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歩くことが唯一の趣味ですから。

近松と西鶴の墓

2024-01-20 | Weblog

兵庫県尼崎市のJR塚口駅(大阪から数駅)で降りて、ちかまつロードを歩いていくと10分か15分くらいで近松公園に着く。近隣には近松保育園やネオ近松と称するアパートなど、近松門左衛門にちなむ建物がいくつかあった。近松という地名ではないが「近松のまち あまがさき」として市や県が注力してる。

近松門左衛門は江戸時代の劇作家で、人形浄瑠璃(文楽)の台本を多く残した。福井藩士の次男として承応2年(1653)に生まれた次郎吉は、父の杉森信義が浪人したので寛文7年(1667)京都に出てきて、丁稚奉公をはじめる。奉公先の縁で浄瑠璃や歌舞伎に接し、天和3年(1683)というから30歳で書いた「世継蘇我」が上演されたらしい。

人形浄瑠璃の公演をチケットぴあなどで調べると、どうも関東より関西のほうが上演の機会が多い。近松は西で浄瑠璃を書いて、竹本座で上演したのだから。とはいえ、時代物を書いているうちは泣かず飛ばず。世話物の「曽根崎心中」が当たって名を成すのは元禄16年(1703)だから人間五十年を越えて、苦労の末の遅咲き。

売れっ子になった近松は宝永3年(1706)大阪に移り住み、そこの地縁で尼崎を描いた「五十年忌歌念仏」を上演したのが宝永4年(1707)。六十代になって尼崎の荒寺、廣済寺の再興を資金面で助けたのが正徳4年(1714)……昭和50年(1975)その寺の隣に建てられたのが近松記念館で、近松公園の一角を占める。

正面は施錠してあり、通用口に回るよう貼り紙がしてあったので、そっちから入ると管理人さんが出てきて入館料200円を徴収し、展示室を開錠して電灯と空調をつけ、展示の案内をしてくれた。前の管理人さんが3年前に他界してから、老後の3時間労働でここの番をしている。浄瑠璃は先日、初めて見たそうだ。

隣の廣済寺は、再興の恩人である近松のため、本堂の裏に離れを設けて仕事部屋として近松に提供した。この「近松部屋」は明治の末まで残っていたという。1階と中2階の2部屋あり、近松記念館の模型で概略がわかる。

中2階への短い階段が記念館に展示されている。実物だという。管理人さんにその話を聞かなかったら、ガラスの向こうに展示されている梯子のようなものを目にしても気に留めなかったかもしれない。

近松の墓は大阪の谷町筋にあるのだが、隣の廣済寺にも実はあり、どちらも本物だと管理人さんは言う。昭和25年(1950)に墓を掘ったら骨があったとか、後に過去帳が出てきて近松の戒名が記録されているとか、証拠(になるのか?)をいろいろ取り揃えてある。かえってあやしい。

せっかくだから廣済寺のほうの墓も見ていく。寺域を描いた江戸時代の絵図を見ると周囲がまるで海のようなのは、水田だからそう見えるらしい。カラーだったら水田とわかりそうだけど、墨だけで描くと木立のところが島のようではないか。

廣済寺の墓地に入ると近松の墓が整えてあり、思ったより小さかった。「冥土の飛脚」「国性爺合戦」「日本振袖始」「心中天の網島」「女殺油地獄」「関八州繋馬」など百の戯曲で名を轟かせ、享保9年(1724)に没した。それから300年。

大阪に戻り地下鉄の谷町六丁目駅から谷町筋を下ると、八丁目のガソリンスタンド脇にあるのが近松門左衛門の墓だ。このへんには相撲の力士を贔屓にする支援者がたくさん住んでいたので、いまでもパトロンのことをタニマチと称する。近松にも熱烈なタニマチがいたのだろう。

世話物で名を馳せたから、伝統的な時代物を高尚とする向きからは邪道と蔑まれた。しかし庶民は時代物を喜ばず、近松が書いた時代物は20年ずっと空振り続きで竹本座が潰れかけたところで一発逆転、三面記事的な要素のある実話を元にした世話物の浄瑠璃が大ヒット。いまでは古典として残っている。

近くの誓願寺で無縁仏の中に埋もれていた井原西鶴の墓石、明治の文豪、幸田露伴が発見して現在は墓地の中央通路の奥にしっかり据えてある。無縁仏の中から見つける露伴の熱意すごい。職業戯作者を近代作家の祖として敬う思いが強かったのだろう。露伴がいなければ無縁仏のままだった。

 

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