散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

京都1200年

2023-11-25 | Weblog

京都の中心は時代と共に東へ東へ移動してきた。たとえば京都駅などは平安京の中心線より、かなり東に位置しており、南に下がってもいるので、1200年前だったら京の外れもドン外れ、ギリギリの隅っこだ。芥川龍之介の小説『羅生門』に出てくる、荒れ果てた城門より東にあたり、やや北だからどうにか平安京の内側とはいえ、あの小説の時代なら荒廃すさまじき場所だったはず。

そんな京都駅から烏丸通をまっすぐ北へ上がると京都御所がある。北朝の初代、光厳天皇が1331年に即位した場所で、当時ごたごたしたことは明らかだ。北朝ができる前の正統(のちの南朝の源流)が内裏を置いていたのは現在の岡崎、平安神宮のあるところで京都御所よりさらに東だった。代々の内裏も、北朝の御所も、794年にできた平安京の内裏より東にかなり寄ってる。

南朝はその後、滅びたから、北朝の御所が天皇の在所として明治の首都移転まで続いた。明治天皇も北朝の系統なのだ。1331年から1869年までだから538年間。しかし京都には東京遷都を歴史的な事実として認めない人がけっこう存在しているという噂を聞いたことがある。その人たちには、この御所がいまも日本の中心なんだろう。

そんな御所も幾度も焼亡し、現在の建物は1855年のもの。京都は空襲で焼けなかったけどその前に何度も焼けている。社寺も仏像も古いものが残っていない。そういうのは滋賀にむしろ多い。さて、1869年に北朝の明治天皇が東京の宮城(元・江戸城で現・皇居)に移るまで、御所(南朝に遠慮してるのか内裏と呼ぶことは少ない)の周辺には多くの宮家や公家が住んでいた。

御所のまわりの細い水路はこんな水量でも皇室を守る結界の役割を果たしていたのだろう。俗世の堀とは意味合いが違うから、こんな規模でいいんだ。この外で暮らした貴族がこぞって東京へ、明治天皇を追いかけて移住したから、御所の周辺が荒れ放題に荒れた。これはいかんということで公園として整備されたのが、いまの京都御苑。だから現在、京都御苑の中に京都御所が収まっている。

順路に沿って京都御所を見学したあと、京都御苑を突っ切って南の端まで出てくると丸太町通が東西に通っている。丸太町通を西へ歩いていくと、794年に平安京ができたときの内裏があった場所に至る。そこで丸太町通を西へ西へ、黙々と歩いていく。けっこうな距離だけど昔の人も歩いたんだから歩くしかない。烏丸通を超えて千本通のほうへ、丸太町通を西へ歩く。

途中、堀川通の手前に真新しい看板があり、宇治の平等院を建てた藤原頼道の屋敷がここにあったというから寄り道する。令和3年にこの地に社屋を構える企業が宣伝を兼ねて藤原頼道の邸宅「高陽院」の跡地であると訴えかけたものらしい。

さらに丸太町通を西へ進み、堀川通を渡って千本通との交差点に至る。そこがまさに平安京の元の中心、大極殿があった場所だと表示が出てる。794(鳴くよ)うぐいす平安京から1200年たった1994年、発掘調査でここがその場所だとハッキリしたって書いてある。いまとなっては御所からも内裏(平安神宮)からも遠く、京都観光の繁華街からも離れている。見物客などいない。

それまでは、千本丸太町の交差点より北西に位置する内野公園(児童公園)の場所が大極殿だと思われていた。明治28年(1885年)このあたりが荒れ果てたのを見るに見かねた役所が急遽、写真のような大極殿跡の石碑と石段を児童公園の一角に築いた。しかしその場所はズレていたことが百年あまり後、平安遷都1200年の1994年に判明した。それから早、30年が過ぎ去ろうとしている。

昭和38年(1963年)の下水道工事で見つかった、平安京の内裏の回廊の一部の跡に遺構と石碑があった。千本丸太町の交差点から信号ひとつ分、北に上がって東に折れたところ。平安遷都の当時の文書を元におおまかな場所の見当はついているんだろうけど、実際に学術調査をやって初めて「ここだったのか」ということになるらしい。公文書の保管は大切なことで、安倍政権みたいに公文書改竄を平気でやるようになると国は滅ぶ。国賊というのは安倍晋三みたいな人のことだと、京都1200年の歴史を歩いて遡りながら思った。

関連記事:  伏見と山科

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読売ランド前から

2023-11-18 | Weblog

向ヶ丘遊園で下車して歩き回ったのが思ったより楽しかったもんで、小田急線の下り列車でさらに2駅ほど都心を離れて読売ランド前で下車した。向ヶ丘遊園は2002年に閉園したけど、読売ランドはまだ閉園していない。木造コースターが超怖いと聞いたことが昔あるのだが、いまも木造のままかどうか。

新宿からくると自然に南側の改札を通ることになる。読売ランドは北側らしいので、踏切(←これが都心には滅多にないので少し懐かしい)を渡って駅の反対側に回り、郵便局を過ぎて右手の路地に入る。「この先行き止まり」のほうへ歩いていくと多摩自然遊歩道に足を踏み入れることになる。

遊歩道の立札のところで、向こうから老人が列をなして歩いてくる。旗を見ると歩こう会かなんかの群れだ。こんなのと遊歩道ですれ違ったら難儀だから立札のところでやり過ごす。100人ばかり、あとからあとから家畜のように連れられてくる。どうしてもホロコーストを思い出してしまう。その妄想を振り払うのが大変だった。

老人たちが途絶え、やっと1人きりになったので多摩自然遊歩道を静かに歩くことができる。住宅地のすぐ裏にこんな山道のようなものがあるとは。そこはかとなく縄文人がかつて暮らしていても不思議ではない雰囲気が漂う。ヒッピーとかのコミュニティがあってもおかしくないような……?

そうそう、こういう衝動的なのか意図的なのか判別しがたい絵が遊歩道の両側に現れてきてね。そうすると向こうから原始的なのか文明的なのか、言い方を変えると下手なのか上手なのか形容しがたいエレキのバンド演奏のようなものが聴こえだし、静かに歩くどころではなくなる。

森の中に突如、出現したコミュニティ。これはヒッピーの祭典だろうか。多摩方面にはいまだに、そういうムーブメント的なものが残っているのだろうか。1991年の夏に青森県の六カ所村で体験した、いのちの祭りにどこか似てる。この人たちもやっぱりNO NUKEを唱えているんだろうか?

森を抜けると車道があって、道なりに進んだら日本テレビの生田スタジオに出た……ここ、タレント取材にきたことある。1999年か、1998年ぐらいかな。収録に来てるタレントの上がり待ちで、夜7時ぐらいから待機して夜9時すぎから洋服のショッピングについて話を聞いたような。もう忘れた。

さらに歩いていくと、よみうりランドが見えてきた。キャーキャー歓声は聞こえるけど、はたして木造コースターが健在なのかどうか遠くから眺めてもよくわからない。こっちは裏手みたいだし、正門に回って入園するのもおっくうだから、よみうりランドに寄らないで京王よみうりランド駅をめざす。

途中、こんな見晴らしのいい場所に出た。山じゃないか、自分がいる場所。そんなつもりじゃなかったから、水も持たずに歩いてきた。ほとんど手ぶらだ。こんな装備で大丈夫か。死亡フラグが立たないうちに里に下りて駅まで歩く。京王よみうりランド駅のつもりが京王稲田堤の駅に出た。かまわないから京王で帰った。

 

関連記事:  向ヶ丘遊園

 

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向ヶ丘遊園

2023-11-10 | Weblog

楽しそうな名前の駅だと思って電車を降りた。向ヶ丘遊園。かつて遊園地があったようだが、いまはもうない。ようこそ生田緑地へ!と改札口に掲示してあり、遊園地なきあと緑地がいちばん推しみたいだから、その緑地のほうへ歩いていく。

途中、川を渡って府中街道を越える。このあたりに向ヶ丘遊園の入口があったらしいんだけど、いまはとくにそれらしき様子がない。2002年に閉園して、もう20年以上になるから無理もないだろう。まっすぐ生田緑地のほうへ進む。

駅から1本道だから迷いようがない。10分ほど歩くともう緑地に入る。そこに日本民家園があるので寄っていく。各地から民家を移築してきて保存している野外博物館のようなところで、進んでいくと思ったよりたくさんの民家が寄り集まって農村に迷い込んだみたい。

このように正門を入ると宿場があり、その先に信越の村、関東の村、神奈川の村、東北の村がある。神奈川の村は関東の村じゃないかと思うけど、ここはおそらく神奈川なので他の関東とは一線を画す意識があるのだろう。川崎市なのかな?

これが信越の村だった。雪で倒壊しないためだろうか、屋根の角度が関東の村(含む神奈川の村)と比べて鋭角のように思える。何が面白いのか見物して歩いてるおじさんの姿がそこらじゅうに見られる。もっとも自分も同じように、つまらない顔で徘徊してるおじさんに過ぎない。

関東の村に差し掛かると、子供たちが嬉々として麦わらの民芸品を青い目の外国人に装着してもらっていた。日本の伝統文化はこのように、ものずきな外国人らによって守られていくのだろうか。そういうものなのかもしれない。

さびしい気持ちになったので日本民家園を抜け出して、生田緑地をさらに奥へ進むと青少年科学館があった。しかしながら青少年だった時期はとっくに過ぎ去り、残念ながら科学っていう気分でもないので、素通りしてさらに生田緑地の奥へ急ぐ。

メタセコイアの林を通る。こういうところを歩くと、どうしても思い出さずにいられないのはフルタ製菓のセコイヤチョコだ。丸太を縦割りしたような形状でウエハースをクリームで包み、チョコで覆っている。植物はセコイア、チョコはセコイヤ。そうなのだから仕方ない。画家がルノワール、喫茶室がルノアールなのと同じ。

メタセコイアの林を抜けると、そこはもう岡本太郎美術館だった。川崎市立と表示されているから、ここはやはり神奈川県川崎市なのだ。これでいいのだ。ゲイジュツはバクハツだ。ムン!なんだかわからない。岡本太郎はテレビで奇人変人ぶってたが、『自分の中に毒を持て』などの著書を読むと、まともな思考力のある人だったことが露呈する。

せっかくだから美術館を見物して、することがなくなったので元きた道をまっしぐらに戻った。駅前の珈琲館に寄ってドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第4部を読み、混んできたので店を出て小田急線の普通列車で新宿駅まで座って続きを読んだ。そんなことはどうでもいいか。

関連記事:   日本昭和村

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番町界隈

2023-11-05 | Weblog

関東大震災で壊滅するまでは番町界隈にちらほら作家や画家、音楽家などが住んでいた。震災後は郊外へ移り住んだ。いまの地理感覚だと山手線の外側へ。まだ倒壊する家屋もないような、手つかずの森や野原が多かったから、被災者が住みつくのに適していた。話はそれるが、震災で被災した寿司職人が地方へ散った結果として、江戸前寿司が全国に広まった。

そんな100年前の震災以前、いまの地理感覚だと地下鉄の麹町とか半蔵門とかに程近い、日本テレビ旧本社ビルの再開発問題で揉めに揉めているという(警官うろつく)番町あたりに暮らした作家や画家、音楽家などの名残というか痕跡というか、ゆかりを求めてある日そこらを歩いて回った。「番町文人通り」という愛称もあるらしい。

たとえば明治29年(1896年)、有島武郎、有島生馬、里見弴の作家3兄弟の父がここに自宅を構えた。3兄弟ともすでに青少年だったから、ここで育ったといっていいかどうか疑問ではあるけど、多感な時期を過ごしたのは間違いない。このへんは徳川の時代に直属の武士を住まわせた場所で、いざとなったら将軍が甲州へ逃げる突破口だった。幕府の瓦解後、住む人が減り、家を構えやすくなった。

3兄弟の長男、『生まれ出づる悩み』や『或る女』の有島武郎が大正12年(1923年)6月9日に軽井沢で自殺し、同年9月1日に関東大震災が起こると、3年後に作家の菊池寛がこの地に住んで文藝春秋社を起こした。文春砲でおなじみの、あの会社だ。菊池寛は芥川賞・直木賞を設立した人でもある。『真珠夫人』なども書いた。

有島3兄弟や菊池寛が住んだ場所はこのようなアパートになっている。大都市の宿命で戸建に住む人が亡くなると跡地はほぼ100%アパートになる。そうでなければ事務所や商業施設になる。番町界隈はアパートばかり。日本テレビ旧本社ビルの再開発が揉めに揉めているのは、ほかでもない地元アパート住民の猛反対があるから。

明治43年(1910年)から泉鏡花が死ぬまで、『婦系図』のモデルでもある愛妻すずと暮らした旧居跡は有島3兄弟や菊池寛の住居跡のアパートのすぐ裏手だった。震災後もここで暮らし続けたようだから、泉鏡花は番町の文人の代表例といってもいいのかもしれない。みんな散り散りになってしまったから。

みんな散り散りになった後、昭和12年(1937年)にパリから帰ってきた画家の藤田嗣治(晩年はフランスに帰化してレオノール・フジタ)がこの地にアトリエを構え、敗戦直前に神奈川の小渕村に疎開するまで住んだ。アトリエは転居後の空襲で焼けたというから疎開して正解だった。ちなみに泉鏡花は空襲より前に他界していた。

藤田嗣治のアトリエがあった場所も、このようなアパートになっている。すぐ隣か、もしかしたら同じ場所に、震災より前に作家の島崎藤村が住んでいたようなのだが、跡地の看板が見つからなかった。芥川龍之介には批判されたけど島崎藤村は日本文壇の功労者なのだから、看板ぐらいあってもいいのに。ちなみに藤村は神奈川の大磯で戦時中に逝去した。神奈川に疎開するのが流行りだったのか。

「君死にたまふことなかれ」で有名な歌人の与謝野晶子と、雑誌「明星」(といっても戦後の芸能誌じゃないほう)を主宰した与謝野鉄幹の夫婦は、明治44年(1911年)から4年間この地に暮らした。ほかにも直木三十五、武田麟太郎、初代中村吉右衛門、網野菊、串田孫一といった人たちが周辺に住んだらしいが、串田孫一の住居跡しか看板が見つからなかった。

だいぶ離れたところに、作曲家の滝廉太郎の居住地跡があった。明治27年(1894年)から7年間、亡くなる2年前まで住んでいたというから、これまで看板の出ていた誰よりも先に暮らし始めた先輩だ。「荒城の月」「花」「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」などを作曲した人で、場所も離れているし時期も早いし別格かも。

滝廉太郎の住まいは袖摺坂に面していた。今でこそ車道が2車線もあるが、もとは行き交う人の袖と袖が摺れるほど狭かったので袖摺坂という。そんな由来と一緒に、作家の国木田独歩もこのへんに住んでいたと案内表示に書いてある。一番町のほうが、文人の住みつくのは四番町などより早かったのかもしれない。そしてみんないなくなった。

関連記事:  田端(文士村)

 

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