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「人間発見」
りそなホールディングス会長・細谷英二さん
他流試合で勝つ (1)
他流試合で勝つ (2)
他流試合で勝つ (3)
他流試合で勝つ (4)
他流試合で勝つ (5)
他流試合で勝つ (2)
【「人間発見」09.09.01日経新聞(夕刊)】
熊本の少年時代、負けず嫌いの「肥後もっこす」
差別や動物いじめを許さぬ心、母親から教わる
東大で司法試験勉強、訴訟法に興味持てず断念
◆熊本には、長いものに巻かれず、軸がぶれない人間を表す
「肥後もっこす」という方言がある。1945年2月、熊本
市で生まれた細谷さんは「肥後もっこす」の風土の中で高校
時代まで過ごした。
幼いころから負けず嫌いでした。幼稚園児のとき、砂場の陣地争いなどささいなことで、よく同級生ととっくみあいのけんかをしました。身長は低い方でしたが、体が大きくてけんかが強い相手にも向かっていき、ねじ伏せられそうになると腕にかみついて相手が泣き出すまで離しませんでした。もちろん、私は相手より先に泣いていましたが。
「肥後もっこす」という言葉を意識はしませんでしたが、自分が不利な状況でも堂々とぶつかる姿勢を知らず知らずのうちに身につけていたかもしれません。
熊本大学教育学部付属小学校、同中学校から県立熊本高校へという名門とされる進路をたどりましたが、負けず嫌いの性格は変わりませんでした。小学校のころ、週に1回、先生が黒板に算数の問題を書き、正解できた順に帰宅してよい日がありましたが、いつも1番になろうと必死になって問題を解きました。
もっとも、当時は受験勉強に精を出す風潮はなく、放課後は真っ暗になるまでチャンバラや三角ベース野球に興じました。夏休みの宿題で絵日記に野球の勝ち負けの話ばかり書いて親に怒られました。
人前に出るのが苦手で、恥かしがり屋でした。小学校では成績の良い生徒が学級委員になる決まりだったのですが、私は学級委員になるのがいやでたまりませんでした。結局、やらされたのですが、学級委員として朝礼で号令をかけるのは性に合わなかったのです。大勢の人前で平気で話せるようになったのは社会人になってからです。
◆父親は銀行員、母親はやさしくも厳しく、
2人の息子を育てた。
幼少期は母・フキと日常の出来事をよく話した覚えがあります。父方の祖父は戦前、養蚕業を興すために群馬から熊本に移り住み、事業に成功したようです。戦後は悠々自適の生活を送り、広大な敷地を所有していました。母方の祖父は外科医。母は非常に恵まれた家庭の娘として育ち、おっとりとした性格でしたが、ときに厳しく息子たちをしかりました。当時は中学校を出てすぐに働く子供が珍しくありませんでしたが、そんな子供たちを見下すような態度を母は絶対にしません。動物をいじめることも厳しく禁じました。
父・義郎は東京の庶民金庫(現・日本政策金融金庫)に入り、戦後は出身の熊本に戻って肥後銀行に勤めました。誠実な学者タイプで、海水浴に連れていってくれたり、キャッチボールの相手をしてくれたりしましたが、子供の教育は基本的に母に任せていました。
成長期の私にとっては兄・修一の存在がとても大きかったように思います。3歳違いの兄は私と同様に名門コースを歩みましたが、私とは違ってよくしゃべる快活な性格。チャンバラ遊びのときはよく兄の後ろについていきました。
◆東大法学部に進学後、一時、司法試験を目指したが、
法律の勉強に興味がわかず、やがて断念した。
小学生のときは昆虫採集や天体観測の時間を心待ちにし、理数系の科目が好きでした。高校2年までは理系の大学に進学するつもりでしたが、微積分や物理の点数が伸び悩んでいました。手先が器用でないことは不利であると思い、親とも相談して法学部に進路を変更しました。
大学では司法試験を受ける気になって勉強を始めたのですが、訴訟法を勉強する段階になると適性がないと判断してやめてしまいました。法律の細かい手続き論には興味が持てなかったのです。都市研究会などのサークルにも一時、入りますが、特定のサークル活動に拘束されるのがいやであまり長続きしません。自由な時間を大切にしたかったのです。
大学時代は東京・茗荷谷の下宿に住み、他の大学の学生たちと仲良くなりました。4畳半の部屋に共用のトイレと洗面所。一緒に酒を飲みに行って他の大学の話を聞くのも楽しみでした。外には自分が知らない世界が広がっているなと感じ取っていました。
(聞き手は解説委員・前田裕之)
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熊本の少年時代、負けず嫌いの「肥後もっこす」
差別や動物いじめを許さぬ心、母親から教わる
東大で司法試験勉強、訴訟法に興味持てず断念
◆熊本には、長いものに巻かれず、軸がぶれない人間を表す
「肥後もっこす」という方言がある。1945年2月、熊本
市で生まれた細谷さんは「肥後もっこす」の風土の中で高校
時代まで過ごした。
幼いころから負けず嫌いでした。幼稚園児のとき、砂場の陣地争いなどささいなことで、よく同級生ととっくみあいのけんかをしました。身長は低い方でしたが、体が大きくてけんかが強い相手にも向かっていき、ねじ伏せられそうになると腕にかみついて相手が泣き出すまで離しませんでした。もちろん、私は相手より先に泣いていましたが。
「肥後もっこす」という言葉を意識はしませんでしたが、自分が不利な状況でも堂々とぶつかる姿勢を知らず知らずのうちに身につけていたかもしれません。
熊本大学教育学部付属小学校、同中学校から県立熊本高校へという名門とされる進路をたどりましたが、負けず嫌いの性格は変わりませんでした。小学校のころ、週に1回、先生が黒板に算数の問題を書き、正解できた順に帰宅してよい日がありましたが、いつも1番になろうと必死になって問題を解きました。
もっとも、当時は受験勉強に精を出す風潮はなく、放課後は真っ暗になるまでチャンバラや三角ベース野球に興じました。夏休みの宿題で絵日記に野球の勝ち負けの話ばかり書いて親に怒られました。
人前に出るのが苦手で、恥かしがり屋でした。小学校では成績の良い生徒が学級委員になる決まりだったのですが、私は学級委員になるのがいやでたまりませんでした。結局、やらされたのですが、学級委員として朝礼で号令をかけるのは性に合わなかったのです。大勢の人前で平気で話せるようになったのは社会人になってからです。
◆父親は銀行員、母親はやさしくも厳しく、
2人の息子を育てた。
幼少期は母・フキと日常の出来事をよく話した覚えがあります。父方の祖父は戦前、養蚕業を興すために群馬から熊本に移り住み、事業に成功したようです。戦後は悠々自適の生活を送り、広大な敷地を所有していました。母方の祖父は外科医。母は非常に恵まれた家庭の娘として育ち、おっとりとした性格でしたが、ときに厳しく息子たちをしかりました。当時は中学校を出てすぐに働く子供が珍しくありませんでしたが、そんな子供たちを見下すような態度を母は絶対にしません。動物をいじめることも厳しく禁じました。
父・義郎は東京の庶民金庫(現・日本政策金融金庫)に入り、戦後は出身の熊本に戻って肥後銀行に勤めました。誠実な学者タイプで、海水浴に連れていってくれたり、キャッチボールの相手をしてくれたりしましたが、子供の教育は基本的に母に任せていました。
成長期の私にとっては兄・修一の存在がとても大きかったように思います。3歳違いの兄は私と同様に名門コースを歩みましたが、私とは違ってよくしゃべる快活な性格。チャンバラ遊びのときはよく兄の後ろについていきました。
◆東大法学部に進学後、一時、司法試験を目指したが、
法律の勉強に興味がわかず、やがて断念した。
小学生のときは昆虫採集や天体観測の時間を心待ちにし、理数系の科目が好きでした。高校2年までは理系の大学に進学するつもりでしたが、微積分や物理の点数が伸び悩んでいました。手先が器用でないことは不利であると思い、親とも相談して法学部に進路を変更しました。
大学では司法試験を受ける気になって勉強を始めたのですが、訴訟法を勉強する段階になると適性がないと判断してやめてしまいました。法律の細かい手続き論には興味が持てなかったのです。都市研究会などのサークルにも一時、入りますが、特定のサークル活動に拘束されるのがいやであまり長続きしません。自由な時間を大切にしたかったのです。
大学時代は東京・茗荷谷の下宿に住み、他の大学の学生たちと仲良くなりました。4畳半の部屋に共用のトイレと洗面所。一緒に酒を飲みに行って他の大学の話を聞くのも楽しみでした。外には自分が知らない世界が広がっているなと感じ取っていました。
(聞き手は解説委員・前田裕之)
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