散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

憲政記念館へ

2022-12-24 | Weblog

都心にあるし無料で入れるのに、なぜか敷居が高いような気がするので生まれて一度も中へ入ったことがない場所のひとつ、憲政記念館に私はとうとう足を踏み入れた。不届き者!と憲兵につまみ出されることもなく、明確な意志をもって入館する前に自動ドアが速やかに開き、行きがかり上そこから入らざるを得ない仕儀となった。受付の職員さんの愛想がよかったから、何食わぬ顔で見学コーナーに進入しようしたら、用紙に名前と連絡先と健康状態などを書き込まないと入館できない決まりになっていたようで、にこやかに呼び止められた。オイコラ!とは今の時代さすがに声を荒げないようで助かった。岸田さんまんじゅう……はっきりしないというか面白いわけでも美味しそうでもない。味方がいない暗示のような、箱のデザインが寂しい。

観光バスが結構な台数、駐車場に停まっている。いずれの車両も乗降口の近くに小学校の名前や中学校の名前が掲示してあるから、修学旅行生がおびただしく憲政記念館につめよせてたら見学やめようかな? と思ったのに、中には小学生も中学生もいなかった。というより見学者はそのとき自分ひとりだった。憲政記念館の駐車場にバスを停めた小中学校の生徒たちは、隣の国会議事堂をぞろぞろ見学しているに違いない。そういえば黄色い帽子をかぶった集団が議事堂から出てくるのを遠くから見かけた。いまどきの小学生は、総理大臣になりたいと将来の夢を文集に書いたりしないそうだ。息をするように嘘をつく人でないと総理大臣になれないことを小学生でも知りつくしているとか。中学生ならなおさらだろう。

昨年だったか一昨年だったか、あるいはもっと前だったか江戸城(皇居)の内堀に沿って散歩していたある日、内堀通りにほぼ面して憲政会館があるのを見た(というか入口のそばで引き返した)ことがあったのに、いま訪ねると記憶よりかなり奥まった場所になんとなく小ぢんまりした簡素な建物がある。もっと威厳があったような……それもそのはず、2022年から建て替えのために場所を移して仮の施設になっているのだ。観光バスが停まっているのは、元から国会議事堂の団体見学用の駐車場なのかもしれない。仮住まいのおかげで敷居が低くなっていたから、私のような者でも卑屈にならずに入館できたということだったらしい。なるほど、いいときにやってきた。

明治維新から帝国議会を 経て現在の国会にいたる憲政の歩みを、文書や資料、写真などで見ることできる憲政の歩みコーナー。その入口にある憲政史シアターで21分の映像を視聴する。国会議員に当選したら全員21分間のこの映像を見たほうがいいんじゃないだろうか。そうでないと、文字通り憲政の歩みが終を迎えてしまいそう。先人の努力を目の上のたんこぶのように思う、不肖の世襲議員があふれている。報酬が少ないとか権限が小さいとか、人権なんて間違いだとか言いたい放題なだけでなくカルト宗教にまで汚染されて政教分離にさえ踏み切れない。

それはさておき西郷さん、憲政以前に失脚し西南戦争で落命した人だけど、今の世の中を予言するような遺訓が伝わっている。たとえば南州翁遺訓にはこうある。

 租税を薄くして民をゆたかにするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下をしひたげぬもの也。能く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧せうけいの俗吏を用ひ巧みに聚斂しうれんして一時の缺乏に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦惱に堪へ兼ね、聚斂を逃んと、自然譎詐きつさ狡猾かうくわつに趣き、上下互に欺き、官民敵讐と成り、終に分崩ぶんぽう離析りせきに至るにあらずや。

安倍さん、菅さん、岸田さんのやってることを的確に言い表しているので驚くけれども、その西郷さんの肖像写真や上野公園の銅像がどうも西郷さんの姿をちゃんと表してないという専らの評判で、銅像については除幕式で奥様がこれは違う、こんな姿ではないと抗議したとさえ言われている。実際どうなんだろうと、かねがね気になっていたところへ、赤絵というのだろうか。明治に紅色の塗料を用いる浮世絵版画が流行して、西郷さんの姿を克明に写していた。

維新後の新政府で「征韓論」を否定されて野に下る、その直前の西郷さん(中央)は髭面で確かに上野公園の銅像とは全然違う。まったく別物。これは下野する前だからそうなのかも知れず、薩摩に引っこんだ後の西郷さんはどうなのかと、にわかに興味を持って展示に目をこらすと西南戦争で奮戦して命を落とす前の西郷さんもやっぱり髭面だった。

中央で白馬にまたがって剣かサーベルを振りかざしているのが最晩年の西郷隆盛だというのだから、写真や銅像のようなルックスになった期間があるとは赤絵を見るかぎり思えない。じゃあ写真の人物は誰なのか。銅像は誰がモデルなのか。それとも赤絵の西郷さんがフィクションなのか。憲政記念館でいちばん目を引いたのが、憲政以前の人物の肖像だったというのが我ながらなんとも。

つぎに目を引いたのが国会議員を60年もつとめ「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄のパネルだった。といっても肖像に疑問が湧いた訳ではなく、傍に掲げてある昭和3年の「普通選挙について」という文章を読むと、大意では西郷さんと同じことを述べている。安倍さん、菅さん、岸田さんがやっていることを批判しているとしか思えない論旨なものだから、あの人たちが憲法を憎むのも自分らに都合が悪いからではないかと自ずから疑われるのだった。以下に書き写してみる。

 今日の場合において、我が国の最大問題は、不景気がこの末なお悪くなるか良くするかということにある。

 これは、独り選挙人のみならず日本全国の人に影響する。しかも国家の古今の盛衰消長人も関係すべき大問題である。

 而してこの点については政府も反対党も、不景気は直したいと言ってはおるけれども、直すべき道をばどちらも踏まないのみならず、かえってますます悪くする方針をとっておる。

 方針とは言えまいけれども、彼らの働きは、その方針を取って段々国を悪くするという覚悟を持ってやっておるかのごとく見える。

 これを事実について言うならば、不景気ということは元来、国民多数が困るということである。

 困ることを直そうとするのには、税を重くするよりかこれを軽くするということが第一の急務である。

 故に欧米列強の不景気の甚だしく起こった所では、いずれの国といえども、非常な大減税を致しておる。

 しかるに日本に限って、大正九年に不景気が起こってから後、今日に至るまで、一年といえども、一億円近くの税を増しておらん年はない。

 それは政友会でも、今の民政党でも、どちらでも同しことです。

 この両大政党は、事実においてはともに税を増しておる。

 税を増すということは、決して不景気を直す道ではないのみならず、必ずまずこれを甚だしくする原因である。

 その証拠には、大正九年以来今日に至るまで数年間、一年は一年より不景気がひどくなって、今後なお、停止するところを知らない。

 今後といえども、引き続いて税を増していく以上は、幾年経っても景気の直ろうはずはないのみならず、増税のために物価が高くなり、品物が売れにくくなり、(中略)正貨の外出ということは、今後やはり引き続いて行われる。

 

もともと憲政記念館は、尾崎行雄記念館だったものを後に憲政記念館とあらためたものだそうで、今の仮住まいも元の場所に改築が成った暁には移転する予定だというから、そうしたら再訪してみようかと思う。もっとも、そのときまで憲政が続いているかどうか、はなはだ心もとない。憲法などあって無きがごとしの行政がまかりとおり、立法府も司法府もないがしろにされることが安倍さん、菅さん、岸田さんの政権で続いているから。主権者は税をしぼりとられるばかりで、江戸時代の五公五民を超えてもうじき六公四民になる勢い。「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」ではなく、ハハ~んさては殺す気だなと思わずにいられない今日このごろ。亡国の道をたどる現状を憂いながら憲政記念館を後にした。

 

 

 

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美濃馬場へ

2022-12-03 | Weblog

夏に白山に登ったのは登山が目当てというより、白山信仰の本拠地に関心があったからで、山登りは手段というかおまけというか……その勢いが止まらず、秋に大山(雨降山)の阿夫利神社へ這いあがったところ目を引く立札があった。

大山修験(山伏)は、山中で行う修行の中で、白山神社を拝するのがその一過程であった。当社は加賀の国、白山神社と関係深く、大山寺開山(752年)前に建立されたといわれるーーー大山観光青年専業者研究会。というわけで、要するに神奈川の大山に寺が開かれる前、そこも白山神社だった。

白山の頂上を起点に、修験者が各地の山に伏し、白山信仰を広めた飛鳥奈良時代の痕跡が神奈川の大山に今も残されているのを見て、金沢(加賀)だけではなく福井(越前)や岐阜(美濃)からも修験者が分け入った白山の全容が思い浮かび、加賀と越前の馬場が神社になっているのは見たことあるから美濃馬場がいちど見たくなった。

越前馬場は平泉寺白山神社、加賀馬場は白山比咩神社、美濃馬場は長滝白山神社として伝わり、前2社は訪ねたことがあるので、岐阜から入る禅定道の美濃馬場……いまの長滝白山神社にも行ってみよう。ただそれだけの話なんだけど、きっかけや動機を説明しはじめたら思ったより長くなってしまった。

山登りというよりも電車移動の道のりで、下調べだと朝9時の新幹線で東京から名古屋へ。10時48分発の特急ひだに乗り換えて美濃太田へ。11時34分発の長良川鉄道に乗り換えると36駅目、2時間ほどで白山長滝駅につき、駅から3分で美濃馬場の長滝白山神社に詣でることができるので、14時前にお参りしたら美濃太田まで退却して泊まる計画だった。

予定通り13時35分に目的地へ着いた。写真の右端に写ってる単線のホームが白山長滝駅。ご覧の通り神社に隣接しており、他に何もない。食事をする場所もない。そんなことだろうと思って家からパンを持参し、ここまでの移動中に食べた。長良川鉄道の2時間はトイレが車内になかったので、まず公衆トイレを探して用を果たす。

神仏習合しており長滝寺と並び立つ。白山中宮長滝寺は(と看板にある)霊峰白山を開山した泰澄が、奈良時代養老年間に創建した山岳寺院であった。平安時代天長9年(832)加賀馬場白山本宮・越前馬場白山中宮平泉寺と並ぶ白山三馬場の一つ美濃馬場として、白山へ登拝する美濃禅定道の拠点となっていった……よし、看板の説明はこれまでに見たのと食い違いがない。

拝殿の手前に小さな四阿がある。なんだろうと近づいてみると石灯籠があり、鎌倉時代の正安4年(1302)伝燈大法師覚海の寄進により建てられたと銘記されているので、文永8年(1271)の火災後に白山中宮長滝寺を再建する際に奉納されたものだという。国重要文化財に指定されたから、屋根がつけてあるのだろう。

細部の手法が優れ、装飾の善美を尽くしており、制作年代は明確、石造美術上また白山信仰上の貴重な資料であると看板に書いてあるが、そんなものだろうか。般若寺型に類するものと見られ、基礎と中台は六角形、優美な反転をもつ12枚の蓮弁で包まれた請蓮華と伏蓮華があると書いてある。建物は火災で消失したから、石灯籠ぐらいしか見るものがないと理解すべきか。

中尊寺ハスも見るべきものらしい。そういえば、越前馬場は平泉寺白山神社といったから、平泉中尊寺となにか関係あるのかと思ったら、奥州藤原氏は霊峰白山を厚く崇敬していたというではないか。三馬場には秀衡寄進の仏像や伝承が数多くあるというし、やはり奥州藤原氏は中央にまつろわぬ勢力の栄えるところだった。

古代ハス自体は、中尊寺に残っていた種をかの地で平成10年にまいたら育ったのを、平成16年に株分けしてもらって、この地でも育てているということだが冬なので枯葉ぐらいしか見当たらない。古いハスの種をまいたら花が咲いたという話は他の土地でも聞いたことがある。あれはたしか、低湿地ゆえ秀吉に水攻めされた備中高松城址かな?

三馬場を解説する白山奥宮の山小屋のパネルで、美濃馬場の写真のアングルがおかしかったのは、拝殿の奥の本殿を横から撮った写真だったからのようだ。あれでは意味がわからない(上から5枚目の写真)。こうして訪ねてきたおかげで疑問が解けた。奥州藤原氏が山伏文化につながることも理解できた。納得したので長良川鉄道をまた美濃太田まで戻る。なぜか行きは2時間だけど帰りは2時間半かかる。列車というか一両だから、単車? に乗ってばかり。師走は寒いからこれでいいのだ。遠ざかるにつれて単車? の後方に冠雪した白山らしきものが見えた。

 

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