散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

琵琶湖

2021-08-22 | Weblog
滋賀県の児童はみんな学校ごとに学習船「うみのこ」に泊まり込んで郷土のことを学ぶのだそうだ。琵琶湖フローティングスクールというらしい。滋賀県出身者にどれくらい水上生活者がいるか聞いてみたことがある。「みんな陸上に住んでいる」という返答だったが、少なくとも児童に関しては概ね100%水上学習を経験していて、うらやましい。なんでもっと自慢しないんだろう?



うらやましがっても滋賀県の児童ではないので学習船「うみのこ」でフローティングスクールに参加することはできない。せめて外輪船ミシガンに乗って琵琶湖を周遊しようと思ったが、あまりに大きい湖なので北湖と南湖に分かれたうちの小さい方……南湖の遊覧が精一杯だった。なるほど、これは泊まり込みの学習船じゃないと児童に郷土の全貌を示すことは難しいだろう。



外輪船ミシガンは大津市との姉妹都市、アメリカはミシガン州にあるランシング市との交流がきっかけで1982年に就航したそうだから来年で40周年になる。遊覧船だからステージで歌謡ショーが華々しく繰り広げられる。琵琶湖は世界で10か所ほどしか確認されていない古代湖のひとつで、約400万年前に現在の三重県上野盆地あたりに生まれ、あいつぐ地殻変動で移動して約40万年前に今の場所にやってきたという。滋賀県の児童みんな知ってるんだろうか。



さようならミシガン号。せっかく来たから湖だけでなく陸もちょっと巡っていく。琵琶湖ホテルに宿泊し、夏の特別企画で坂本の町をホテルの人が朝から案内してくれる半日ツアーに参加してみた。いつも一人歩きばかりだから、たまにはそういうのもいいんじゃないかと思って翌朝ロビーに集合し、京阪電車石山坂本線に乗って坂本比叡山口駅へ。以前この駅で降りたとき目に入らなかったものがあった。



改札を出たところにある、「我が国最古の茶園」……比叡山延暦寺の開祖、最澄が入唐した際に天台山から茶の種子を持ち帰り、延暦24年(805)山麓のこの地に植えたことから日本茶の発祥の地であると立札に書いてあるのを読んで、あれ? 日本に茶を伝えたのは入宋して禅をもたらした臨済宗の開祖、栄西(1141―1215)だと何かの本で読んだことがあるぞ。最澄だと200年ぐらい早くなっちゃう……植えたけど生育しなかったのかな? などと考えつつ、案内の人について歩く。



その最澄が生まれた地と伝えられる生源寺に、白い提灯がたくさん。8月18日が最澄の誕生日だから仕度してあるという。念のためWikipediaで最澄の誕生日を調べたら、767年9月15日とあった。境内にある産湯を使ったという古井戸も含め、伝説だからと深く考えないで歩く。坂本は石積みの町とも呼ばれているそうだ。明智光秀がこの町を作ったとき、織田信長の安土城の石積みをした穴太衆(あのうしゅう)を使って自然の石を積ませた。穴太(あのう)という駅をさっき通ったけど、そこに職人が住んだのか。



石積みのある道を歩いて、滋賀院門跡へ。天台宗のトップ、天台座主を江戸時代は皇族が代々つとめたが、その居所がこの門跡。お寺のようでも、坂本の町にあるのはお坊さんの住居である「里坊」がほとんどで、この門跡も里坊。お寺は山にある。織田信長が比叡山を焼いた際には、お寺も焼いたし山坊も焼いた。それで仕方なくお坊さんが坂本に下りてきて、里坊で暮らすようになったという話を聞いて、それは仕方なくではなく世俗化してるから喜んで里に下りてきたのではないかと余計なことを考えた。



仏教の一大中心地、比叡山延暦寺の天台座主を皇族がつとめた江戸時代には、それだけ仏教と皇室のつながりが深かったけれども、明治政府が神仏分離を命じて廃仏毀釈が起きてから、皇室は国家神道との結びつきを強めていった。明治、大正、昭和の天皇が火葬ではなく土葬されたのもその影響だけど、先代の天皇は火葬を希望しているそうだ。そんなことを思い出しながら、滋賀院門跡に入ってお坊さんの話を聞く。比叡山延暦寺と同じ仏具・法具のセットが里坊にもあるから、ここで座主は山と同じ仕事を行うことができる。



写経をした。この門跡を建てた天海が徳川家康の知恵袋として戦場に同行した際、武将ばかりの中で1人だけ袈裟だと都合が悪いというので着用した鎧兜を見た。実戦に使うわけではないから紙ばかりで軽く拵えてあり、金ピカだった。天海は明智光秀だという説があるけれど、紙の鎧は着ないだろうから明智光秀ではなかったか紙の鎧が天海のものでないか、どちらかだろうと思いながらお坊さんの話に耳を傾けた。座主の接見の間に麒麟の絵があった。2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』で坂本が賑わうかと思ったら、コロナ禍でそうでもなかった。



滋賀院門跡の奥の慈眼堂(江戸初期)は、天海の廟所だけど、いろいろ有名な人の供養塔もある。写真は順に、清少納言、和泉式部、紫式部の供養塔。この3人では清少納言の塔がいちばん立派だったが、隅の方に並んでおり、目立つ場所にはさらに大きく、桓武天皇、後陽成天皇、水尾天皇などの供養塔もあった。どうしてここにあるんだろうと思わないこともなかったけど、深く考えないで日吉大社のほうへ引き続き歩いた。ここは以前にも来たことがある。



普段は公開してないという七つの神輿を見せてもらった。祭のとき山の上まで担ぎ上げ、駆け下りて琵琶湖に入るそうだ。それは荒っぽい。



西本宮から東本宮のほうへ回って日吉大社をあとにするとき、ふりかえると猿石があった。前に来たときは素通りした。しゃがみこんだ猿が見送っているような形だというので、よく見ると……見える。私にも猿が見えるぞ。そこから比叡山坂本ケーブルの乗り場まで案内してもらってホテルの人と別れ、ケーブルカーで比叡山延暦寺に上る。このケーブルカーは日本一の長さだと車内で戦国バサラの声優さんがアナウンスしていた。



山の上から琵琶湖をのぞむ。泊ってるのは、あそこだとか見分けがついた。比叡山、夏は涼しくていいけど冬は寒くて修行がつらいことだろう。織田信長に焼かれた後、明智光秀が開いた坂本の里に下りてきた僧の気持ちを想像した。わかる……ありありと私にもわかるぞ。



根本中堂に来るのは十ウン年ぶりだが、2016年から十年間の予定で大修復をやっていた。瓦をどけた屋根などが見学できるようになっている。しかし、私などには見て面白いものではない。撮影禁止の堂内に、1200年絶えることなく灯っている「不滅の法灯」が3つ、うす暗く光っていた。確かに、あれと同じもの(より古いもの)が滋賀院門跡にも灯っていた。お坊さんの話では、比叡山の焼き討ちの時に法灯の火が消えたけど、山形の立石寺と岩手の中尊寺に比叡山の火が分けてあるので、立石寺から種火を運んで延暦寺に点したそうだ。



比叡山をひとめぐりして、またケーブルカーで坂本に下りる。歩き回ってけっこう疲れたので、京阪電車でホテルに戻ってゆっくり休んだ。滋賀院門跡でもらった封筒をあけたら、写経奉納の御朱印と、写経代の領収証がきっちり入っていた。比叡山延暦寺の根本中堂保存修理事業事務局が発行したものだった。財務に明るい人であれば寄付金として税の負担を軽くするのに有用なのだろう。御朱印のほうは、たまにしか持ち歩かない御朱印帳をひらいて糊づけした。




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上野国府とその周辺

2021-08-08 | Weblog
毛の国こと上野の国府の近くに総社と国分寺・国分尼寺が固まっている……ように見える、古い本の略図を頼りに
そのあたりを歩こうと思った。ネットで総社神社のアクセスを調べると、新前橋駅から徒歩15分、前橋駅からバス
15分と出て、この暑いのに徒歩は危険だからバスで行くために前橋駅へ。(東京オリンピックの男子マラソンで、
札幌の会場をその日の朝106人の選手が走りだし途中棄権30名という気の毒すぎる酷暑なので)



総社だけあって毎年1月14日・15日の夜中に筒粥と置炭の神事が行われる場所で、うらないの結果で五穀をはじめ
作物のその年の作柄と毎月の晴雨が表にまとめられて拝殿の東側に掲げられると古い本(1976年刊・群馬県の歴史
散歩)に書いてあるから、前橋駅の観光案内所で聞けばわかると思った。「総社に行きたいんですけど」と言うと
おばちゃん達が「そうじゃ?」と騒ぎだし、「国分寺跡があるところです」と付け加えたら、「国分寺は今は高崎
(だから前橋の管轄じゃない)」と訴えだした。国分寺跡が移転するようなことはないはずだけど、管轄が変わる
ことならあるかもしれない。バス案内所で尋ね直すと、総社を通るバスが2時間に1本ぐらい出るそうだ。



なんか変だと思って本を調べる。総社と国分寺は2kmぐらい離れているので、それくらいギリギリ歩けるだろう
と思ったんだが、あまり歩く人がいないらしい。どっちも前橋市内みたいなんだけど国分寺のほうは高崎市寄り。
11時10分に6番乗り場を出る新前橋行きのバスで総社神社へ。なんだ、新前橋駅からでも行ける(その方が近い)
じゃないか……。地元では明神さまと呼ばれてるそうで、明神前バス停で降りると総社の裏側だった。表に回って
撮ったのが上の写真。



ついでなので絵馬をながめる。聖武天皇10年に上野国内の名社549社を勧請して上野の総社としたそうだけど、
平安初期の成立とみるのが妥当だろうと例の本に書いてある。だったら国府や国分寺・国分尼寺よりずっと後の
創建だ。ここを起点に歩くけど、歴史的にはおまけ。絵馬には、「どうか今度こそ普通の人と出会えますように」
とか何とか記されている。これまで、普通じゃない人とばかり出会ってきたんだ。異常な人、または変態ばかり
と出会ってきたのか。大変だなあ。



それはともかく上野国府跡を探して歩く。毛の国は古墳が多い。このあたりが大和朝廷の前線基地だったからで、
関東の中心と見ることもできるが朝廷から見ればフロンティアでもある。大化の改新の直後、645年の8月1日に
国司が任命された上野国府は時代により多少の移動があったと考えられているせいか、地図で見るとかなり広い
範囲に描かれている。対照的に、小さな遺跡が旧総社神社の場所にポツンとある。旧総社神社の社殿は、現在の
社地から西北およそ200m。そこまで歩くだけでも、異様に汗が流れる。熱中症になりそう。



唐の律令制の国郡制にならって上野国の国府が置かれたのは、この元総社町のあたりと推定されている。711年
に新設された多胡郡が加えられ、日本三碑のひとつに数えられるという多胡碑(=上野三碑のひとつでもある)
はその記念碑だった。国分寺や国分尼寺より、上野国府は古く、もちろん総社より古い。遺跡が小規模なのは、
939年に平将門がここに攻め込み「新皇」を名乗ったから。その時点までは、関東の中心と目されていたのか。
1180年に足利利綱という土豪が国府を焼き払った。それから江戸時代まで荒れ果てたまま。



ここから国分寺跡まで、猛暑の中を2km歩かなくてはならない。飲み物を持ってくることを忘れた。コンビニ
か自販機があれば水分補給しようと思ったんだが、荒れ果てたまま……は言い過ぎで野原と住宅地しかないので
関越自動車道に出るまで、都合1時間ほど何も飲まず歩いた。セブンイレブンでアイスコーヒーを水筒に詰め、
はま寿司(回転寿司チェーン)で昼ごはんを食べて、13時すぎに再び歩きだした。



国分尼寺は、はま寿司の近くにあったようだけれど、ほとんど何も残っていないようなので素通り。もっとも、
国分尼寺と国分僧寺をセットで国分寺と呼ぶのが元々だから、いまある国分寺跡はいわば国分僧寺の跡になる。
国分寺のほうは遺構の一部が修復されて、見学者が利用するための駐車場などもある。徒歩だから関係ないが、
それでも駐車場を見ると期待感が少し高まる。



夢殿みたいな建物は、ガイダンス施設「上野国分寺館」……暗いので新型コロナまん延防止等重点措置が当日に
発出されたことを思い出し、臨時休館してるんじゃないかと思ってダメもとで入口を見に行ったら「開館中」と
表示してある。入場無料。この施設は例の古い本に載ってない。1980年〜88年と、2012年〜16年の発掘調査
の成果をふまえて建てられたんだろうか。ちょっと入ってみよう。



常駐のおじさんが約10分のビデオを上映してくれる。「30年前のビデオですから、国分寺の創建を1240年前と
アナウンスしているのはプラス30年して今から1270年前と思ってください」と言い残した。どっちでもあまり
変わらない気がしなくもないが、ざっくり1300年前じゃなくて「1270年前」とはっきり記憶してしまったから
やっぱり意味があったかも。



しかし、1280年前だったようだ。ビデオは40年前のものだったのか。聖武天皇が国分寺創建の詔を発したのが
741年。それからまもなく、全国でも早い段階で上野国分寺が建立された。749年に石上部、上毛野の両氏から
上野国分寺に献物されたことが「続日本紀」に記されているから、それまでに完成していたことになるという。
そういうものなのか。歴史の考証は大変だな。だったら1270年前で合ってるかも。



模型の左側にあった七重塔の、礎石などが見つかった場所に基壇が復元されていた。心礎を含む15個の礎石と、
土壇の高まりが残っていた。礎石2個を追加し、基壇外装の切石を並べて往時の姿に整えたとのことで、初層の
柱と柱の間は12尺等間で一辺10.8m、高さ60.5mあったと推定されている。全国最大規模だとか。といっても
感覚的によくわからないけど……。



ガイダンス施設の中に1/20スケールの模型があった。前橋市役所と同じくらいの高さがあり、高崎市役所?
ができるまでは群馬県内でいちばん高い建物(のイメージ)だったそうだ。



これでわかるかな? ちょっとわからないかな? 安土城の礎石がこんな感じだったような気がするんだけど、
確かなことはわからない。上野の国分寺(国分僧寺)はおよそ200m四方で、その西側に七重塔が建っていた。
つぎの航空写真でぼくがムラサキにマークした2か所のうち、左側にあるほうが七重塔の基壇。



もうひとつ、中央にあるのが講堂の基壇で、これは金堂と思われていた(例の古い本にもそう書いてある)。
しかし今世紀の第2期調査で、本来の金堂が確認されたことから講堂であったことがわかった。発掘調査も、
文献調査に負けず劣らず大変だな。講堂の跡には8個の礎石と土壇の高まりが残っていた。それだけで復元を
しようというんだから、やっぱり大変なことだ。



これが講堂の基壇。750年ごろにはピカピカの最新設備だった上野国分寺も、250年後の1000年ぐらいには
ボロボロになってしまい、築地や門がなかったという。平将門がぶっ壊したかもしれないし、それ以前にもう
ぶっ壊れてたかもしれない。それでも金堂はかろうじて残っていたとか、塔や講堂もあったとかなかったとか
いう話だけど、1300年ごろには何もかも滅びて国分寺跡には何もなかった。礎石と土壇の高まりぐらいしか、
ここにはなかった。そう考えると、現在とほとんど一緒だった。



関連記事:   上野三碑
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軍艦島

2021-08-01 | Weblog
日本で初めて鉄筋コンクリートで建てられた高層アパートは長崎の軍艦島にある
30号アパートだという。1916(大正5)年に出来た。なぜ首都でなく孤島なのか
というと、そこで掘る石炭のために鉱員を住まわせる必要があったから。



軍艦島デジタルミュージアムの模型はこんな具合で、7階建てビルの吹き抜けに
廊下と階段があり、地下には売店があった。人口密度は世界一。テレビの普及率
が全国平均10%のとき、軍艦島の家庭は普及率100%だったというから炭鉱員は
裕福で、当時の最先端の暮らしを享受した。



屋上で遊ぶ犬や猫や子供たち。島は南北480m、東西160m、周囲1200mぐらい。
せまい陸地に最盛期は5000人以上の人が暮らし、東京の9倍の人口密度があった。
それは屋上で遊ばないわけにいかない。後には屋上菜園も作られた。



別の模型では、こんな感じ。日本最古の鉄筋コンクリート住宅、30号アパートの
もっと手前にはプールもある。台風がくると大波に洗われたり、崩されたりした。
ここへ船に乗って行こうというのだが、午前便は風雨で欠航となり、午後便まで
ミュージアムでも見物するしかない。



本当の名前は端島という、いかにも取るに足らない感じ。石炭めあてに人が密集
すると、ちっぽけな陸地を人が拡張して住み始め、軍艦のような姿になったから
軍艦島という。なんとなく、東京湾の海堡みたい。海堡づくりの技術を生かして
つくられた島ではなかろうか。



ゆるキャラの、ガンショーくんが出てきた。ガンショーくんの頭に乗ってるのが
軍艦島で、海上わずかに突き出た岩礁を利用して陸地を広げていった。その部分
が東京湾の海堡に似てるので、いちばん下にリンクをはる。



午後便はどうにか運行するようだが、それまで時間がたっぷりあるので、鉱員の
かっこうしてみた。高層アパートに住んで、缶ビールを手にしている。おそらく
これで豊かな生活。それも長くは続かず、やがて誰もいなくなった。



軍艦島に行く船は、右手の小さいやつかと思ったら、さすがにそんなことはなく
左手の大きめな白い船だった。それでも長崎港から約18㎞の沖合は、外海なので
船が揺れる揺れる。午前中の悪天候の余韻もあって、人が酔う酔う。



自分は船酔いに強いほうなのだが、それでも下船したあとは何だか気分が悪くて
皿うどんぐらいしか食べられなかった。それから何となくバランスを取るために
カステラも喉を通しておいた。長崎は異文化の窓口なのに食べ物が派手すぎず、
地に足がついた感じでホッとする。



船のモニターでいろいろ説明がある。海上にぽつんと描いてあるのが軍艦島で、
石炭はそこを掘るのではなく、もっと下のほう……海底のその下を斜めに掘って
掘って掘りまくる。そうやって黒いダイヤこと石炭を手に入れる。



軍艦島が見えてきた。波がやっぱり陸を洗っている。これで上陸したら流されて
石炭になってしまう。しまわないか……霊感があったら、あそこにもあそこにも
見えないものが見えそう。自分にも見える気がする。



寒けがしてきたし、何だか帰りたくなってきた。沖合18㎞だから片道1時間近く
かかる。往復2時間、揺れに揺れる船で見えないものを見ないように辛抱して、
陸に上がって皿うどんとカステラでバランスを取った。


関連記事:   東京湾の第二海堡
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