散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

みずほ台

2020-11-14 | Weblog
みずほ台で5500年前の縄文遺跡を見てきた。みずほ台とはどこか。それは池袋から西へ下る東武東上線の
駅である。カッパが出る柳瀬川駅の次である。カッパというのは縄文遺跡の近くに出没する生き物らしい。
もしかすると妖怪はみんな縄文人かもしれない。



みずほ台の駅の東口を出てまっすぐ、定規で引いたようにまっすぐな都市計画道路を歩いていくと案内板
があり、それを見ながら水子貝塚公園に行くと縄文時代の竪穴式住居が復元された国史跡がある。水子を
貝塚に捨てたのかと思わせるネーミング。



本当に捨ててある。しかし水子の骨にしては大きすぎるので右の穴に入ってるのが水子の骨かもしれない。
すまないが成仏しておくれ、あのころは堕ろすしか選択肢なかったんだよ……と手を合わせるも、右の穴
の骨は犬の骨だった。水子とはこの一帯の地名らしい。なぜ水子?



ここは埼玉県富士見市……埼玉といえば海なし県なのに貝塚があるのは一体どういうわけかと思ったら、
縄文時代はこのあたりまで海岸線が進入していたらしい。縄文海進といって、上尾のあたりまで海岸線が
食い込み、千葉の房総半島なんか島だった。そりゃカッパも出るわ。



水子貝塚公園の場所は森に囲まれ水が湧き、海に近くて暮らしやすかった。向こうにあるみずほ台駅から、
きょうはまっすぐ歩いてきた。昭和13年に住居跡が発見されて、昭和14年に環状集落であることがわかり、
戦争で調査が中断されて昭和42年にまた調査が行われたという。



竪穴式住居の跡に残る穴はゴミ捨て場にちょうどよくて、食べた貝の殻だの魚の骨だの獣の骨だの土器だの
何だの、いらなくなったものをポイポイ捨てた。それが貝塚であり、どうして水子が貝塚に捨てられたのか
謎である。水子じゃない。何らかの理由で忌み嫌われた成人の女性。それと犬。



元は竪穴式住居だった貝塚が環状に発見された。調査は順番にしか実施できないから、順番待ちの貝塚には
白い覆いがしてある。その上でホモサピエンスが野球やサッカーをして興じている。縄文人だって現代人と
おなじホモサピエンスだから、そこに優劣は存在しない。



竪穴式住居の主柱の跡を見ていると、諏訪大社の御柱によく似ていると思った。あれは竪穴式住居の名残か。
諏訪に行くとあっちにもこっちにも四本柱が立っている。7年に一度だか、その巨大なやつに若者が跨って、
斜面を滑り落ちてきて死人が出たりしている。一体全体なんのつもりだ? あの奇祭。



柱を立ててカマドを作り、屋根を葺いて暮らした。その土地にあるものを使って屋根を葺いたから、茅葺屋根
もあれば樹木の皮で葺いて砂を播いた屋根も地方によってあるし、南のほうの島ではバナナの葉で葺いたりも
している。奈良時代も竪穴式住居に庶民が住んだというから、天野香具山から見下ろして「衣干すちょう」と
歌われた民家も竪穴式だったかも。



煮炊きに使う縄文式土器は小ぶりで黒ずんでいるやつ。火にかけるから黒ずむ。縄文式土器は水が漏れたって
いうけれど、どんぐりとかくるみとか、炭水化物を煮た汁が隙間を埋めるから使うほど便利になったという。
大ぶりな土器は貯蔵用で、水を使わないし火にかけないから黒ずんでない。

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いわき

2020-11-08 | Weblog
10月31日土曜日(つまり大昔)いわきに出張した。東京駅を9:53に出発する常磐線の特急ひたち7号で2時間あまり、
12:07いわき着。ここで生まれ育った人が「何にもないところですよ」というから、本当に何にもないところだろうと
思って駅前の通りに出たら、なかなかどうして開けた街だし東北とは思えない風光明媚さ。



今回ただの散歩ではなく取材できた。といっても、いわきの取材ではなくケイリンの取材なので、いわき平競輪場まで
およそ1㎞まっすぐ歩いていく。当てにしていた無料シャトルバスがコロナで運休だったのだ。もしや無観客レース?
と思ったが、競輪場に到着したらお客さんがいた。この日はナイター競馬なのだが、全国43か所ある競輪場のどこかで
朝・昼・晩レースをやっており、競輪場で中継を見たり車券を買ったりできるので、朝から晩まで人がいる。



黄昏ていく、いわきの景色を眺めながらケイリンを観戦するのは、なかなか気分がいい。近くにこんな場所があったら
通い詰めてしまいそう。そんなことを思いながら取材を行い、すっかり日が暮れたあと、いわき駅のほうへ歩いて戻る。
昼間はポカポカ暖かかったのに、夜になると風が冷たくて、さすが東北だけのことはある。



仕事の流れを読み間違えて昼ごはんを食べそびれたので、炉端焼きの店で生ビールと生牡蠣とホッキ貝の刺身と頼み、
同行したライターさん、カメラさんと乾杯。1日の感想など話す。はしご酒してビジネスホテルに1泊し、帰りの切符
を3人で分けて、翌朝めいめい好きなタイミングで帰ることにして就寝。



明けて11月1日は日曜日なので散歩して帰る。あれは炭鉱の跡じゃないだろうか……そういえば映画『フラガール』
の常磐ハワイアンセンター(現スパ・リゾート・ハワイアンズ)が近くて、炭鉱が寂れたから東北にハワイを作ろう
という話だった。廃坑が展示されているなら、あとで見物してもいいかも。それより何とかしなければ。



昨夜のビジネスホテルでGoToトラベルキャンペーンが適用されて、各自に1000円分ずつ発行された金券を本日中に
福島県内で使わなきゃ無駄になる。ちょうど1000円の「いわき名物うに貝焼き弁当」を駅で見つけて、腹ごしらえ。
うにはどこのかなと思ったら東北ではなくチリ産だった。グローバリズム。



あれは炭鉱の労働者が慎ましく暮らした団地かもしれない。当時ハロウィンの風習は日本と無縁だったけど、昨夜
いわき駅前には仮装というより薄着でうさ耳つけた生足ミニの女子高生グループがいくつかSNS用の写真撮影を
やっていて、練り歩くわけでもなく、写真を撮り終わったらナンパ待ちしていた。渋谷のハロウィンとかなり違う。
一瞬キャバクラの客引きかと思ったけど、学園行事のようだった。



やっぱり、さっきのは廃坑跡の展示施設だった。「いわき市石炭・化石館ほるる」入館料660円を払って見物した。
石炭も展示してあるけど、恐竜などの化石も展示してあった。フタバスズキリュウ(フタバサウルス・スズキイ)は
いわきで1968年に化石が発見されて、2006年に新属新種と記載されたそうだ。



炭鉱の資料だけでは客を呼べないのか、恐竜展示を大々的に見せてから、ついでに炭鉱の展示へ順路をつなげてある。
九州や北海道でみた炭鉱展示は「男の仕事」という感じだったけど、ここのは女がちらほら。


なぜ裸体?


なぜ裸体?






関連記事:   池島   夕張
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弥生

2020-11-01 | Weblog
昔は歴史が単純でわかりやすかった。昔は……というか昭和は、狩漁採集で得た食糧を縄文式土器で煮炊きした縄文人と、
農耕で得た食糧を弥生式土器で貯蔵した弥生人が、はっきり分かれていた。縄文時代と弥生時代の区分が明確だったのに、
いまでは縄文人も米を作っていたことがわかって、縄文と弥生の区別が曖昧になった。



ここ、向ヶ岡弥生町の貝塚で弥生式土器が見つかった明治17年が、弥生時代の始まりだ。貝塚で見つかったということは
弥生人も狩漁採集してたんじゃないのか。縄文人が狩漁採集と農耕を営み、弥生人も狩漁採集と農耕を営み、違いはただ
土器のかたち……何も変わらないのでは? 縄文式土器の方が芸術的で弥生式土器は劣化版に見えなくもない。明治17年、
そろそろ富国強兵をどうにかしなきゃという時代だから、紀元前4世紀ぐらいに弥生時代というものを設けて、他の国に
恥ずかしくない日本の黎明をでっち上げようという機運が高まってもおかしくない。明治17年に曙を迎えた弥生時代って
フィクションなんじゃないだろうか。



弥生式土器の発見された場所が、東大の足元というのも怪しい。東京都文京区弥生2丁目の東大のキャンパスの壁沿いに
言問通りを下って不忍通りのほうを望むと、弥生式土器の見つかった貝塚が高台にあり、不忍通りのあたりが海に見える。
そういう目で見ると、あの坂の下はもう海にしか見えない。縄文人とも弥生人ともつかない昔の人々が魚や貝を捕っては
丘の上の集落で土器を使って煮炊きした。貧富の差も争いもまだそれほど激しくない、豊かな暮らしがこの土地にあった。
すっかり失われた生活が目の前にありありと浮かび、悔いを感じながら坂を下って根津駅から地下鉄で帰った。
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