散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

東京の縄文人

2021-10-23 | Weblog
多摩ニュータウンを作ろうとしたら、こんな土偶が出てきたそうだ。建築や道路や鉄道の工事で
丘陵を掘ると貝塚が出てきて、住居や土偶や土器や石器が出土することがよくあり、関東や東北
に縄文遺跡がたくさんある。いくつか訪ね歩いたこともあるので、江戸東京博物館で12/5まで
開催している特別展「縄文2021 東京に生きた縄文人」をのぞいてみた。



だいたい見晴らしがよくて明るい、水はけがよい場所を好んで縄文人は暮らしていた。米作りを
するようになると水が豊富な場所のほうが都合がよくて低湿地にも住むようになって、縄文人が
住んだような高台には神が祀られたり、古墳が作られたり、仏寺が建てられたり、それらの上に
城が築かれることも少なくない。東京のようなところだと何かしら上にできている場合が多くて
集落跡など発掘されるのは奇跡ではないか。



5500年前の古地図を見ると関東平野の奥まで海がくいこんで、館林、古河、久喜、大宮、野田。
浦和、川口のあたりが海に面している。そういった土地の小高いところに縄文人が集落を営んで
いたのだろう。草加などは江戸時代には宿場町だけど縄文時代は海の中だった。東海道なんかも
おおむね海の下だったように古地図では見受けられる。海岸線がずいぶん後退した。



これまで縄文時代の塩づくりは、海水を煮て塩を得る方法が取られたと考えられてきたけれども、
海藻を灰にする藻塩法という技術が用いられていたことがわかり、縄文時代中期の後葉には藻塩法
で効率よく塩を得ていたのではないかという展示があった。漆器はあるし藻塩法は使っているし、
穀物は栽培しているし、土鍋で煮炊きしているし、おいしいものを食べて豊かな暮らしをしていた
んだなと、家賃も税金もない太古の江戸っ子がうらやましくなった。


関連記事:   是川縄文館
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新東名高速

2021-10-17 | Weblog
GoToトラベルキャンペーンが裏目に出て新型コロナの感染爆発がおこり、今年ずっと死んでいた
旅行業界がこの10月に自粛要請を解除された結果、どれくらい賑わいを取り戻したか興味があり
ツアー情報をサイトで調べてみた。すると、数日間しか催行されない「工事中の高速道路に潜入」
という日帰りツアーがあって、面白そうだから申し込んだ。


8:15
上野駅の公園口に集合出発で観光バスがすべりだす。以前は駅の反対側から観光バスが出ていた。
コロナが感染爆発してるあいだ(第3波・第4波)に公園口のロータリーが整備されてバスの発着
場所がわかりやすく変化していた。添乗員さんの挨拶では、昨年GoToキャンペーンが中断されて
以来これが4回目の乗務で、ずっと仕事がなくてドラッグストアのアルバイトをしていたけれど、
つらくて痩せたからジャケットがブカブカですみません。



9:12
うとうとしていると海老名のサービスエリアについた。東名高速道路が空いてるので休憩が長く、
のんびりサーティワンアイスクリームに着席してジャモカアーモンドファッジのスモールサイズ
など食べる。9:40出発。再度うとうとすると1時間弱で「沼津ぐるめ街道の駅竜宮海鮮市場」
にバスが着いて、あまりお腹すいてないけどお昼ごはんになった。



10:35
いま食べないと後できっと飢えるから、がんばって金目鯛釜飯御前たいらげる。箸袋に万葉の湯
と書いてあるので、完食後ぶらぶら施設を徘徊したら2階に温泉施設があった。沼津駅や三島駅
から竜宮海鮮市場までシャトルバスが朝2本、夕方2本ぐらい出ている。地元の人ならいいけど
自分がシャトルバスで万葉の湯に入りにくるチャンスはなさそうだ。11:45出発。



13:00
新東名に入り、今年4月に開通した新区間(新御殿場ー御殿場)を通行して、道の駅ふじおがわ
でNEXCO中日本の先導車と合流して本日最初の見学地、湯船原トンネルの工事現場へ。1.6km
ほどのトンネルは岩盤を掘削するなら2年ほどで貫通できるそうだが、富士の噴火の堆積物から
なる地層を掘り進む湯船原トンネルは2017年に掘り始めてまだ途中……岩盤に穴を開けるよりも
柔らかい土を固めながら掘るほうが大変なのだ。



13:10
ヘルメットとベストと軍手を借りて入坑し、600mほどゆっくり穴の中を歩きながら説明を聞く。
事故などがあったとき並行する上りと下りのトンネルを往来するための避難連絡坑(普段は扉が
閉まっているので自動車から気づかれにくい)を通り、工事の手順の解説動画など見せてもらう。
固めながら掘るなんて、矛盾のようなもの。岩盤掘削であれば1日4mぐらい進むこともあるけど
湯船原トンネルは1日1mずつ、着実に固めながら掘っている。



14:10
あんまり中の写真を撮らない(というか載せない)ほうがいいみたいなので、坑内の様子や工法の
ことはこれぐらいにして、雨ガッパのまま観光バスに戻って次の見学場所に移動する。トンネルの
つぎは高架橋、ユニークな作り方をしている柳島高架橋だ。ダムを作るときに使うインクラインを
設置して道路工事をしている。なぜなら作業用の道路を作れない場所だから。



14:25
2tトラックやタンクローリーが上がっていくには急すぎる道しか作れないので、エレベーターと
エスカレーターとケーブルカーを足して3で割ったようなインクラインを作業のために築き上げ、
上まで工事車両を上げちゃう。工事が休みの日を利用して、特別に見学の人を上まで上げちゃう。
工事現場では傘が使えないので、雨ガッパは主にこの見物のために着用している。



あの水色っぽい台座に2t車やタンクローリーを乗せて、1日40往復ぐらいしている。工事完成
が見えてきた現在までに、3万往復ぐらいしている。工事が終わったら大型車を上げ下げする必要
なくなるので、インクラインは解体して小型車が上り下りする作業道を敷設する。本日見学してる
新東名の区間は2023年度に開通予定ということで、本道のほかにも作業道を作ったりバラしたり
見えないところで手間がかかる。



65mぐらいの斜面をゆっくり3分半ほどかけて上がる。これは高所恐怖症の人にはたまらない。
上に着いてインクラインから現場に渡るとき、一瞬、下が見えて鳥肌が立ちそうになった。下を
見なければどうということはない。人は隙間をまたぐけど、大型車は下でインクラインに乗った
向きのまま3分半クラッチを切り、上でクラッチをつなげればタイヤで現場に渡ることができる。
とても便利である。



そのまま前進して右にハンドルを切れば作業道を上って高速道路の工事現場に行くことが可能。
合理的にできている。人間たちは作業道よりも見晴らしに興味をもち、案内の方にお願いして
記念写真を撮っている。確かに、こんなところ滅多なことでは上がれないし、開通までに解体
されちゃう現場だから恥を忍んで記念写真を撮ってもらう。背中を向けて。



あの橋脚も作りかけのときは人が上り下りするエレベーターがついていたそうだ。それを見た
地元の人はマンション建設の工事かと思ったという。この橋も時速100キロとかで走行すれば
2秒もかからずに渡り切ってしまう。果たして自分がクルマで通ってインクラインで上ったと
思い出す機会が一生のうちにあるだろうか?



見下ろせば、乗ってきた観光バスがあんなに小さくうずくまっている。高所恐怖症の人には、
きっとたまらない眺めだろう。これからインクラインで3分半かけて下まで移動して、バスに
15:20に戻って最後の見学地、中嶋高架橋まで移動する。10分ぐらいで着くらしいので、
やはり雨ガッパ着たまま。



15:30
完成した中嶋高架橋を自由に歩かせてもらう。その前にトンネルの上に歩いて登り記念写真。
もしも天気がよかったら、ここから富士山がバッチリ見晴らせるということでパネルを持つ。
東京から名古屋方面へ新東名高速道路を走り、中嶋高架橋を渡るとき、このような富士山が
見えたら「そういえば開通前にここへ来たとき雨降りだったなあ」と思い出す機会あるかも。
2023年以降だけど。



見下ろせば、もうあんなに人が歩いている。あっちは下りの車線で、名古屋のほうから東京へ
向かうクルマが通る。真ん中しか舗装してないのはどうしてだろう。質問してみたら、あれは
作業用の舗装路だから開通する前にすべて剥がし、ハイブリッドという水はけのいいアスファ
ルトをいまの路面より高く舗装するそうだ。なるほど、作業用だから真ん中だけ舗装してある
のか。公共事業って丹念に手間かけるんだなあ。



実際に歩いてみると進行方向に若干の傾斜があり、それだけでなく左右にも若干の傾斜がある。
左右の傾斜はクルマがカーブするとき走りやすいようにつけてあるのと、排水のための傾斜で
片側に水を集めて排水溝を流すようにしてあるという。古代ローマの馬車道も排水については
気を配ってあったらしいけど、左右の傾斜をつけてあったかどうか。気にしながら帰途につく
バスが16:05に中嶋高架橋を発車した。上野に19時ごろ着いた。
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日光街道

2021-10-10 | Weblog
徘徊の元祖で俳諧の本家の芭蕉の死後に刊行された『奥の細道』を先っちょだけでも感じてみようと
千住大橋にきてみた。この橋を渡ると江戸の外に出る、隅田川に初めて架かった橋。いまは南千住と
北千住のほぼ中間にあたる。つまり北千住あたりは江戸の外だった。日光街道の最初の宿場の千住は
この橋の両側に分かれていたようだ。品川、新宿、板橋とならぶ江戸四宿の一つ。



現在の千住大橋は昭和2年に架け替えられた鋼橋で、ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存最古の
例だそうだ。400年前はただ「大橋」と呼ばれ、いまの千住大橋にもただ「大橋」というプレートが
掲げてある。旅立つ前から「月日は百代の過客にして」とか何とか御託を並べつつ泣いてばかりいた
(と書いてある)芭蕉は、旧暦3月27日に門人の曽良をともなって深川を舟で発ち、隅田川を遡り、
千住でたくさんの門人に見送られて歩き出した。そのときも泣いたと、『奥の細道』に書いてある。
いつも嘘泣きばかりしている、やっかいな徘徊老人なのだった。



さて大橋を渡ると道が二股に分かれて、左へ行けば自動車がビュンビュン走る日光街道、右へ行けば
旧日光街道(イチニチ日光街道ではなくキュウ日光街道)だ。旧街道らしい幅の道がまっすぐつづく。
戻れば街道の起点、日本橋へ。進めば次の宿場、草加へ。とりあえず散歩は草加をめざす。芭蕉たち
は、さらに春日部、栗橋、古河を通って4月1日に日光へ。4月29日に郡山、5月1日に福島、3日
に白石、4日に仙台、8日に塩釜、10日に石巻、12日に一関に到着し、平泉の中尊寺や山形の立石寺
を経て6月1日に新庄、3日に羽黒山、6日に月山、13日に酒田、16日に象潟まで北上して引き返し
7月2日に新潟、4日に出雲崎、6日に直江津、15日に金沢、永平寺を経て8月12日に福井、8月末
に大垣に着いている、



その道のりは600里あまり(芭蕉は旅立つとき前途三千里と記したが、さすがに盛りすぎ)約150日
に及ぶ散歩だった。今日のところは草加までしか歩かない。旧日光街道を歩いて行くと北千住に着く。
旧街道沿いが商店街になっていて、飲食店なども軒を並べて賑やかだ。以前「大はし」という飲み屋
に寄ったときは気づかなかったけど、千住の大橋が店名の由来だったのか。大橋を渡って来た今なら
わかる。あとで「大はし」に戻ってこようかと思ったが、この土日は店が休みだった。



鴎外、森林太郎の旧居跡の碑があった。道中をちょっとはずれた場所。そもそも鴎外という筆名も、
人の暮らしをはずれた者という含みがあったと何かで読んだことがある。それでこんな江戸の外の、
道をはずれた寂しいところに、場末の色街から少し離れて暮らしたということだろうか。近いけど、
離れたというには目と鼻の先だけれども。この旧居のすぐ先に、前に来たことがある投げ込み寺が
あって「なんだここか」と思った。金蔵寺。なんだって鴎外の父はこのような辺鄙な土地に橘井堂
医院を開業したんだろう。鴎外、わざとではなくやむをえず橘井堂に暮らしたらしい。



日光道中(街道ではなく道中が正式な名称だそうだ)に戻って、本陣跡のちっこい石碑を北千住の
駅前に確認し、さらにまっすぐ行くと団子屋に人が群がっていた。かどやの槍かけ団子。やりかけ
=できかけをカジュアルに食わせる店かと思った。百円渡すと串団子を渡され、その場で食べて、
串を捨てる。並んでまで食べる気はしないけど人がそうしてるのを眺めて通り過ぎた。やりかけは
できかけではなく、松の木に槍をかけて休んだ参勤交代の逸話か何かが由来らしいけど、作り話だ
と思って詳しく記憶しなかった。



荒川の手前の安養院に、かんかん地蔵があった。足元に転がる石で、かんかん顔を叩かれて削られ
のっぺらぼうの顔なし地蔵となっている。恨みを込めて、かんかんやったと考えるのが自然だけど、
悪いところが治るように祈りを込めて、かんかん石で叩いたとか何とか……それじゃ、顔が悪かった
ということだろうか。顔がよくなるように地蔵の顔を石でかんかん叩き削る千住の遊女を想像する
のは結構こわい。恨みを込めてやったと考えるほうが、こわくない。



荒川を千住新橋で越える。この川は江戸時代なかった。明治になって水害がひどいので解決しよう
と約20年がかりで掘削した放水路、それが荒川。だから日光街道、日光道中はもともと陸続きで、
現在の荒川土手を斜めに横切るように通っていた。いまは仕方ないから荒川新橋を渡って、土手を
左にちょっと進んでから、元の日光街道=日光道中をみつけ、続きを歩く。



このように、どうってことない道路をひたすら北のほうへ歩いていく。道幅が旧街道らしく4間
ぐらいなので、実際にその場に行けば街道の感じがするけれど、写真に撮るとそこらへんの道路
と何ひとつ変わらない。10月というのにジリジリ日差しが肌を焼き、思ってたような快適な散歩
じゃなくなってきた。どうしてこんな何にもないところを歩いてるんだろう、という思いが頭を
もたげてくる。千住から、次の宿場の草加まで歩くつもりだったけど、やめようか……。



まだ竹の塚か。電車なら竹の塚なんてすぐなのに歩くと遠い。水泳選手の実家が営むもつ焼きの
店めがけて会社帰りに電車で寄ったの、いつだっけ……4年ぐらい前、取材する前か何かだった
かもしれない。そんなことを思い出しながら、ひたすら足立区を通る。こうして歩くと足立区は
広大だ。なかなか埼玉にたどり着かない。



途中、いくつか神社などに寄り道しながら日光道中を北上し、ようやく埼玉県に入った。草加。
せんべいで有名な草加。そして千住の次の宿場である草加。もくもくと歩き、道草を食いながら
宿場から宿場まで歩いた。南千住からだから、10kmぐらいだろうか。



浅間神社に寄って休む。神社は木陰に風が通るから散歩の途中つい寄ってしまう。ついでに絵馬
があれば見ていく。千住から草加にかけて、面白いことが書いてある絵馬はなかった。日光道中、
あまり絵馬のことは期待できないかもしれない。



秋まつりの支度をしていた。歩き疲れて、ぼんやり眺める。これという感想も浮かんでこないし、
写真に撮らなければ忘れていたのではないだろうか。



富士塚のまわりを一周して(登ることは禁じられていたので)日光道中に戻り、ひたすら草加駅
をめざす。駅前のコメダ珈琲でブログを書いて、電車で帰る。電車は便利な乗り物だと思った。

関連記事:    千住


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雑色から生麦

2021-10-03 | Weblog
道草を食うことにした。横浜に用があって乗った京浜急行の鈍行列車を、雑色で下車して道草を食う。というのも用があるのは午後なのに、いまは午前中。しかも土曜日で自由の身だから、見知らぬ土地のアーケードを物珍しく眺めて通り抜け、東海道本線と京浜東北線の線路を渡ると、そこから鉄道沿いに200mでタイヤ公園があるという杭があった。



なんだタイヤ公園って。民家の軒先と金網の間の路地をゆく。横浜の用というのは、みなとみらい線の馬車道駅に直結している新しい施設、ビルボードライブ横浜(2020年7月というからコロナ禍のまっただ中オープン)で、古内東子の歌を聴くこと。ニセO Lのおひとりさま土曜日の過ごし方のようなもの。ニセお局さまの休日みたいなもの。



幸せそうなお父さん、お母さんが、楽しそうな子供たちを見守る公園についた。タイヤ公園というだけあって、建設用の大型車両のタイヤから自家用車、2輪車のタイヤまで大小さまざまなタイヤに子供たちが戯れている。これはお子さまが喜ぶだろう。ニセO Lのおひとりさま=ニセお局さまは、休日のタイヤ公園をみてそんな風に感じたんだ。



やはりお子さまには建設用の大型車両のタイヤが人気あるみたいだと、ニセO Lのおひとりさま=ニセお局さまはタイヤの遊具を眺めながら、ひどく客観的なスタンスで考察するのだった。午後からライブを鑑賞する予定の古内東子の歌だったら、親子連れで楽しむあなたを昔からずっと奥さんより私のほうが好きだった的なおしゃれソングかな。



もう何も言えないけど好きよ大好きよ、ずっと…きっと彼女より的な情念の炎かしら。いつかきっと振り向いてくれる……そう信じてるとか、ずっと待ってるとか何とかストーカーっぽい気持ちに寄り添うみたいな巨大怪獣がタイヤを積み重ねて公園の中に黒く聳え立つ。この公園はおよそ3000個の黒いタイヤに取り囲まれているらしい。



なんというアイロニーかしら、タイヤの巨大怪獣までこの公園では親子で存在している。唯一の救いは父子家庭、または母子家庭のように大小2体のタイヤ怪獣しか存在していないこと。休日のライブハウスに古内東子を聴きにいくニセO Lのおひとりさま=ニセお局さまは、タイヤ怪獣が3体あったら何だかつらい思いをしそうだから。



建設用の大型車両のタイヤにすっぽり隠れてる、これがあなたと彼女の子なのね。彼女がいなくなったら私、きっとうまくやれる。そんな気がする。そんな気しかしない。彼女さえいなくなればなんて、こんなに人を好きになると自分がどうなるか最近わかったの。これ以上は危険だと思ったから、雑色駅に戻ってまた京急に乗車した。



京急鶴見で下車して、お昼ごはんをサンドウィッチだけで済ませて(ピチカートファイヴみたい……そうよ私は90年代入社組のニセおひとりさまO L=ニセお局さま)野宮真貴のように駅前の總持寺を見物しにいく。駅前と思ってなめてたら、けっこうな坂を上らないと總持寺にアクセスできなくて、秋なのに気温30℃もあって大変。



總持寺ってどこかで聞いたことあると思ったら、永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山らしい。福井の永平寺は行ったことあるけど、總持寺はこれが初めて。どうして本山が2つあるのか。石川にあった總持寺は明治31年に焼失して、明治44年に上京してきた。道元がせっかく権力から距離を置いたのに。この建物で検温を求められるので、検温してまでみる価値なし。然り、無なり空なりと観じて引き返した。



そしてまた京急に乗って、こんどは生麦で下車した。生麦といえば生麦生米生卵じゃなくて、幕末に生麦事件があった場所。イギリス人が馬で通るのを見た薩摩藩士が、けしからんと斬りつけて4人を死傷させた。その生麦事件碑があるところを探して訪ね歩いたら、なんとキリンビールの横浜工場の敷地にそれが食い込んでいた。



石碑の向こうの白い建物がキリンビール横浜工場で、もしかしたらビール工場の観光目的でここに生麦事件碑を誘致したのかなと思った。そういうわけでもないらしい。攘夷派がイギリス人に斬りつけた現場はここではなく、むしろ生麦駅に近い。かの地で傷を負ったイギリス人の何某が落命した場所にこの碑が建てられたとなん。



それでもやっぱり、遭難の地に碑を建てたほうが何かと理に叶うのではないか。そっちへ行っても何もなさそうだし、ビール工場の見学は新型コロナウイルス対策でずっと休みだし、いつか工場見学できるようになったら改めて事件現場といっしょに尋ねてみよう。いつになるかわからないけど、と思って横浜の馬車道に向かった。



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