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歩くことが唯一の趣味ですから。

瓦壊150年

2018-04-13 | Weblog
長州出身の総理が維新150年の映画を作らせようとして大きな損失を出したそうだ。経済も外交も
損失ばかり出して、公文書を改竄させて、こりゃ後始末が大変だ……150年目を機に瓦解しちゃう
のではないだろうか? 維新でひどい目にあった会津では、戊辰150年という言い方をしていた。
なんにも新しくなってないし、戊辰戦争は忘れない。そういう気骨なんだろう。


会津若松城を地元では鶴ヶ城と呼んでいる

ちょうど桜が咲いていた。『八重の桜』という大河ドラマがあったっけ。今年は薩摩の『西郷どん』を
やっている。きっと、維新150年=戊辰150年だから。維新と呼ぶのは薩長の新政府で、幕府側は
みんな、瓦解と呼んでいた。たとえば漱石の『坊っちゃん』の清も、瓦解を大いに悔しがっていた。
瓦解にくらべれば、戊辰は十二支と十干の組み合わせだから、まだ抑制が効いている。


白虎隊は誤解で自害した

戊辰の戦争で幕府が瓦解したとき、鶴ヶ城では八重が鉄砲を打ちまくって奮戦してたというけれど、
山中にいた白虎隊は城で飯を炊く煙をみて落城したと誤解して自刃したという話がある。武家屋敷
の火事の煙だという話もある。どちらにしても勘違いで、泰平の世が続いた後の戦争だから起きた
行き違いにちがいない。


阿弥陀寺 会津東軍墓地

西軍つまり薩長は、会津藩戦死者の遺骸を葬ることを許さず、放置させた。勝てば官軍のやること、
上野の山でもどこでも葬儀を禁じたという。幾度もの嘆願で埋葬が認められたのは明治2年の2月。
埋葬地は阿弥陀寺と長命寺にかぎられ、この阿弥陀寺には1300の遺骸が埋葬された。


1300もの遺骸を合葬

新選組三番隊長の斉藤一は、坂本龍馬を暗殺した張本人ともいわれる剣客だが、局長の近藤勇の
密命で新選組の離脱組に加わり、その主要人物を暗殺してからは新選組に戻って山口二郎と改名。
戊辰戦争では鳥羽伏見から会津若松まで戦ったが、西軍が迫り土方歳三らが仙台に向かった際に
隊士十余名と会津に残った。降伏後は、一瀬伝八と名乗って越後高田に幽閉されるが、明治3年に
藤田五郎と改名して斗南に移った。


斉藤一/藤田五郎の墓

藤田五郎として新政府の警視庁に入り、会津藩主の松平容保の媒酌で会津藩士の娘(八重が男装
するとき黒髪を切ってやった高木時尾)と結婚。西南戦争で薩摩をやっつけるなどして活躍後、大正
4年まで生きた。後半生を会津人として生きた本人の遺志で、ここに眠っている。


藤田姓で葬られている

阿弥陀寺の入口には鋳物の大仏があったが、太平洋戦争で日本が瓦解する前年に出た金属供出令
により、大仏は人々に見守られながらタスキをかけて 「出征」 した。いまは台座だけが残されている。


出征して溶かされた大仏の台座

そういえば漱石の『坊っちゃん』には、まるで会津っ子の典型のように描かれた人物がいる。山嵐だ。
会津若松駅前に掲げられた「あいづっこ宣言」が、また、いかにもな感じだった。

あいづっこ宣言

一 人をいたわります

二 ありがとう ごめんなさいを言います

三 がまんをします

四 卑怯なふるまいをしません

五 会津を誇り年上を敬います

六 夢に向かってがんばります


やってはならぬ やらねばならぬ


ならぬことは ならぬものです





関連記事:  明智光秀首塚から會津墓地
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吉見百穴

2018-04-01 | Weblog
女子栄養大学に用事があって、有楽町線から乗り入れ運行の東武東上線に乗っているのに飽きてきたので
和光市で途中下車したら、こんな路線図が駅に掲示されていた。沿線の名所が描いてある。女子栄養大が
ある若葉より4駅ほど向こうの東松山から、吉見百穴に行けるらしい。日を改めて、東松山へ。


ロータリーからバスに乗る

鴻巣免許センター行きか、鴻巣駅西口行きの路線バスに乗るとすぐ、4つ目のバス停が百穴入口だった。
逆方向のバスに乗ればJRの鴻巣駅からも来ることができるが、東松山からのほうが近い。さて、百穴は
どっちだろう? 穴のありそうなほうへ歩く。


あの土手にまぎれもなく、穴って書いてあるぞ

花盛りの桜を見にきた人たちが歩く川沿いの土手に、あからさまに穴という文字が記されているから多分
こっちに百穴があるはず。そう思って左のほうへ目をやると……


これみよがしに、桜の木の下に百という文字が

花見客に囲まれて、ここを見てくれといわんばかりに百という文字が記してあった。もしかすると、さらに
あっちのほうへ行けば吉見百穴(よしみひゃくあな)の見と吉の字も順にでてくるのかもしれないけれど、
はやく穴が見たいからそこまで深くつきあえない。


とりあえず花だけ眺めてから、穴を眺めにいく

はっきりいって、花よりも穴を目当てにここまでやってきた。いわば穴目当ての客だから、百穴とやらを
見たくて興奮している。江戸時代の中頃からふしぎな穴として興味を持たれてきた百穴。


明治20年に大規模な発掘調査が行われた百穴

土蜘蛛人の住居ではないか、コロボックルの住居ではないかと持てはやされたが、大正になると考古学
が発達して、住居ではなく古墳時代の墓穴であるとされた。


なんだ見物料300円とるのか

墓穴であるとしたら、穴にはフタがされたはず。江戸時代の中頃に、ふしぎな穴として丸見えになっていた
ということは、それまでにあらかた盗掘されてしまったに違いない。


盗人が掘りつくしてから考古学の調査が入るもの

昭和になるとバカな戦争を始めた軍部が、空襲を避けながら戦闘機の部品を製造する軍需工場をこの地に
作ろうと考えて、昭和19年から直径3メートルの穴をタテヨコに碁盤の目のように掘りだした。掘りやすそう
だと考えたからだろう。


掘りやすいけれど崩れやすくて工事は難航した

墳墓ぐらいの横穴ならば問題なかったけど、直径3メートルもある横穴を縦横にめぐらせると崩やすくなって
手をこまねいているうちに昭和20年、敗戦した。要するに間に合わなかった。それまでに、数十基の墳墓が
工事で破壊された。その程度で敗戦を迎えたので、穴の保存には何とか間に合った。


いくつかの穴の中にはヒカリゴケが自生している

環境保護に関心がある意識高い系の人が聞いたら、戦争反対の主張と相まって喜びそうな話だけど、残念
ながら穴をのぞいてもヒカリゴケがあるのかどうか全然わからなかった。意識が低いから見えないのかも。
それならそれで全然かまわない。


行楽に訪れる人々で古代の墳墓は賑わっていた
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