とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

近江の佐々木氏と横浜市港北区との縁

2022-01-29 21:32:40 | 神奈川散歩


近江の佐々木氏といえば、鎌倉、室町時代に時代のキーパーソンとなった一族だ。
京極氏、六角氏、尼子氏などが同族である。
他にもあまたの一族をもつ。

そんな佐々木氏だが、横浜市港北区のあたりとも関係があったそうだ。
先月、滋賀の近江八幡のあたりを歩いたのだが、このあたりが本拠地の一族だ。

平安末期、佐々木秀義は平治の乱で源義朝軍の一員として戦ったが、味方は敗北し、東国へ落ちのびることになった。
当初、奥州の藤原氏を頼ったようだが、途中、相模の渋谷氏に身を寄せることになった。
それから20年。
頼朝が挙兵すると、秀義の息子たちも頼朝に従い、数々の武功を立てた。
中でも四男の佐々木高綱は武勇の誉高く、石橋山の合戦では頼朝の窮地を救い、宇治川の合戦では頼朝から名馬、生喰を賜り、一番乗りを果たす。

後に恩賞として各地に所領を持つが、横浜北部から川崎市のあたりも高綱の所領となった。
日産スタジアムのすぐ南の丘、
高綱の屋敷があったとされる鳥山神社近くに、名馬生喰を祭る馬頭観音がある。


生喰はこの地で死んだと伝わる。
生喰は武蔵国、今の大田区洗足池近くの牧から出た名馬であると言われている。

渋谷氏の所領である横浜や川崎の地は佐々木氏にとっても第二の根拠地のようなものだ。

特に当時の関東は馬の産地であった。
関東各地には馬を生産する牧が存在していた。
名馬を育てるには、血統のよい馬どうしの交配が必要である。
横浜は鎌倉に近い上、佐々木氏の軍馬の調達先として重要な役割があったのかもしれない。

後に鳥山は佐々木本家筋の所領として引継がれ、佐々木(六角)泰綱の時代には幕府の命により鳥山の新田開発を行うが、泰綱の子の鳥山輔綱(左衛門尉)がこの地の目代となっている。
鳥山と名乗っているのだから、この地に本格的に定住したのだろう。
六角橋の六角も佐々木氏に関係があった地名なのかもしれない。


三会寺 
源頼朝を発起人として佐々木高綱が建立したと伝わる。


師岡熊野神社

この地の有力地侍であった師岡氏は、渋谷氏などと同族で佐々木秀義、源義朝とともに京で戦っている。

宗三寺(勝福寺)

高綱が自身の菩提寺とした寺
後に佐々木(六角)泰綱が中心となり梵鐘を奉納したとのこと

この景色のあたりが佐々木氏の所領だった所。

ちなみに高綱の末裔には乃木希典が名を連ねている。

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