散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

福島の絵馬

2023-02-11 | Weblog

絵馬を見るのが好きなので、ときどき見ず知らずの神社へ絵馬を見にいく。そして目についた絵馬をまとめて自分のブログに上げることを通算27回、不定期で10年以上やっている。28回目のネタ、いや絵馬を探しに東京駅から朝7時40分発やまびこ125号仙台行き自由席車両に乗り、8時56分に郡山で降りて安積国造神社まで10分ほど歩く。

これから福島の神社をいくつか回って絵馬を見る。なぜ福島なのか。冬だから、北上しすぎると寒いだろうというのが一つ。近いから、日帰りできそうというのが二つ。そのわりに福島の神社はあまり見てないというのが三つ。以前、保科正之が祀られた土津神社を訪ねようと猪苗代駅からタクシーに乗ろうとしたら「どちらからお越しですか?」と運転手さんに確認された。鹿児島とか山口(つまり薩長)と答えようものなら乗車拒否しそうな顔つきだった。今回はすべて駅から徒歩で訪ねられる場所なので大丈夫。(なにがだよ)

安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)は古くから郡山の鎮守として尊崇されたところへ坂上田村麻呂の東征の折に宇佐八幡が合祀され、続いて源頼義や源義家の東征の際にも戦勝祈願されるなど、平安時代に東征の要所として存在感を高めたらしい。幕末の東征でも郡山は薩長と奥羽越が対峙する要所だった。ここの絵馬掛けでネタになりそうな絵馬を1枚みつけて写真を撮り、満足して駅に戻ろうとすると……

薄皮まんじゅうの柏屋の店先に、まんじゅうのかたちに加工した石が転がっていて、その奥に絵馬が掛けられていた。日本に初めて饅頭づくりの技術を伝えた林浄因命、お菓子のルーツ果物の神である田道間守命、柏屋薄皮饅頭の創始者である本名善兵衛命の三柱を祀る「菓祖神・饅寿神社」だそうだ。

まんじゅうのかたちの絵馬が掛けられていた。饅寿神社の境内にある重さ20トンの願掛け饅寿石の分身として、まんじゅうのかたちの石がここ(柏屋本店)に奉献あれているという。なんだ分身だったのか。駅に急ぎ、9時46分発の各駅停車で3駅目の本宮まで東北線を北上する。

9時59分に本宮駅で降りて30分ぐらい歩いたところに、安達太良神社の急な石段が現れた。ここは安達太良山の峰々に鎮座していた神々と、大名倉山に鎮座していた神々を平安時代に合わせ祀り、安達太良大明神と称しているそうだ。どうも平安時代にこの辺りの神々を再編成して、朝廷にまつろわせる意図のようなものを感じるのは気のせいだろうか。安積国造神社といい、安達太良神社といい。

ここには絵馬掛けがなかった。社殿が文化3年の大火で焼失し、同年に整えた仮社殿が文化7年の大火で焼失を逃れるも、再び火災に遭い、文化13年に現社殿が完成したと掲示板に書いてあった。それから200年近く、焼けずに存在している。地元の方がちらほら参拝に来ていた。また30分ほど歩いて駅まで戻り、11時55分発の各駅停車で今度は2駅、北上して12時04分に二本松駅で降りる。

東北線とほぼ並走する奥州道中に面して、駅のすぐ近くに二本松神社の鳥居がある。二本松神社はもともと二本松城の一部だったようだ。二本松城は応仁の乱の少し前に畠山氏が築き、それから伊達・蒲生・上杉・松下・加藤氏へと主が変わり、江戸時代の寛永20年(1643)に二本松藩が成立してからは丹羽氏が代々の藩主として維新まで過ごした。

明治5年に改称するまで御両社と呼ばれた二本松神社は、丹羽氏が入封する際に城内の2か所にあった熊野社(右)と八幡社(左)をここに合祀して1か所にまとめるとともに、奥州道中に面するところに置くことで領民すべてが参拝できるようにした。明和3年(1764)の大火で炎上し、安政6年(1777)に再建されたものの寛政6年(1794)に再び炎上、現在の社殿は文化3年(1806)に再々建されたとか。二本松神社といい、安達太良神社といい、焼けるときはよく焼けるものだ。

絵馬掛けがあったので、28回目の絵馬ネタになるかどうか3枚ほど写真を撮って、鳥居のところまで石段を下りていく。そこで振りかえり、二本松神社に向かって右へ数十m、最初の信号で左折して数十mいくと二本松城の大手門の跡の石垣が道の左右にいまでも残っていた。

本丸へと続く上り坂が車道になっている。城主の丹羽氏は代々ここ(奥州道中に面するあたり)に大手門を築きたいと、入封の頃から幕府に願い出ていたが、城の普請はなかなか許可が下りなかった。190年ほどを経て、9代藩主の丹羽長富の治世にようやく許可を得ることができた。石垣と堀を築造し、櫓門を築いて大手門がここに完成したのは天保3年(1832)だったという。

城の内側から眺めると大手門の跡はこうなる。幕末にやっと築くことを許された二本松城の大手門も、30年ばかり後の慶応4年(1868)に戊辰戦争の兵火で焼失した。そして誰もいなくなった。

13時04分に二本松駅を出る各駅停車で豊北線をさらに北上し、5駅目の福島で下車する。福島駅から歩いていけるポピュラーな神社というと福島稲荷になるようだ。ともかく20分ほど探しながら訪ねると、そこには参拝客が今日の神社の中でいちばん多勢いた。お稲荷さん現役感すごい。

絵馬掛けも賑やかだ。ネタになるかどうか、ともかく4枚ほど写真に撮った。吹く風が凍てつくのは北上してきたせいなのか、それとも時刻(午後2時を回ってる)せいなのか、まだ昼ごはんを食べていないせいなのか。駅前でとにかく温かいものを何か食べて、さっさと家に帰ろうと思った。ブログの「絵馬28」は3月1日更新予定で、これまでの分は以下のリンクから全部さかのぼることができるはず。

関連記事:  絵馬27(サカタのブログ)

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60分間都内一周

2023-02-04 | Weblog

冬は外を歩くと寒いので、東京駅の丸の内南口を出て都内をめぐる観光バス(下車なしで車窓から名所を眺める約1時間コース)に乗車してぬくぬくと散歩(1歩も歩かない)を楽しんだ。冬とはいえイチョウの葉がまだ黄色いまま枝にしがみついているのは地球温暖化のせいなのかどうか。実現が困難な目標ばかり掲げるSDGsなどもう無意味なのかどうか。

正面に見えますのが都バスの行列です。その向こうにそびえる東京国際フォーラムは船をイメージしたデザインの建物で、旧東京都庁の跡地に建てられ1997年にオープンいたしました。2021年に無観客で開催された2020東京オリンピックではウェイトリフティングの会場として、この東京国際フォーラムが使用されました。

バスが右に曲がりますと、正面に見えてきますのが皇居です。手前に石の橋、奥に鉄の橋が架けられ、奥の橋が以前は二重構造だったため通称「二重橋」と呼ばれておりますが現在は一重で正式名称を「正門鉄橋」と申します。手前の石橋が「正門石橋」です。お正月と天皇誕生日の「一般参賀」の折には橋を渡ったところの正門が開放されて中に入ることができます。1954年(昭和29年)1月2日の一般参賀では、二重橋の上で参賀者が将棋倒しになり16名死亡しました。

国会議事堂が見えてまいりました。17年の歳月をかけて1936年(昭和11年)11月に帝国議会の新議事堂として竣工された白亜の殿堂は当時、日本一の高さを誇る建物でした。左右対称で向かって左に衆議院、右に参議院が配置されています。ほぼ全体に国産の資材が用いられ、総工費およそ2600万円は現在の価格にすると690億円とも1,000億円を超えるとも言われております。ここで居眠りをしております国会議員の報酬は月額129万4000円、年額1552万8000円にのぼり、諸手当を含めますと年収2000万円を軽く超えます。先頃の国会でさらに増額が議決されたそうです。

赤坂見附の交差点にさしかかりました。見附といいますのは敵を見つける見張りつきの城門のことで、江戸城には赤坂見附のほか四谷見附、市谷見附など36の見附があったと言われておりますが実際はもっと少なかったという話もあります。赤坂見附やお台場にはFootersの店舗がありましたが撤退して今は銀座だけになったようです。

うとうとしてるあいだにギロッポンこと六本木にバスがさしかかりました。夜の街のイメージが強い六本木ですが近年は美術館の集まるエリアとして注目されているとも言われております。しかしながらオールナイトで遊びまくる若者や若くない飲んだくれが夜明けどころか昼近くまで酔っ払ったまま路上で奇声を挙げて徘徊する姿が存分に見られる観光名所はやはり六本木につきます。

東京タワーが見えてまいりました。テレビ、ラジオの総合電波塔として1958年(昭和33年)に1年半の工期で完成した高さ333mの鉄塔はパリのエッフェル塔を抜いて当時は高さ世界一でした。ちなみに先端の海抜高度は351mあります。手前の左手にガラス張りの高いビルが建設中ですが、これが完成しますと高さ330mの日本一高いビルになり、あべのハルカスを抜くそうですが東京タワーより低いです。上層階の住居の賃料は噂ですが月額280万円ほどで、その程度かという感じですね。

日比谷の交差点を過ぎると、全面降伏で敗戦したあと進駐軍(GHQ)の本部が置かれた第一生命ビルが右手にございます。社長室が大戦中に接収されて帝国陸軍の幹部らが使用し、敗戦後は総司令マッカーサーが使う部屋となりました。第一生命ビルは建て替えられましたがマッカーサーの部屋はそのまま残されているようです。その向こうが帝国劇場です。1月は何やらジャニーズの舞台が、2月は何やらキングダムの舞台が上演されるようです。

行幸通りを右に曲がると東京駅です。1914年(大正3年)の竣工まで東京の玄関口は新橋駅でした。ですから明治の人は東京駅を知りません。1921年(大正10年)の11月4日には丸の内南口で当時の首相だった原敬が刺殺されました。さらに1930年(昭和5年)の11月14日には丸の内中央口で当時の首相だった浜口雄幸が銃撃され、一命を取り留めた後に結局は死亡しました。これで都内一周は終わりです。

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