電脳筆写『 心超臨界 』

人生には三つの重要なことがある
一に親切、二に親切、そして三に親切である
( ヘンリー・ジェイムズ )

原発の安全のために生産技術の面で日本が貢献する余地は大きい――田中直毅さん

2008-01-24 | 04-歴史・文化・社会
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[21世紀と文明――多元化する世界と日本]経済評論家・田中直毅
  [1] 国家とは公人とは
  [2] 一国モデルの幻想
  [3] 主権国家を超えて
  [4] 自己統治と日本
  [5] 自己統治の世界化
  [6] 原子力と日本
  [7] 新興国と世界秩序
  [8] 新たな挑戦と日本


[6] 原子力と日本
【「やさしい経済学」08.01.22日経新聞(朝刊)】

原子力発電への熱気はリバイバルと世界的に呼ばれるまでになった。化石燃料依存からの脱却によって地球温暖化防止を果たそうという人類にとっての大命題に直結したからである。

原子力エネルギーへの注目は、核開発の歴史のなかで二度目といってよい。第二次大戦中に広島、長崎に原爆が投下され、戦後の冷戦期になると、米ソの二超大国は地球を何度も破壊し尽くす暴力を手にする。冷戦期における核の恐怖は人類史上例をみないもので、核兵器が投下される状況を双方の当事者が思い描けばともに核兵器投下を思いとどまるはずだという抑止理論が広がった。

これは、文明史的には、人間の尊厳を損なうことなく大量破壊兵器の保有は正当化できるのか、という有史以来初めての問いかけがなされたことにほかならない。こうして現実の国際政治が重い倫理上の課題を抱えこんだことにより、他方で原子力の平和利用への関心を高めざるを得なかった(逆にその分、核兵器の忘避が原発不信に直結しやすい面もあった)。

だが、冷戦の終結は問題をきわめて複雑にした。核拡散がインド、パキスタン、そしておそらくはイスラエル、北朝鮮へと進むなか、核技術・機器のヤミ市場の存在も指摘されるようになり、2001年の米同時テロを経て、核兵器がテロ集団の手に落ちる可能性を無視できなくなった。主権国家間の対称性を前提とした抑止理論がまったく通用しない状況の到来である。

21世紀はテロと温暖化というこれまで想定しなかった過酷な多元的状況のなかで文明史に逢着せざるをえない。温暖化防止への方策が立ちにくいため、原発へ触手を伸ばそうと考える主体は、イランなど産油国も含め世界中に飛躍的に広がりつつある。

そのなかにあって国際社会での日本の独自性は明らかである。(1)広島、長崎の被爆以来、核兵器廃絶を訴え続けている(2)原子力エネルギーの開発と制御については国際原子力機関(IAEA)の査察の受け入れも含め経験が豊富(3)核不拡散の仕組みづくりにあたっては核燃料リサイクルのうち、不拡散のカギを握るウラン濃縮と使用済み核燃料再処理についての多国間の安全保障措置の重要性を自覚している――などが強みだ。

これらを踏まえつつ、安全のために生産技術の面で日本が貢献する余地は大きいはずであり、その積極的な働きかけこそが、文明史的にも十分に意味をもつと思われる。

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