散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

ずっこうやま

2023-04-29 | Weblog

なんの花かと画像検索したらクレマチスだった。小田急の渋沢駅から秦野盆地を歩きだし、渋沢丘陵のほうへ上っていく途中たくさん咲いていた。さらにいくと白山神社があった。秦野盆地の向こう側、丹沢山系の大山にも白山神社があったから、神奈川は白山信仰の及んだ地域らしい。山伏がいたんだろう。

こうして意味もなく山歩きをするようになったのは、藤原氏に追われた皇族が開いた白山の信仰に興味を持ったのがきっかけだった。白山自体に登頂した後も、縁のある土地を訪ね歩いている。というより、行き当たりばったり社に出くわして気になると立ち寄る。ここの白山神社だって、たまたまにすぎない。

たまたま旗日(昭和天皇の誕生日つまり昔の天長節、みどりの日とか昭和の日とか呼び名が二転三転した祝日)だったので、拝殿の正面に日の丸がダブルで掲げてある。絵馬掛けはない。社の向こうに登山道のようなものがあり、そこを進めば頭高山(ずっこうやま)の山頂にたどり着けそうな気もするが、たどり着けないと無駄足になるので引き返して林道をゆく。

なんの花かと画像検索したらシャガだった。日比谷に即席で移植されたシャガは花が白くて、ジャガ=じゃがいも(ポテト)の花かと思ったのに、このシャガは薄紫だ。イモではなくアヤメ科アヤメ属の草らしい。ふーん、いろいろな花が咲いて結構だと思いながら、その先にあるらしい頭高山(ずっこうやま)登山口のほうへ。

切り通しの道を登ると頭高山(ずっこうやま)……変な名前の由来は、どこから見ても丸い頭の形をしているから。303mしかないので「ずっていやま(頭低山)」ならよかったのに。秦野盆地の反対側の丹沢山系には、1000mを超える山々が立ち並ぶわけだし頭が高いのではないだろうか。古くは、「ぼっこうやま」と呼ばれた。

山頂は木立で見晴らしがないけど、途中で秦野盆地の向こうに丹沢がきれいに見える場所がある。向かって右端にあるのが大山。阿夫利(あふり)山とも呼ばれるのは雨乞いの歴史があるから。ヤビツ峠、ニノ塔、三ノ塔、鳥尾山、行者岳、新大日、木ノ又大日、塔ノ岳、大丸、小丸、鍋割山などなど、丹沢に登るより丹沢がよく見える。得した気分になった。

 

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オリエント急行

2023-04-14 | Weblog

68歳のときルネ・ラリックはオリエント急行の室内装飾を手がけた。1928年のことで、ガラスのパネルを列車の内壁に150枚以上はめて空間を装飾するのは当時として斬新そのもの。しかも鉄道を走行し、車窓から風景を眺めながら美食を楽しむことができる。ヨーロッパ文明の爛熟の極み。ちなみに日本は昭和3年だった。

WAGONS-LITS はフランス語で寝台車のこと。オリエント急行はいわば豪華客船の陸上仕様で、これに乗ることがステイタスだったからイギリスの作家アガサ・クリスティは名探偵エルキュール・ポアロが活躍する推理小説シリーズの舞台に最適と考えて1934年発表の『オリエント急行殺人事件』を著した。

オリエント急行の内装で好評を得たルネ・ラリックは1935年に大西洋横断豪華客船の内装に参加しパリのロワイヤル通りに店を開くなどした後、1945年に85歳で逝去したが、その後もオリエント急行の走行は続いた。もっとも航空機の時代には長らく休止しており、1976年に運行を再開。パリとイスタンブールを結んでいたが、1988年にフジテレビ30周年とJR1周年を記念してロシアや中国を経由して日本まできた。バブル臭すごい。

約3か月間、日本国内を走行したオリエント急行はその後またパリとイスタンブールの間を運行し、2001年まで現役で活躍した。その車両が2004年に箱根ルネ・ラリック美術館へ運ばれて展示されるようになり、当時のままの内装で現在もレストランとして使用されている。そのレストランを予約してランチのコースをいただいた。

さすがに、オリエント急行で提供されたメニューをそのまま再現したというわけではないようだ。前菜はじゃがいものクレープに小田原で水揚げした魚やなんかを盛ってソースと野菜と花を添えたもの。地元静岡の長谷川農園産マッシュルームポタージュに続いて、ムール貝のソースをかけた鰆のローストが出てきた。白ワイン飲んでまうやんか。

赤ワイン飲んでまうやんか。さがみ牛のグリエ、肉汁のソース。わりと地産地消傾向のランチコースだった。デザートはメロンとココナツのロワイヤルとかいうもので、ココナツのジュレの上にメロンのジュレと白ワインのジュレを重ね合わせた中にメロンの果肉がダイス状にカットされて沈潜していた。

正午きっかりから1時間20分ほどルネ・ラリックが装飾した車内を眺めながら食事を楽しんだ。これで車窓からの眺めが変化したら最高だろう。もちろん車両は動かないし車窓からの眺めも固定されている。ブドウと男女が浮き彫りにされたガラス製のパネルからランプから何から車内の装飾品は現状維持のため手を触れることならず、しかしながらお客さん達つい触っては注意を受けていた。

食後にルネ・ラリック美術館を見物。1860年フランスのシャンパーニュに生まれたラリックは16歳で宝飾細工師に弟子入りし、20歳の時にはカルティエなど一流宝飾店から仕事を依頼されるまでになった。37歳でレジオンドヌール勲章を受賞。1900年、40歳のときパリ万国博覧会で宝飾品が大きな注目を集めて名声を得た。

それ以前からガラスの可能性に注目し、ガラス工芸の表現の幅を広げていた。香水瓶をガラスで作って世に広めた結果、それまで主に上流社会で量り売りされていた香水が一般大衆の手にも届くようになった。アールヌーヴォー、アールデコという2つの美術様式を背負い、橋渡しをした大作家で、オリエント急行のようなガラスを用いたインテリア装飾は晩年の試みだった。

箱根には年に何度か(少なくとも一度は)行くけれどルネ・ラリック美術館は初めてだった。なかなかすごい展示だった。東京からのアクセスがよくて山歩きができて美術館めぐりもできて温泉もある箱根はやっぱり魅力がつきない。

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東叡山炎上

2023-04-07 | Weblog

このまえ上野の国立博物館にでかけたら「創立150年」の垂れ幕が掛かっていた。そこで頑張って暗算すると、2023年の150年前といえば1873年だから、上野の東叡山寛永寺が戊辰戦争で薩長に焼かれた1869年のわずか4年後に創立したことになる。東京国立館がある場所は、江戸時代は徳川将軍家の菩提寺、東叡山寛永寺だったのだが薩長の新政府軍が戊辰戦争で焼き払った。

なにしろ江戸城が無血開城したもんだから、わざわざ攻め登ってきた薩長の軍は徳川家の菩提寺でも焼き払わないと収まらない。国立博物館だけでなく、その真ん前の上野公園の一帯も東叡山寛永寺だったから、彰義隊の抵抗むなしく薩長はそこらを手当たり次第に破壊し尽くした。だから、上野公園も4年後に開園して、今年で150年になる。花見客の頭上に150周年の横断幕が張ってあった。桜の木の下には彰義隊士の死体が埋まっている。

そんなわけで、薩長が炎上させた東叡山寛永寺の焼け跡にわずか4年で創立された国立博物館の初代館長は当然、薩摩藩出身の某が任命された。某の胸像が博物館の敷地にあるのを、たまたま見つけた。某は辞官後、出家して園城寺子院の住職になり「石谷」と号したとか。もしかすると後ろめたかったのかもしれない。

東京国立博物館にでかけたのは、特別展「東福寺」を見物したいからだった。寛永寺の焼け跡にある博物館で東福寺の展示を見るのは妙な気持ちだ。宋の時代に大陸から渡ってきた禅が日本で盛んになるころ、大陸では仏教がいよいよ道教にやられて滅びつつあった事情が偲ばれて妙な気持ちがいや増した。禅の興隆を強調する展示を見れば見るほど、彼の地で仏教が衰亡するさまが思いやられる。ぼくはいつもこうなんです。普通に展示を見られないんです。

特別展の展示物はだいたい撮影禁止だったが、この仏手は撮影OKだった。旧本尊の釈迦の左手が屹立していた。本来は左膝の上に甲を下にして置かれ、与願印を結んでいたという。それをどうして立てたのか。仏手だけ大事に展示するということは、旧本尊は仏手しか現存しないんだろう。だから旧本尊なんだろう。現本尊の釈迦か何かの仏像がきっと東福寺にあるに違いない。(何を見せられているのか……)

特別展の券を買って入館すると、ついでに常設展を見て回ることができる。心の隅でそれを目当てにして足を運んだところもある。常設展の展示物は特に断りのあるもの以外だいたい撮影OKだ。著作権は切れているし、国民の財産なんだから当たり前といえば当たり前のこと。しかし、こういうところの予算は良識のない泥棒たちの政府によって削られがちだから今のうちに見ておいたほうがいいと思って、ときどき上野の東叡山寛永寺が炎上した焼け跡へ吸い寄せられるのだった。

 

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