一つのことに執着し、
関心を持ち、
探求心を失わないということはすばらしい。
父が園芸の世界に凝り始めたのは大阪万博の2、3年前ぐらいのころからだった。
その大阪万博へは、父と兄と私の3人で出かけ、ついでに関西のお城巡りをしたことは、前にも書いた。
ところが、父にも一つの目的があった。
園芸の大家、京都のSさんに会うことだった。
事前に電話の一本ぐらいは入れていたかもしれないが、
ほとんどアポなし取材のようなものだった。
S邸の門前に車を止めると
父は、私ら2人を車に残して、Sさん宅へ向かった。
1時間経ち、2時間経ち
父がさっぱり帰ってこないのには閉口した。
何を話したかは知らないが、初対面でよくもそんなに話が続いたものだ。
それから数十年して
婦人雑誌の「家庭画報」の表紙に、Sさんと父の名前が並んで載ったことがあった。
日本を代表する園芸家のSさんは、なんの不思議もないが、
その横に父の名前が並んで載ったということは快挙だった。
特に私には、過去のSさん宅への訪問の件があるのでなおさらそう思った。
関心を持ち、
探求心を失わないということはすばらしい。
父が園芸の世界に凝り始めたのは大阪万博の2、3年前ぐらいのころからだった。
その大阪万博へは、父と兄と私の3人で出かけ、ついでに関西のお城巡りをしたことは、前にも書いた。
ところが、父にも一つの目的があった。
園芸の大家、京都のSさんに会うことだった。
事前に電話の一本ぐらいは入れていたかもしれないが、
ほとんどアポなし取材のようなものだった。
S邸の門前に車を止めると
父は、私ら2人を車に残して、Sさん宅へ向かった。
1時間経ち、2時間経ち
父がさっぱり帰ってこないのには閉口した。
何を話したかは知らないが、初対面でよくもそんなに話が続いたものだ。
それから数十年して
婦人雑誌の「家庭画報」の表紙に、Sさんと父の名前が並んで載ったことがあった。
日本を代表する園芸家のSさんは、なんの不思議もないが、
その横に父の名前が並んで載ったということは快挙だった。
特に私には、過去のSさん宅への訪問の件があるのでなおさらそう思った。