電脳筆写『 心超臨界 』

神はどこにでも存在するというわけにはいかない
そこで母をつくられた
( ユダヤのことわざ )

応援してくれた新聞記者に「苦労したね」と声をかけられ、思わず涙が流れました――細谷英二さん

2024-05-24 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散記事『榎本武揚建立「小樽龍宮神社」にて執り行う「土方歳三慰霊祭」と「特別御朱印」の告知』
■超拡散『南京問題終結宣言がYouTubeより削除されました』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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「人間発見」
りそなホールディングス会長・細谷英二さん
他流試合で勝つ (1)
他流試合で勝つ (2)
他流試合で勝つ (3)
他流試合で勝つ (4)
他流試合で勝つ (5)


他流試合で勝つ (4)
(「人間発見」09.09.03日経新聞(夕刊))

大阪でも活動を継続、自民議員らに働きかけ
  本社に戻り旅客会社立ち上げ、JR「発車」に涙
    次々とサービス改善策、客にほめられる喜び

◆大阪の天王寺鉄道管理局に赴任していた間も、
分割・民営化を目指す活動を続けた。

大阪への転勤が決まったとき、周囲からは同情されましたが、不安は感じませんでした。改革を阻む経営陣の主張が世間に通じるはずはないと思ったからです。しばらく大阪にいる覚悟を決め、送別会でも明るく振る舞いました。本社勤務が続いていたので、現場のことを勉強できるチャンスだと前向きにとらえました。

国鉄の財政問題を担当していたころから、外部の有力者との接点を増やしてきました。国鉄が経営資源を生かせないまま衰退するのを防ぎたい一心で経済人や国会議員らに分割・民営化の必要性を説いたのです。大阪にいた間も本業の合間を見て活動を継続しました。民営化に情熱を燃やす若手の有志は1985年5月、「まず経営陣を刷新すべし」と明記した建白書を作成して自民党内で分割・民営化問題に熱心に取り組んでいた三塚博さんに、続いて国鉄再建監理委員会委員長の亀井正夫さんに届けました。「君たちの気持ちはよくわかる」。確かな手応えがありました。

◆当時の中曽根康弘首相は国鉄の経営陣を一斉に更迭した。
4カ月で本社に戻った細谷さんは分割・民営化への足場固
めを急いだ。86年夏、中曽根首相は衆参同日選挙に踏み
切り、自民党が大勝。秋の国会で国鉄関連法案が成立した。

「日本国有鉄道」のうち守るべき部分は何かと突き詰めると、「日本」も「国有」も守るべき対象ではないと気付きました。21世紀にこの国土に健全な「鉄道」を残すことこそが使命だと確信して奔走したのです。とはいえ、本当に法案が通るのか不安でしたが、やがて世論が盛り上がり、自民党内でも分割・民営化論が勢いを増したのです。

本社で旅客会社づくりの責任者と国会広報担当になると、十分な睡眠時間がとれない毎日です。寝ている間にもふと目が覚め、思いついたことを枕元に置いたメモ帳に書き留めました。法案成立後は東日本旅客鉄道の設立準備責任者として新会社の就業規則から封筒のデザインまですべてを決める作業に追われました。87年4月1日早朝、膨大な移行作業が無事に終わり、新生JRの列車が走り出したとき、民営化を応援してくれた新聞記者に「苦労したね」と声をかけられたら思わず涙が流れました。仕事で涙を流したのはこのときが最初で最後です。

◆赤字経営から脱却し、利用客からサービスの
改善も評価されるようになった。

「おはようございます」と利用者にあいさつすることから始まり、新車両、自動改札の導入、トイレのクリーンアップ作戦、ビューカードの導入など次々と新しい試みを始めました。国鉄時代は非難されるばかりでしたが、顧客にほめてもらえる喜びを感じながら仕事ができるようになったのです。山形新幹線、成田エキスプレスなどの多くのプロジェクトも高い評価を受けました。運もありました。民営化後のバブル景気が収益の追い風になったのです。

試行錯誤を続けるなかでたくさん失敗もしました。バブル期に都心部の車両基地を郊外に移す構想は候補地からオオタカが発見されて頓挫。インフレ対策として検討した運賃改定の新しいルール作りは日本経済がデフレに転じて議論が宙に浮きました。バブル期の不動産価格の上昇には疑いの目を向けていたのですが、当時の開発部門が主導した宅地開発を止められなかったは反省点です。副社長となったとき、不採算の宅地開発からの撤退に苦労しました。

副社長のときに注目されたのが駅ナカビジネスです。JRが保有する資産を有効活用する方法を考え抜いた末、「ステーションルネッサンス」構想を打ち出しました。その一環として社内外の抵抗を押し切り、女性のリーダーを抜てきして新会社を発足させ、駅ナカビジネスの進化の基礎をつくりました。東日本キヨスク(現・JR東日本リテールネット)への転出内定は自分の予想より1年早かったのですが、新しいビジネスモデルとして店舗改革の構想を練っていました。

(聞き手は解説委員・前田裕之)
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