を含めて、盲腸線(氷見線)の車窓からの眺めは風情があった。行きもそう思ったけど帰りに窓側の席を占めて写真など撮りながら、大伴家持が平城京から越中に国司として赴任した5年間に「越中万葉」の歌境を拓いたのも、なるほどそうかと納得しそうになった。

伏木は越中の国府が置かれたところだから、国司の家持はここを起点に越中を視察して回り、223首の歌を詠んだ。家持の万葉集収録歌数は全473首で、万葉集の全歌数の1割強を占めているが、そのうちの47%が越中での作だった。

国府があった場所を占める寺の門前に、大伴家持の銅像が建っていた。家持は奈良時代の人だけど、平安時代にはもう万葉仮名をどう読んだらいいか覚束なくなり、後世の人が苦労して解読したとか。あいうえお五十音図を空海が作ったというのが本当なら、そのせいで万葉仮名が読めなくなったとも。

高岡市万葉歴史館についた。一般の入館料300円なのに65歳以上の料金(ちょっと安い)で案内されそうになった。65歳以上に見えたのか、65歳以上の人しか来ないのか、どっちもか。もやもやしながら展示を見てまわる。

アマゾンで買って読んだ『越中万葉をたどる 60首で知る大伴家持がみた、越の国』(2013年3月30日初版)は、この高岡市万葉歴史館が編んだ本で、その72ページと74ページには誤植を訂正する紙の小片がきっちり「巻18」と所定の位置に手貼りしてある。今回、歴史館で売られている本も同じようになってるかどうか点検しようと思ったのに、絶版らしくて販売してなかった。

歴史館から高岡までバスで移動しようと思ったのに、土日は午後3時すぎに終バスが出てしまい、もはや乗ることが出来なかったので仕方なくまた伏木駅まで徒歩25分の道のりを戻り、盲腸線を待って高岡に移動した。バス運の悪い日だった。

 

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吹屋

2022-05-01 | Weblog

噂に聞くほど紅くない。赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された吹屋の町並みは、岡山県高梁市のはずれ、標高550mの山間にある。近世以降、吉岡銅山と共に栄え、さらに江戸末期からベンガラの国内一の産地として富んだ長者の町。

一説によると、横溝正史が『八つ墓村』を執筆するときモデルにした町だという。『八つ墓村』は2度ほど楽しく読んだ。ベンガラのことなど書いてあっただろうか。鉱山で財を成した長者の家は出てきたかもしれない。金田一耕助が出てくる他の小説と印象が混ざっているかも。『八つ墓村』のモデルといえば、昭和13年に「津山三十人殺し」が実際に起きた津山の町(これも岡山県)がすぐに思い浮かぶ。あの事件とこの町を掛け合わせて横溝正史が創作したのが『八つ墓村』なのか。

鉱山の繁栄は昭和40年代で終わり、残った住民はベンガラ豪商の町並みに歴史的・文化的価値があることに気づいて昭和52年(1972)全国でも8番目に国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。たちまち半世紀が過ぎた。令和2年(2020)「ジャパンレッド発祥の地」として日本遺産に認定された。世界遺産ではなく日本遺産。

令和3年(2021)公開の映画『燃えよ剣』のロケが令和元年(2019)の3月に数日おこなわれた。この門は土方歳三が通った六車道場の門として撮影されたもの。道場の内部は別の場所でロケしたので、「※門の奥は何もありません!」とわざわざ貼り紙がしてある。のぞきに行く人がいて迷惑してるんだろう。

通りに砂を敷く前にカーペットを敷く様子がパネルで展示されていた。カーペットなしで砂を敷いちゃうと後片付けが大変だから。岡山の山間の長者町を京都に見せかけて映画を撮るのも大変だ。建物の内部もロケには使われている。見覚えのあるシーンでいうと、こんなのが吹屋の建物内部だ。

土方歳三の愛人が描いた絵を飾る部屋。

土方歳三の愛人が心の闇を描いた襖絵。

そんなものを見物して、約300mの町並みをぶらぶら歩く。

この建物なんかは紅くてかわいいと思った。通りは砂敷きではなく、このように舗装されている。このまんま映画を撮っちゃうと、スクリーンで観たとき違和感があるんだろう。学生映画になってしまう。

猫がのんびり寝ていた。

吹屋にはもうひとつ名物があって、通りをはずれた吉岡銅山本部敷地跡に明治42年(1909)落成した吹屋小学校校舎が、10年前まで現存する小学校の校舎として最古のものだった。平成24年(2012)に廃校になったから、小学校舎じゃなくなってしまったけれども、今でも大切に保存されて今年4月から公開されている。

小学校があれば中学校もある。隣にある擬洋風建築がそれで、改装されて「和味の宿ラ・フォーレ吹屋」として営業している。レストランとホテルを兼ねた施設。夜の教室の跡に泊まれるなんて、ホラー映画のロケができそうで素敵。

泊まりはしなかったけど、ラ・フォーレ吹屋でランチを食べた。鰆の刺身がおいしかった。山間なのに。天ぷらもサクッと揚がってた。見切れてる陶板焼きの鶏も美味しかった。地酒も美味しそうだったけど飲んだら散歩がダルくなるからやめておいた。津山三十人殺しの津山にいく用があったから。

関連記事:  津山経由(過去記事)

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