散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

箱根と広島

2019-03-24 | Weblog
展示替えで呼ばれるたびに出かけていく箱根のポーラ美術館。このところ皆勤賞だ。会期初日に記者や
ブロガーを渋谷から貸切バスで案内する便があり、自分の場合は記者なのかブロガーなのか、それとも
どちらでもないのか……バスに乗らずに早めに現地のちかくを散歩して行くことが多い。


ひとまず小田原から大雄山線へ五百羅漢駅へ

どんな五百羅漢がいるか立ち寄る。だいたい石仏が風雨にさらされてるものだけど、ここの羅漢たちは
お寺の本堂に安置されている木像だった。ひとつ、ひとつ、顔を眺めて歩いていると年寄りグループが
ぞろぞろ本堂に入ってきて、手を合わせて行き交うものだから、どれが羅漢でどれが年寄りか見分けが
つかなくなってきた。やがて年寄りが立ち去ったので、自分も立ち去る。


そして箱根・仙石原のポーラ美術館へひとっとび

印象派の絵画コレクションが充実している美術館どうし、ひろしま美術館とポーラ美術館が協力し合って
3月24日から「印象派、記憶の旅」展がはじまった。7月28日までポーラ美術館に展示されたら、そのあと
ひろしま美術館で8月10日から10月27日まで展示される。ピカソの青の時代の作品を見比べたり、ピカソ
が愛する長男を描いた作品を見比べたり、箱根と広島の収蔵品を同時に見るのは刺激的だ。


青のそばには黄、緑のそばには赤

点描に科学的な分析を取り入れたスーラは絵のまわりに自分で枠を描いたというから、近づいて眺める
と、青いところの枠には黄の点描、緑のところの枠には赤の点描があって補色の関係が意識されている。
なんという、時間のかかりそうなことを……。


ゴッホの「草むら」をあえて額から外してあった

それを裏側から眺められるようにしてあり、記者やブロガーのみなさんがとても興味深そうに後ろからも
じっくり眺めている。いったい何があるのでしょう?


布にべったり絵の具がついていることがわかる

だいたい補強のために裏打ちということをして、裏から布を貼るので背面がどうなっているか見られる
作品が少ないそうだ。ゴッホの「草むら」は裏打ちしてないので、絵の具がいっぱい付着しているのが
わかる。描いたあと木枠につけたままだったら、こんなところに絵の具がつくはずはないので、ゴッホは
描いた絵を木枠から外して重ねたのだろう。そのとき絵の具がついたのだろう。


何の絵の上に重ねられていたか調べれば……

「草むら」の制作年や制作地を特定する手がかりになるから、どの作品の絵の具がついたか調べたが、
残念ながら絵の具の位置が一致する作品は見つからなかった。ただ、絵の具が剥がれたほうの作品は
さらに加筆されている可能性があるから、これから研究すれば見つかるかもしれないという話がとても
興味深かった。それで記者やブロガーのみなさん、じっくり見つめてたのか!


そうこうするうち箱根に雪が降りつもりだした

バスが渋谷まで帰れなくなると大変だから、予定より早く記者やブロガーのみなさんは出発することに。
仙石案内所まで便乗させてもらい、その晩は近くに潜伏(ちゃんと予約して宿泊)。次の日は晴れたので
小田原までくだって二宮尊徳の生まれ故郷へ。


小田急の栢山駅で下りて酒匂川のほうへ歩く

薪を背負って本を読む少年が、病気がちな父の代わりに土木工事に従事したのがこの川っぺりらしい。
そもそも少年の家が貧乏になったのも水害がきっかけだというから大変だ。護岸のために近隣の人々が
植えた松は「尊徳の松」として有名だったのに、明治43年の決壊で流されたというから大変だ。


この消えかけた地図を頼りに……

そのへんを歩き回れば「二宮先生遺跡」に当たりそう。というか、遺跡じゃなくて子孫が暮らす現役の
二宮の表札が結構ある。いまでも農家を営んでるのか、サラリーマン生活なのか、表札だけでは何も
わからないけれど。


二宮総本家跡の石碑をみつけた

二宮の総本家がこのあたりに住みはじめたのは北条早雲のころで、田地六町四反十七歩を持つ名家
だったのに1800年ごろ途絶えた。二宮尊徳は19歳で再興を志し、元総本家の敷地内で竹を育てて売り、
その資金を元手に50年かけて田地を買い戻したというからスゴイ。


一族の菩提寺、善栄寺みつけた

勉強なんかする暇があったら働け! といわれても、わずかな隙をみて勉学に励んだ少年。月の光か
蛍雪か、それとも灯りに覆いをかけてバレないように学んだときか。


墓地には二宮の墓石がいっぱい並んでいる

そしてまた気づけば墓地に迷い込んでいる。二宮、二宮、二宮……二宮一族の墓石がたくさんある
中でどれが尊徳の眠るところか。戒名が「誠明院功誉報徳中正居士」というそうだから探してみる。
誠明院功誉報徳中正居士、誠明院功誉報徳中正居士……。


誠明院功誉報徳中正居士みつけた

この中らしい。ひとつ上の写真の真ん中にある石の、いちばん右に「誠明院功誉報徳中正居士」って
刻んである。ちなみにこの寺には木曽義仲と巴御前の五輪塔が仲よく並んでた。北条氏康の夫人の
墓もあった。どうしてこのブログはいつも墓のことばかり……。


二宮尊徳の生まれた家みつけた

16歳で一家離散したとき売り払われたが、その後も取り壊されることなく残ったというからホンモノか。
月2回ほど保全のために囲炉裏で火を焚いてるというから、保存も大変だ。隣に小田原市尊徳記念館
があり、親につれられて見にきた子がみんな怖がっていた。




関連記事:  末広ヒロ子

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小諸

2019-03-10 | Weblog
終点だから下りただけ。藤村の「小諸なる古城のほとり」があまりに有名だから、どんな古城か
小諸の駅を出て見に行く。駅のすぐ裏の低い土地にその古城はあった。


石垣もなくボロボロな「小諸なる古城」とやら

浅間山の火山灰が露出している……維新で廃城になった後、明治4年に北国街道を整備するとき
ここにあった石垣は運び去られて街道の縁石になり、その後ずっと火山灰の崖のまま。島崎藤村、
明治30年代にこれを「小諸なる古城」と表現したのか!


昭和59年に元より大きな石で一部復元された

あまりにボロすぎるので、石が運び去られて百年以上たった1984年になって、元々あったのより
大きな石を使って石垣の一部が復元された。そんなことしちゃ、いけないのでは?


浅間山から噴出した「焼石」でつくられた石垣

運び去られる前はこんな石垣だったのでは? 道の縁石にしやすいだろうし、持ち去りやすいし。
でも、確かなことは何もわからない。


知らないアニメの舞台に

『あの夏で待ってる』とかいうアニメの舞台になって、2012年1月から3月まで放送されたらしい。
ぜんぜん知らなかった。いまでも石垣の前にパネルが置いてあった。


関ヶ原に向かう途中、秀忠が腰を下ろしたとか

本丸も二の丸も三の丸も、跡しか残ってないけれど、小諸城は二度にわたり、真田氏を攻める
徳川氏の本拠地になった。二度目は関ヶ原の合戦に向かう徳川秀忠を真田の親子が足止め
したときの、秀忠の本陣だったから、秀忠が腰掛けたという石が置いてある。


山本勘助が常に愛用したという、鏡石もあった

のぞきこむと顔がなんとなく映る。よーく磨けば、よく映るのかもしれない。武田信玄の時代の
軍師・山本勘助。どうして毎日そんなに自分の顔をよく映したかったのだろう? 美容のためか、
それとも占いのためか?


「ありゃとうござんした」

倍賞千恵子のポスターに本人直筆らしい文字で書いてある「ありゃとうござんした」……こんな
しゃべり方だったっけ? 倍賞千恵子。


お兄ちゃんの口真似だったか!

『男はつらいよ』シリーズ40作目、1988年公開の「寅次郎サラダ記念日」のロケ地になったから
そば屋の店先にサイン入りポスターが貼ってあったということか。


純手打そば 古城軒 本日休業

いつか機会があったら『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』で確認してみよう。機会があるか
どうか定かではないけれど……ちなみに、小諸に「小諸そば」はなかった。あるわけないか。


小諸なる古城のほとりが動物園になっていた

どんな動物がいるんだろう? とりあえず、門の脇に掲示されている動物のニュースらしきものを
チェックしてみる。


お知らせ ケヅメリクガメは、寒くなったので……

ケヅメリクガメは、寒くなったのでお休みしてるみたい。そして、ライオンは体調がよくないので
お休みしてるみたい。なんか、お休みしてる動物が多い?


と思ったらこちらは、 訃報 訃報 訃報……

チョウゲンボウの「チョウちゃん」が死亡しました。 2018年12月3日 推定13歳

キエリボウシインコの「タロウ」が死亡しました。 2018年12月13日 46歳

グリーンイグアナの「ジュニア」が死亡しました。 2019年1月5日 推定17歳

ずいぶん死亡が続いているようだけど、いったい何がいるんだろう?


イヌがいた (名前はさくら)

キツネとか、テンとか、モルモットもいた。
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朔太郎の書斎

2019-03-03 | Weblog
せっかく前橋まできたから歩いて前橋文学館へ。すると、何年か前まで敷島公園にあった
萩原朔太郎の書斎や、生家の離れや土蔵が川沿いの文学館のそばに移築されている!

2017年に移されたらしい。中央前橋駅から赤城へ、赤城から太田へ、太田から北千住へ、
私鉄を乗り継いで都内へ戻ってきた。メモ書き程度。(写真は生家の離れ)

関連記事:   前橋
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