閉塞の時代に立身出世を遂げた田沼意次は男の嫉妬で汚名を着せられて失脚したらしい。男の嫉妬は恐ろしい。死後も悪漢として歴史に記されて弁明の機会もなく後世に誤解を広められる。菅原道真は男の嫉妬で失脚するや雷神となって祟りをなしたが、田沼意次は祟ることなく悪評の広まるに任せたから、より開明な人格者かも。
そんな田沼意次を大河ドラマの主人公にと、かつての領地・相模藩(いまの静岡県牧之原市)の有志が今年7月24日=田沼意次の命日に、菩提寺である東京都豊島区駒込の勝林寺に墓参りして祈願したことを翌々日の朝刊で読んだ。猛暑の最中だったから涼しくなったら行ってみようと覚えておき、10月にやっと出かけた。
天明八年戌申秋七月二十四日卒と、墓跡の左側面に刻んであるので、正面に戒名しかなくても田沼意次の墓だとわかる。失脚した後も生き永らえ、幕末に69歳で没したようだ。父は足軽だった。幕政に参画する機会などあるはずない出自ながら、能力がよほど高かったのだろう。8代将軍吉宗が旗本に取り立て、9代将軍家重が大名に取り立て、10代将軍家治が老中に取り立てた。
墓石の右側面に、當寺中興開基 田沼主殿頭源意次朝臣と刻んである。田沼時代には蝦夷地開発、印旛沼干拓、株仲間結成など進歩的な善政を敷いて幕政を改革したが、家柄第一伝統墨守の守旧派が危機感に苛まれ、一説によると10代将軍家治を暗殺して田沼を失脚させた。その際、意次より優秀で腕利きと評される嫡男・意知を暗殺し、老い先短い意次は生かしておいた。無念な意次の墓石がこれ。
一代で身を起こし宰相にまで上り詰め、失脚したのち金権政治と揶揄されるところが田中角栄に似ている。角栄は米国の意に沿わない善政を敷いてスキャンダルに巻き込まれ失脚したが、田沼時代は米国の傀儡ではなかったから、スキャンダルは幕閣の手で引き起こされて歴史に記された。幕閣は儒者だから商売のような下賤の行いで財政が上向き、世襲が軽んじられることなど断じて許せなかったらしい。
白河の清きに魚も澄みかねて もとの濁りの田沼恋しき
田沼を失脚させて政権を乗っ取った白河藩主の松平定信が苛烈な悪政を敷いて民を苦しめたので、このような狂歌が詠まれた。昨今は田沼の評価が高まって、大河ドラマの主人公にという動きもあるくらいだが、いまの住職が小学生だったころは「うちの寺」に田沼意次の墓があることを隠していたそうだ。
勝林寺の墓地に隣接して染井霊園がある。そこには明治以降に没した著名人が数多く眠っているようだ。このブログどうしても墓地ばかり訪れがち。田沼は幕末に没した人だけど、二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)は46歳で明治42年(1909)に亡くなった。ずいぶん若くして死んだんだな。
墓石には本名の長谷川辰之助と大きく刻まれ、その右脇にペンネームの二葉亭四迷と彫ってある。文学に志すと親に告げたとき、くたばってしまえと言われたので二葉亭四迷という筆名にしたと聞いた。『浮雲』は日本初の口語体小説というから、どんなものかと読んでみたら硯友社とかの美文調より読みやすくて意外だったっけ。
高村光雲・高村光太郎・高村智恵子の3人は一緒の墓に入っている。なんでそんな?と思ったらこれは高村家代々之墓だから3人というより全員で入っている。有名なのが3人だから霊園の案内に3人の名前しか記されてない。それだけのことだった。
染井はソメイヨシノ発祥の地だと、霊園の立て札に書いてあった。オオシマザクラとエドヒガンを交配させて伊藤家の伊兵衛が作ったというソメイヨシノは、花が咲かなくなる時期をもうすぐ迎えるとか。
花を見るためなのか、霊園にベンチが並べてある。せっかくのベンチなのに、ホームレスが横になれないように肘掛けをつけて嫌がらせしている。ある時期から、都内のベンチはこのようにホームレス排除のしかけが施されるようになった。排除が好きな知事のせいだろう。公約も実現せずに余計なことばかりして、来年の都知事選挙ではもういいかげん落選してほしい。ベンチを見てそう思った。
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