散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

新白河の関

2023-03-21 | Weblog

とある早春の週末、まだ山歩きするには寒さが残るのでJR東日本の「週末パス」を買っておいて、土日にローカル線を乗り継ぎながら読書することにした。ネズミで実験した結果によると、場所の移動それ自体が脳を活性化させるという。人間の場合はどうだろうか?

気のせいか列車に揺られながら本を読むと活字が頭に入りやすい。しかし一定の限度を越えると眠くなってしまう。そんなときは途中下車して、そこらへんを歩き回るとまた読書に集中できる。東日本の広い範囲でローカル線に乗り降り自由な週末パス、たまにはいいもんだな。(ステマじゃないよ)

たとえば常磐線を乗り継いで、土浦から水戸をめざす途中、偕楽園に列車が臨時停車したので梅が見頃なのかと思って下車した。駅前の看板に「九分咲き」の表示が出ていた。ちょうどいいから見物しようと石段を登ったところで、梅林の入場待ちの列が長蛇をなしていたから諦めてすごすごと駅に戻り、また列車の旅を続けた。

寄り道の話はこれくらいにして、シン・白河の関について語ろう。ローカル線は大抵の場合、終点まで行くと次の列車に乗り継ぐことができる。トイレ休憩の時間が取れないくらい、どこまでも乗り継いで行けちゃう。水戸で昼食をとり、いわきまで北上して土曜は1泊。あくる日も常磐線を北上し、原ノ町で乗り継いで仙台へ。昼食後、東北本線を南下して白石で乗り継いで福島へ。コーヒーを飲んで、郡山を経由して新白河へ。順調に乗り継ぐことができたのに、新白河で足止めされた。

ホームで小一時間も次の列車を待つと早春の冷たい風で凍えてしまうから、週末パスで途中下車してそこらへんを徘徊……改札で表示を見て思い出した。新白河ではスイカなどの交通系ICカードが使えないのだ。「首都圏ご利用エリア」と「仙台ご利用エリア」のはざまで紙のきっぷや定期券しか利用できない、新白河の関だった。

ICカードが使えなくて不便な思いをするのは通りすがりの旅行者などよりも、通勤・通学で新白河駅を利用する地元の人たちであって、卒業シーズンを迎えてこのような立て看板が駅の構内にあった。卒業おめでとうの後、すかさずICカードが使えなくて不便なことのお詫び。そういえば、以前にローカル線を乗り回したときも新白河駅で足止めされて、Suicaが使えないという看板を見た。

その真正面のNewDays(売店)では交通系ICカードが使えるのに、なんで改札とかきっぷ売り場でSuicaが使えないんだろう? 白河の関は交通の要衝として戦いの場になることもあり、戊辰戦争では薩長が錦の御旗を掲げて会津に攻め上る途中、この白河に奥羽越列藩同盟の兵が結集して薩長の行手を阻もうとして失敗した。そういう土地柄だから、東京者をすんなり通過させないため、地元の迷惑も顧みず不便を強いているとかだったら困るなあ。

Suicaを使ってNewDaysで桃100%ジュースを買って飲んだ。駅から出ても見物するようなものが近くにないし、遠くに行くと本数の少ない上り列車を乗り逃してしまうので駅構内で時間をつぶしながら、シン・白河の関のミステリーについて思いを馳せる。仙台に着いたのは正午だったが、新白河から宇都宮へ向かう列車が出るのは18時半だ。どこで夕飯を食べようか。

ちょっと早めに、のりばに入ってるであろう上り列車のほうへ歩いていくと、おかしな案内が目に入った。東北本線は白河・郡山方面も、黒磯・宇都宮方面もJR東日本なのに、6番線と7番線がホームの両側に向かい合わせではなく、ホームを縦に2分してお互い没交渉なように配置してある。郡山から来るときは7番線だった。向かいに列車を停めればよいものを、同じホームを縦に延々と歩かせて6番線で乗らないといけない。変わったことをする駅だな。

向こうの6番線で待っている上り列車の手前には、下り列車の7番線と決して交わらないようにバツ印のついたコンクリートの壁がある。どうしても通せんぼしたいらしい。それほど奥羽越列藩同盟のテリトリーに官軍の勢力を立ち入らせたくないのか。ここからの奥羽越は旧列藩同盟で、まつろわぬエリアだという意思表示だろうか。何とも奇妙な新白河駅である。

宇都宮に着いたら、ほぼ20時だった。お腹が空いたのでギョーザ12個とシューマイ6個と生ビール1杯、駅前の健太餃子で注文し、とりあえずビール飲んでたら「日曜日は閉まるの早いから、20時ラストオーダーで21時に閉店よ」とおばさんが伝えにきた。ペース配分というものがあるので生ビールと、ハイボールのメガジョッキを最後に注文し、21時までに店を出て上野東京ラインに乗り、23時に東京に着いた。

 

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武道館

2023-03-11 | Weblog

メガデスのライブを聴きに武道館に行ったとき、人混みに流されながら江戸城の堅牢な守りを思い知り、それについていつか書いておこうと思った。公演終了後は混雑を避けるため、新型コロナウイルス感染症の感染拡大後すっかりおなじみの規制退場となったから、武道館を出る人の流れは滞ることがなかったにもかかわらず、北の丸を出るところで大渋滞が起きた。

門のところで人の流れが阻まれて身動きできなくなったのだ。一度に大軍が入場できないように門を狭くしてあるため、武道館からの規制退場でせっかく小分けにされたメタルの観衆がここで渋滞を余儀なくされた。有象無象が入りにくいようにする城の守りの構造は、そのまんまオーディエンスが城を出にくい難所として生き残っているのである。

せっかく門を抜けても、そこには次の門とのあいだに四角く作られた空き地があり、押し寄せてくる兵をここに足止めして門の上から弓矢や鉄砲で一網打尽にできるような縄張りにしてある。ここにまた有象無象のオーディエンスが渋滞して江戸城の北の丸をやすやすと出られない仕掛けになっていた。弓矢や鉄砲は直線の攻撃しかできないから、城を渦巻き状の縄張りにして城門の中に升形(と呼ばれる空き地)を作り、敵を誘い込んで一網打尽にするのは戦国時代に発達した築城術である。

メタルのライブを堪能した直後に戦国の築城術について思いを巡らせることになるとは、メガデスの旧メンバーであるマーティ・フリードマン(いつも日本にいる)が特別ゲストとしてステージに参加しピョンピョン跳躍しながらギター弾くのを見ているときは予想だにしなかった。それでブログに書いておこうと思った次第である。

 

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石神井公園

2023-03-04 | Weblog

35年ぶりに、あの公園へ行ってみよう。あのころは自転車だったけど、いまは電車じゃないと行けない。西武池袋線の石神井公園駅まで乗り継いで出かける。私鉄沿線は駅前ばかり再開発されて住宅地へ続く商店街はむしろ痩せ細るのが平成の大店法で起こる一般の変化だった。石神井公園も、昭和末期のあのころに比べると特徴のない場所、日本中どんな駅前にもある巨大資本の出店が目立つ場所に変わった。

昭和のアニメ『ど根性ガエル』の舞台は石神井公園だったと駅前のパネルに誇示してある。しかし駅前の佇まいは一変しており、梅さんの寿司屋など探すよすがもない。ヒロシや五郎やゴリライモや京子ちゃんのような若者もいない。もはや歩いているのは高齢者がほとんど。ヒロシや五郎やゴリライモや京子ちゃんの現在の姿かもしれない。ピョン吉はすでに死んだのか。

公園にくれば何か思い出すかと思ったけど、思い出すことなど何もなかった。ボートが浮かぶ石神井池は人工池だそうだが、最近できたわけでもなく35年前もあったにもかかわらず見ても何の感慨もない。こういう光景がアニメ『ど根性ガエル』に登場したような気もしない。『ど根性ガエル』のアニメは平成の初期にリメイクされたと思うけど、そこにも石神井公園のこんな様子が出てきたような記憶がない。アニメはともかく、実際ここへ来たことあるか自信なくなってきた。

石神井池に沿って遊歩道を歩き、車道を渡ると三宝寺池に出た。こっちのほうが何となく見覚えあるような、ないような。三宝寺池はもともと天然の湧水で、氷河期から生息してきた湿性植物が昭和10年に「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物になったそうだけど、戦後の都市化で湧水は涸れ『ど根性ガエル』の終了後だろうか地下水を汲み上げて池を維持するようになった。貴重な沼沢植物の多くは消滅したという話だけど、現在あらためて見ると昔からこうだったようにしか思えない。

そんな三宝寺池のほとりには遊具があり親子連れの歓声が聞こえた。賑やかなほうへ引き寄せられて行くと何やら売店のような食堂のような建屋がある。ブログのネタになるかもしれないので奥へ進み、750円のカレーライスを注文した。ラーメンやそばもあるのだが、こういうところではカレーがいちばん無難ではないだろうか。無難といって悪ければ、たぶんラーメンやそばよりカレーの品質のほうが安定しているのではなかろうか。そう思ったのだった。

まえ3番の席に座って待っていると想像した通りのカレーライスが運ばれてきた。期待しないで食べるカレーほどおいしいものはこの世にない。スプーンで口に入れると思った通りの味がした。昭和末期の味がするカレーを食べたら当時の石神井公園について何か思い出すかと思ったのに、記憶が呼び覚まされることはなかった。あのころは公園の小屋で銭を出してカレーを食べた経験がなかったのだから、考えてみれば当たり前のことだった。この小屋は35年前すでにあったんだろうけど覚えてない。

記憶喪失みたいで楽しくなってきた。豊島屋御休憩所というのか。席数が結構あるので、御近所だったら天気のいい日の午後など御休憩所に立ち寄り、おつまみを頼んでビールの2〜3杯も飲めばごきげんだろう。枝豆やモツ煮込み、ソーセージなどがあるのを視力2.0のデビルアイで確認した。確認しても石神井公園へ滅多に来る機会がなく、次はまた35年後かもしれないので小屋か自分がそれまで健在かどうか定かではない。きっと両方この世から消えている。

無常を感じつつ小屋を離れると石神井城址史跡碑があった。三宝寺池の向こう、石神井川との間に石神井城址があるらしい。35年前こんなものなかった。いや、あっても目に入らなかった。平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などに勢力を持っていたSPECTERという暴走族……じゃなかった、豊島氏の居城の一つがこの石神井城址だった。築城は鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477)太田道灌に攻められて落城し、廃城になったという。

緑の部分が石神井公園で、上部の出っ張りが石神井城の主郭跡らしい。三宝寺池から主郭跡のほうへ傾斜をいやいや登ったら、土塁と空堀のようなものがあった。それらはフェンスに囲まれているので土塁の内側がどうなっているか見ることはできない。しかし中は平坦になっていて屋敷があったんだろう。戦国時代の天守閣のような規模ではなく、小規模な掘建小屋が存在していたことを示す柱穴のことが立札に記されていた。

手前の低いところが空堀で、小高くなっているのが土塁。その向こうには土塁に囲まれた平坦な場所があり、少量の中国製陶磁器や常滑焼、渥美焼などが出土したので、SPECTERのアジト……じゃなかった、豊島氏がここに暮らした可能性があるとか。鉄製の小刀なども出土したというから、抗争の際に族がふりかざしたように豊島氏か太田氏が「チクショウ、やってやる」とひけらかし、その場に取り落として550年の歳月が過ぎたのかもしれない。

35年前は石神井か大泉の図書館で勉強するのに飽きてここまで攻めてきたので、図書館が公園に隣接してるのではと思ったけど、そういうわけじゃないようだったからチャリンコ転がして攻め入ったんだろう。図書館のレコードでレインボウのアルバムを聴いたことを今も覚えている。あのころはレコードをそうそう買えなかったので、貸しレコード店で借りてカセットにダビングしたり、図書館で針を落として聴いたりしたものだ。今はYouTubeもあるしサブスクもある。歴史的大変革である。

石神井公園駅まで歩いて戻るのが面倒くさいと思っていたら、ちょうどいいところへ西武バスが来たので飛び乗る。どこかの駅で降りて電車に乗り換えればいい。どうせ西武線沿線に運ばれるだろうと空いてる席に座って腕組みしていると大泉学園駅南口に着いた。先日85歳で亡くなった漫画家の松本零士さんがこのへんに住んでいたとかで、『銀河鉄道999』の車掌さんが駅の構内に立っていた。『ど根性ガエル』といい『銀河鉄道999』といい、昭和のアニメは練馬産ばかりだった。

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