散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

小田中部

2021-05-29 | Weblog
こたなかべ、ではなく、おだちゅうぶ、というバス停がある。TXのつくばから、つくバスで
50分ぐらい。ひとつ前のバス停が、小田東部だから、小田という土地の中部・東部ってこと。
あえて言おう!茨城くんだりと。室町時代の延元3年(1338)南北朝に分かれた皇族のうち、
北畠親房は南朝の勢力挽回のためと称して伊勢から舟で陸奥へ落ち延びようとして、常陸国に
流れ着き、小田氏に匿われて小田城に入った。



その小田城の跡を訪ねて、小田中部にきてみた。つくバスの名前は、小田シャトル。ここまで
運賃300円。1時間に1便あるかないか、といったところ。わざわざ足を運んでも、ほとんど
何も残っていない。昭和49年(1974)の『茨城県の歴史散歩』(山川出版社)に目を通すと、
「城跡には学校・民家が建ち、大半は水田・畑で一部に堀が残っている。いちだん高い本丸跡
には、ふるい大ケヤキがたっている」と書いてあるが、その大ケヤキも今はない。



そのかわり土塁などが復元されており、歴史ひろば(遺構復元広場)になっている。子供や犬
が大人に連れて来られて、楽しそうに遊んでいる。ここにあった小田城に匿われた北畠親房は
南朝の正統性を証明しようと「神皇正統記」を著した。ついでに「職原抄」も記した。きっと
ひまで心細く憤懣やる方なかったに違いない。ものを書かずにいられなかった。北朝の味方の
幕府の兵も攻めてくるし、イライラしながら書きつけた。



小田城本丸の古い概略図をみると袈裟がけに斬り捨てたような筋が左上から右下に1本通って
いる。これは昭和62年(1987)廃線になった関東鉄道の線路らしい。列車が走っていた頃は、
本丸跡に「ふるい大ケヤキ」とやらも健在だったかもしれない。関東鉄道が廃線になってから
鉄道のコースが「りんりんロード」(サイクリング道)に整備され、城跡を迂回した。



土塁が復元されて遺構が整備され、その外側が「りんりんロード」になった。だから、城跡
の周回コース以外は直線のサイクリング道がどこまでも続き、本丸に串を打ったかのようだ。
戦国時代になると、小田城は上杉・北条(小田原)両氏の争いに巻き込まれ、上杉謙信の息
のかかった佐竹氏に奪われた。関ヶ原の後、佐竹氏が秋田に移封されると共に廃城となった。
「ふるい大ケヤキ」がその頃すでに生えていたかどうか、わからない。



関東鉄道が城跡をぶった斬って走っていた昭和の当時なら、ここは駅から300m、徒歩5分の
廃城だったから、100円の古書を手に訪ねようと思ったのに、スマホで関東鉄道の常陸小田駅
までルート検索してもヒットしない。そこで、つくバスに乗ってきてみたら整備された公園に
なっていたというわけ。


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旧唐人屋敷

2021-05-15 | Weblog
1986年なんて最近のように思える。しかし35年も前なのだ。昭和61年、商店街の
振興組合が発展の願いを込めて建てたという長崎新地中華街の玄武門(北門)に、
カメラを向けたら知らない人がフレームに入ってポーズ取ったので写真を撮った。
この新地は埋立地で、江戸時代の鎖国下で認められた対中貿易の倉庫街だったが、
1859年に鎖国が放棄され港が国際開放されると旧唐人屋敷の人々が平らな新地に
どっと移り住んだ。そして、旧唐人屋敷は廃墟になった。



斜面にへばりつくような旧唐人屋敷をぶらぶら歩く。猫がいっぱい住んでいる。
貿易船がねずみ退治のために猫を積んで出入りするので、長崎は猫だらけの港に
なってしまった。比較的、人懐っこい猫が多い。



猫がねじれて転がった。明治に廃墟となった旧唐人屋敷があらためて住宅地に
なった現在も、猫が我が物顔で住んでいる。住宅の合間に残る唐人の文化財を
探していくと、必ず猫に出くわす。



土地の神を祀った土神堂があった。1691年(元禄4年)に建てられ、その後
いくどか再建されて現在のものは1977年(昭和52年)に復元されたと看板に
書いてあった。



貿易船で運ばれてきて陸に住みつき、いくど生まれ変わったのか知らないが
やっぱり猫がでてきた。



唐人といっても多くは福建省の出身だから、猫もそのへんから来たのだろう。
南京の人々が航海の安全を祈願し、天后聖母を祀った天后堂があった。



やっぱり猫がとぐろを巻いている。時間帯のせいなのか、まったりしている
猫ばかり。近寄っても逃げないでジッとしている。



観音堂には、遊具を設置した公園がついている。観世音菩薩と関帝が祀られ
印度と中華が折衷している。1737年(元文2年)に創設された堂と思われ、
現在の建物は1917年(大正6年)に改築された。



気持ちよさそうに猫が寝ている。近づくと頭をもたげ、無音の鳴き声を上げ
まぶたを閉じる。猫博士によると親愛表現だそうだ。



こちらの福建会館は時代が新しく、1897年(明治30年)に建てられた。と
いっても100年以上前の話だ。会館本館は1945年(昭和20年)原爆により
倒壊したが、この天后堂と正門は残った。



そして猫が午後の光を浴びて幸せそうに眠っているのでそっとしておいた。
おしまい。


関連記事:  佐世保から黒島
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是川縄文館

2021-05-01 | Weblog
すみません回送中です、と電光表示したバスが行ってロータリーを回ってきたやつに乗り、
30分ぐらい揺られて終点で下りると目の前に是川縄文館があった。



平成9年(1997年)6月に出土した合掌土偶が平成21年(2009年)3月19日に国宝指定
されて、平成23年(2011年)7月10日に開館したのがこの施設だ。開館10周年にあたる。
もっとも、それ以前に昭和38年(1963年)開館の是川考古館など埋蔵文化財の保存管理と
展示を行う施設がいくつかあり、国宝指定を受け機能を集中させたらしいことがチラシに
書いてある。



順路の通り進むと最初に展示してあるのが漆塗りの弓(写真の上のほう)と漆塗りの太刀
(写真の下のほう)だった。そういえば縄文時代に漆器が既に作られていたという。千葉
の国立歴史民俗博物館でそんな展示を見たことがある。弓は狩に使われただろうけれど、
太刀は狩に使わないし、戦闘用とも考えにくいから太刀も弓も祭儀用だろうか。



木胎漆器があった。木の器に漆を塗ったもの。塗る前に、縄文のような模様が彫ってある。
ずいぶんと手間のかかる工芸品をこの当時の人たちは拵えたものだ。



漆塗りの土器もあった。これなどは縄文土器を焼いた上に漆を塗ったのだろうか。木器でも
土器でも似たような紋様が彫ってある。千葉の歴史民俗博物館では、編みカゴを模した文様
ではないかと学芸員さんが言っていた。カゴは残りにくいけど、土器は残りやすいから多数
出土しているのだろうと。



漆器も木製より土器のほうが残りやすいのだろう。こちらの土器にも漆が塗られているけど、
よく見ると赤いところと黒いところがあり、2色でデザインしてある。素焼きみたいな土器
や、煤けた土器は見慣れているけど、こんな明確なカラーリングは珍しい。



黒びかりした土器は、焼き上げた直後の熱い土器を落ち葉などで覆い、土器の熱で焦がして
炭素を器に吸着させたものと考えられている。是川中居遺跡の大洞式土器の多くは、表面を
丁寧に磨いてあって土器とは思えないほど黒びかりしている。漆を塗ってツヤを出したもの
まである。それらも祭祀用だろうか。



赤色の顔料は、赤鉄鉱などのベンガラが多く使われていて、土器の全体を赤く塗ったものや、
黒く焼いた上から文様の部分だけを赤く彩色したものがある。さっきの赤黒コントラストは
そうやって仕上げたものだろう。手間のかかることを……!



ちなみに漆は塗装だけでなく、破損した土器の継ぎ目を接着する目的でも使われているので、
出土する土器の継ぎ目に漆が付着していることがよくあるそうだ。同じ目的でアスファルト
もよく使われ、土器の継ぎ目についているのが見つかる。



さて漆のほうは自然に生えているものだけでなく、栽培した漆が使われていた。木胎漆器の
木材も、自然に生えている樹木だけでなく漆器用に栽培した樹木が用いられていた。石器で
伐採して加工していたことになる。



伐採して得た木材をこのように石器でくり抜いて器の用に適した形に整える。職人さんだ。
農家さん武家さん商家さん以前に職人さんが現れた。狩猟漁労採集職工は、百姓や武士や
商人より古い仕事かもしれない。古い職業を新興の階層が見下す。



丁寧に文様を彫っていく。見下したかと思えば急にクールジャパンとか持ち上げたりする。
漆器は英語でジャパンだから、縄文時代からやってる漆器づくりの伝統はクールジャパン
にそれこそ相応しいかも。



文様を彫った上から漆を塗って仕上げる。こうして出来た木胎漆器が1万年以上も埋もれて
何かの加減で腐らずに残り遺跡調査で発掘されるのを待っていたわけか。



ところで国宝はといえば国宝展示室に一体だけ、つまらなそうに体育座りして待っている。
よく見ると体育座りではなく、胸の前で手を合わせているので合掌土偶という。浣腸土偶
に見えなくもないので、ケースの周囲をぐるっと回って見定めようとしたら!



このタイミングで自分のスマホから警報音が出たので、ケースに近づきすぎてアラームが
鳴ったのかと思ったが、スマホで警告されるのも変な話である。画面を見ると地震速報で、
それなら心配ないと感覚が麻痺しているので土偶とさらに向き合う。



合掌土偶の背後に回ったとき、揺れが届いた。見物している人は他にいない。土偶と自分、
人型の2体が対峙している。というか後ろから襲いかかり、どさくさ紛れに盗もうとする
かのような按配だ。ケースがガタガタ揺れる。周囲に倒れやすい物もないので、慌てずに
背後から狙いを定める。



こっちからのほうがいいだろうか? 目を光らせていると、さすがに職員さんが(国宝の)
様子を確かめにきた。「大丈夫ですか?」と声をかけられ、何が大丈夫なのかと思いつつ
「はい」と我ながら異様な声で答えた。地震が怖いわけでもないのに、あんな声を発して
疑われなかったろうか?



平静を装いながら、身の危険を感じたのか両手を合わせて何かをお祈りしている合掌土偶
と1対1の対面を続け、地震も収まったし、津波の心配もないようだから、帰りのバスの
時間が来たらニセモノとすり替えたホンモノを持って帰った(ウソ)。


関連記事:   加曽利貝塚

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