私の記憶に残るのは昭和30年代後半ぐらいからなので、それほど昔の話ではない。
大都市の感がある横浜だが、昔から多くの人が住んでいたわけではない。統計によれば明治時代は10万人そこそこの人口で、昭和に入り50万人を越え、昭和30年代でようやく100万都市の時代となる。今では370万人ぐらいの人が暮らすようだが、急速に都市化が進んだ都市なので、昭和30年代でも特定の地域を除けばド田舎であった。
<私の家>
私の家の30年代と言えば、前にも書いたが、食事の煮炊きには、まだかまどを使っていた。それでも私の家は良かった方で、レンガ造りで煙突もあるモダンなかまどだった。部屋の中には薪置き場もあり、北側には風呂場(トトロに出てくるような風呂)もあった、かなり広いスペースの台所だったが、どうも後から建てた専用の建物だったようだ。
水道はなく、井戸水をポンプで汲み上げていた。
電気はあったが、主に照明に使うぐらいで家電製品も少なかった。
近所にはまだ茅葺屋根の家も多く存在していた。
当然ゴミ収集車なんて来ないから。ゴミはすべて自宅で処理していた。もっとも、家でも燃やせるもの、穴に埋めて土に返すものぐらいしかなかったと思う。汚い話だが人間の排泄物でさえ肥溜めに運んで肥料としていたのだから、ほとんど無駄なものはなかった。
<道>
今のようにまっすぐな道ではなかった。感じとしては、初めに家在りきで、その後家々の玄関先を通る道を作ったという感じだった。むろん舗装道路ではなく、雨の日には、わだちに水がたまり、車一台がようやく通れるような狭い道だった。
<近所のお店>
それでも近所にストアーがあった(今ではセブンイレブンになっている)
当時の食品は現在とだいぶ違っていた。
納豆
わらで包んだ納豆しかなかった。
豆腐
大きな水槽に入っていて、買う時には「絹どうふ一丁ください」と店の人にお願いする。その都度店の人が水槽から豆腐をすくい上げ青色のビニール容器にいれてくれた。
もやし
もやしも木の樽にドバと入っていて、注文するとその都度取り分け渡してくれた。(いずれの樽も井戸水を流しっぱなしにしていた。)
鰹節
今のような削り節はなかった。鰹節をカンナで削るのは大変だったが、美味しかった。親は仕事で忙しかったので、小学生のころよく自分で鰹節をかいておにぎりを作って食べていた。
海苔
今は焼き海苔が当たり前だが、そのころ焼き海苔なんてなかった。
海苔はあぶって焼いて食べるものだった。
私の家で食べる海苔は大森のおばさんと言って、大田区の大森で海苔の養殖をしていたおばさんがいて、お歳暮には決まってその海苔を送て来た。私の記憶する海苔が東京湾産のものであったかは不明だが、たいへん厚手で今ではまずお目にかかれないような天日干しの海苔だった。