散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

大深山遺跡

2021-01-30 | Weblog
武蔵国・信濃国・上野国の境界にそびえる三国山の向こう側(ウチから見た場合)にある長野県の
川上村はその名の通り千曲川の源流を擁する標高1100mぐらいの高地だ。そこからさらに約200m、
山を登ると縄文時代の集落跡がある。つまり標高およそ1300m、そんなところにまで縄文人は集落
を作って暮らした。縄文中期の集落跡としては日本一、高所にある大深山遺跡だ。



そこへ行く前にちょっと川上村文化センターに寄った。体育館みたいなこの建物は村の教育委員会。
2階に上がると旧石器時代から近現代までの川上村の歴史展示がある。大深山遺跡などで出土した、
縄文の土器を見ておこう。



いままで気づかなかったのが不思議なくらいだ。どこへ行っても遺跡や遺物には地元の教育委員会の
立て札があり、そこに解説が記してある。ということは散歩ブログのネタ探し、もっぱら教育委員会
を利用すればよいかもしれない。マウンティングばかりしてそうなイメージがあるけど、専門知識の
持ち主は礼をつくせば親切に対応してくれそう。



巨神兵、長野に現る? この土器は長野県宝となっているけど用途は何だろう。香炉だといわれたり
ランプだといわれたりしてるそうだけど、どちらにしても「顔面」をかたどったものであることには
変わりないはず。こんなに顔面っぽいのが偶然であるわけがない。



もっとも、ランプだとしたら目玉のほうではなく、こっち側が「前」ってことになるらしい。それは
どうなんだろうか。凝った作りなのは目玉がある側なんだから、そっちが「前」なのでは? しかし
蚊取り線香を中で炊くのにちょうどいい。こんなものが、ほぼ完全なかたちを留めて大深山遺跡から
出てきたという。



ではさっそく山を登って標高1300mの遺跡へ。竪穴住居が50か所(それぞれ年代は異なる)、その他
数万点に及ぶ土器や石器が出土したそうだけど、ほかの遺跡がそうだったように埋め戻されて空き地
のようにしか見えなかったら淋しい。



どこで何が見つかったか、木の杭にちゃんと書いて地面に刺してある。黙而雄、黙而雄とつぶやいて、
専門職の人が調査・保全に努めているらしい。手前に刺さった杭のところで人面の土器が見つかった。
あんなもん出てきたらギョッとしそう。何のつもりで縄文人あれを作ったか。



竪穴住居が2つ復元されていた。寒かっただろうな縄文人。だいたい標高が100m上がるごとに気温が
0.55℃から0.65℃下がるそうだから、海のそばで暮らしてた縄文人に比べてこのへんの縄文人は冬とか
つらそう。



竪穴住居の中に入ることができた。カマドが復元されている。ここに土器を据えてクリとか煮炊きして
食べたのだろうか。冬はジビエとか捕獲して食べたのだろうか。春は山菜とかアク抜きして食べたのか。
夏は魚つって食べたのか。どうなんだ。答えはない。



遺跡の端なのか、それとも遺跡の中なのか。「川上村遺跡マレットゴルフ場コース案内図」ってことは、
遺跡の上でマレットゴルフやってるんだろう。マレットゴルフは木槌(マレット)で行うゴルフ競技で、
日本発祥らしい。やったことないけど面白いのだろうか。




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井戸尻遺跡

2021-01-23 | Weblog
縄文人というと黒耀石のやじりを使った弓矢でケモノを獲って食べていたイメージが
あるけれど、いまの長野県や山梨県あたりの縄文人は動物より植物を多く食べていた
らしいことが井戸尻考古館の展示をみるとわかる。



こういう飛び道具を使うのが縄文人の賢いところで、旧石器時代の人と違う特徴だと
聞いていたから、さぞかし狩りに励んでいたかと思いきや、実際そうじゃなかった。
ちなみに縄文人は磨製石器を使うから、新石器時代の人らしい。



なぜ狩りばかりしてなかったかという物的証拠がこれ。黒耀石のやじりに似てるけど、
飛び道具にしては少し変だ。こんな形の武器は見たことがない。武器じゃなかったら
何なのか……ヒントは東南アジアの農具にあった。



爪鎌という、手作業で稲を刈りやすい形にととのえた農具に縄文人の石器が似ている。
農具をもって雑穀や堅果の取り入れをしていたのではないか。そうしたことを井戸尻の
展示は物語っていた。



磨製石器を使った農具が、鉄器の農具と同じように使われていた。新石器時代人は……
縄文人は定住して農耕に励んでいた。環状列石のようなものを作るきっかけも農耕だ。
そういわれると、そうかもしれない。



先っちょだけ見てると何に使うかわかりにくい石器も、こうして農具として並べると
なかなか便利そう。石器が進化したこと、それと土器で煮炊きして何でも食べられる
ようになったことが縄文文化を支えたという、



旧石器時代の人は鍋……もとい土器を使わなかったのだろうか。新石器時代の農具が
いまのと似てるように、土鍋で調理する縄文人の食事もいまと似てる。生活にゆとり
があったのか、装飾がいまよりも凝ってるくらいだ。



奈良・平安時代にも庶民はこういう家に住んでいたというし、囲炉裏なんて現代人も
あこがれるし、鍋がちょっと深すぎるのが現代とちがう。遊び心は縄文人のほうが、
もしかしたらあるかもしれない。



バリエーション豊かな土偶をみるにつけ、近頃のアートは型にはまっとるんでないの
と縄文人が首をかしげてもおかしくない。そんな気がしてる。



水煙土器にいたっては、実用性を考えるとやりすぎでないのと感じてしまうくらいに、
5000年かそこら前の人たちは遊び心が旺盛だ。貧富の差も身分の違いもない世の中で
宗教的なリーダーがいたわけでもないのに造形がすごい。



これが黒耀石。これを産する地域の縄文人、これを手に入れるネットワークを有する
縄文人にはアドバンテージがあった。せっせと磨製石器を作る一方で、切れ味のいい
農具や飛び道具を黒耀石で作ることができた。長野県の人にいわせると、縄文時代は
まちがいなく長野が日本の中心だった。



さらに作業台にちょうどいい扁平な岩がたくさん手に入ることも、長野を先進地域に
したと長野の人は誇る。平らな岩を見つけることが他の地域では困難で、探してみる
とわかるが黒耀石を加工したり磨製石器を仕上げるのに適した台座がなかなかない。
このことも長野を縄文文化の中心地にしたと、長野の人は胸を張る。



それで暮らしに余裕ができて、ややこしい土器や土偶を作る遊び心が生まれたのか。
ミステリアスな模様が刻まれた筒形の土器が出土した場所を見物しようと、藤内遺跡
を訪ねてみると、この通りじつに何にもない。



尾根の上の風光明媚な場所で、近くに川が流れて水が得られる。やや傾斜はあるけど
平坦な土地で、戦後に開拓地として手が入ると異物がいろいろと発見された。しかし
ただの空き地にしか見えない。



近くの尾根の居平遺跡にも寄り道する。何にもない、何にもない、本当に何にもない。
縄文遺跡の眠る場所がこういう何でもない場所だということは、何でもない場所からも
これから遺跡が出てくるかもしれない。



日当たりはいい。風の通りもいい。高台だから水はけもいい。川が近いから飲み水とか、
煮炊きの水に不自由しない。どうってことないけど住みやすい土地だったかもしれない。
いまは人がたくさん住むような場所じゃないけども。



畑を耕したら、こういう黒耀石のナイフのようなものや、縄文土器の破片が出てくると
地元の人が玄関先に無造作に転がしてるのを見た。そういうつもりで見ないと見逃す。
そう思った。

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阿久遺跡

2021-01-15 | Weblog
そうそう、こういうのが見たかったのよ。昭和50年から53年に発掘されて、54年に国史跡に指定された
阿久遺跡は長野県諏訪郡の原村にある縄文遺跡で、環状集石群の長径は120m、短径は90mだから、ほぼ
30m幅のドーナツ状に石が並ぶ。



ここがすごいのは縄文時代の前期に集落がどのように発展したか、その経過をたどることができる点だ。
現地に掲げてあるパネルを見ればわかる通り、はじめは住居だけだったが、その後(たぶん上の層には)
方形柱穴列が加わり、つぎに土壙群が加わり、さいごに立石・列石や環状集石群が加わる。そうやって、
縄文時代の集落がだんだん大きくなっていった。



住居はもちろん竪穴住居で、そのあと加わった方形柱穴列というのは倉庫なんだろうな。クリとかシイ
の実などを貯蔵したのだろうか。なかなか勉強になるパネルだ。つぎに加わった土壙群っていうのは、
このまえ訪ねた金生遺跡にもあったけど墓石のようなものだ。



右上の写真が土壙。そして立石、列石、環状集積は大湯遺跡や金生遺跡にもあった。ああいう環状集石
は最初からあったわけじゃなくて、精神的な拠り所としてだんだん形作られてきたものだった。なんと
わかりやすい遺跡だろう。



中央自動車道の工事で発見された阿久遺跡は、発掘が行われて国史跡に指定された後、自動車道を通す
ために再び埋め戻された。その気になれば未来の人が発掘調査できるように。そして埋め戻した土の上
に中央自動車道を通した。だから道路が原村で少し高くなっている。



現地のパネルによるとこんな具合だ。ドーナツ状の縄文遺跡を埋めた上をクルマがびゅんびゅん走る。
ほとんどの人はそこが遺跡だとは思いもしないだろう。



あのトラックの人も、ここが縄文人の集落だったとは気づかないで通り過ぎていく。遺跡だって気づく
ほうが、むしろどうかしている。盛り土の上に林があり、片隅にパネルが立っているだけだから。




関連記事:  金生遺跡
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金生遺跡

2021-01-09 | Weblog
秋田でこの前みた大湯環状列石にくらべ山梨にある金生遺跡のほうが密なぶん環状とわかりやすい。
縄文時代の配石遺構や住居址群が公園として開放されている。発掘して配石し直してあるそうだから
ここがそうなら秋田の大湯の遺跡もそうなのでは? 何千年も埋もれず野ざらしのわけがない。



いまの感覚だと住居から離れたところに墓地をつくるけど、縄文人は住居のすぐ前に墓地を構えて、
祖先とのつながりを常に感じていたらしい。1万年以上も続く縄文時代の、少なくとも後期の遺跡は
そうなってる。このように家の真ん前に墓がある。ということは大湯の遺跡も墓だったのか?



日本人の心性として祖先の霊は里山に入り、お盆に下りてくる。やがて神になるというのがあるけど
いつも近くにいる縄文人の霊はそこに留まったままなのか? それとも配石が黄泉の入口なのか。


いちど埋葬して、しばらく経って霊(または神)になったら再葬していたという話もある。だから
かどうか、この配石遺構には石棺があったり石棒があったりする。



これが石館で、実際は土中にあり目印になる岩をずいぶん遠くから運んできて土の上に乗っけた。
ちょうど墓石のように。だから石棺はこのような野ざらしになっていない。



石棒があり、周囲に丸石がある。北杜市考古資料館で300円はたいて買った『祈りの風景〜北杜の
石棒と丸石〜』というパンフレットによると、石棒は男性器の象徴であり、丸石は女性器の象徴。
死者を葬り誕生を祈る祭祀の施設が金生の配石のようだ。


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大湯環状列石

2021-01-01 | Weblog
2020年、「うちにいろ(Stay Home)」から一変「旅行に行け(Go Toトラベル)」と要請した政府にあきれながら
「それなら人のいないところ、密にならない場所へ行こう」と考えた私は、秋田県鹿角市の大湯ストーンサークル館を
10月に訪ねようと秘かに狙っていたのですが、突如いわきに出張することが決まって断念しました。



11月になったら寒そうだから来年にしようと思っていたのですが、また政府が一変して「旅行へ行くな」と言い出す
かもしれないので、行けるうちに行っておこうかと大湯環状列石のことを調べてみると、冬季は閉鎖されるらしい。
11月末日までは見学できるけれども、積雪したら閉鎖になる。11月初めに雪がちらついたけど積もらなかったから、
後日ダメもとで出かけました。



暖冬最高。とはいえ吹きっさらしの秋田はさすがに寒い。岩手の盛岡から1日に数本しかない花輪線の列車で往復
しようと思ったら早朝に盛岡を出ないと危ない。そこで盛岡にわざわざ1泊し、朝6時55分の列車で2時間あまり
運ばれて9時14分に十和田南駅で下車しました。タクシーに15分ぐらい乗り、ついたところは原っぱ。



館のおじさんに聞くと現在、公開しているのは原っぱの向こう(300mぐらい先)にある万座環状列石と、道路を
はさんだ野中堂環状列石の2つで自由に見学していいという。吹き荒ぶ風の中を歩いて万座環状列石に近づくと、
近すぎて何だかよくわからないので離れることにしました。



イメージしていたより平べったい。もうちょっと柱状の巨石が環状に屹立する光景を思い浮かべてここまできた。
にもかかわらず、地べたに石が転がしてある。この程度なら現代人が町おこし村おこしの目的で力を合わせても、
環状列石ぐらい何とか作れそう。いちおう縄文時代後期(約4000年前)の遺跡みたいです。



川原石をさまざまに組み合わせた配石遺構を二重の環状に配置した構造で、万座環状列石の最大径が52mあり、
野中堂環状列石の最大径が44m……なるほど冷静になってみると「環状列石」としか呼んでおらず、柱状だとも
巨石だとも称していない。石ころが環状に並べてあるから環状列石、どこにも嘘はない。



ストーンヘンジとも呼んでおらず、あくまで大湯ストーンサークル館だから看板に偽りがないことは確認できた。
またひとつおりこうさんになってしまいました。それにしても現代人は、じゃなかった縄文人はどうしてこんな
輪っかを石で作ったんだろう。観光客の誘致のためじゃないとしたら、他に何が?



1mぐらいの高さの台があったから、上に乗ってみたら視界が開けるかと思って乗ってみたらこんな感じだった。



あとで写真をつなげるかもしれないから、右から左へレンズを動かしてパノラマっぽく撮ってみたけどつなげる
ことは結局なかった。だんだん帰りたくなってきた。



さっきバス停があったから時刻表をチェックしたら、鹿角花輪駅まで行くバスが10時にあった。その次のバスは
12時55分、つまり約3時間後。いくら急ぎの用がない旅だからって、ここに3時間いるより10時のバスで人が
密な場所に移動した方がいいと思いました。三つの密って素晴らしい。



その前に、野中堂環状列席をいちおう見ておきました。まだバスが来るまで15分ぐらいあったからです。そして
満足したので、あとでパノラマっぽくするかもしれないと思って左右にレンズを動かして写真を撮っておきます。
パノラマにすることは結局ありませんでした。



10時のバスに乗れば10時半ごろ鹿角花輪駅につき、1時間後の花輪線に乗って13時30分ごろ盛岡に戻れるけど
乗り遅れると盛岡につくのが15時30分ごろになってしまう。この違いは大きいので、ひたすら帰ることばかり
考えてバス停に戻り、秋北バスを待つ私でした。



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