とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

長津田駅から 恩田川 成瀬 こどもの国へ

2018-09-17 19:42:55 | 横浜散歩
長津田の駅から北へ恩田川の遊歩道沿いを歩く、成瀬に入り杉山神社へ

杉山神社は、鶴見川沿いの一部の地域にのみ存在する地神様なのだが、名前の由来すら分かっていない謎だらけの神社だ。


隣りの東雲寺へ



東雲寺は、私の伯母の菩提寺で、母方の親類はこのあたりから、鶴ヶ峰にかけて広がっている。成瀬の叔母の家は、昔に行ったときには家の前が一面の田圃で、裏は小高い山となっていた。
このバス停の名前のとおり、本当に田舎だった。


杉山神社の横をとおり、恩田へ


徳恩寺は寺宝も多く、この地域の真言宗の名刹らしい。


奈良川沿いの遊歩道を歩いて行くと住吉神社に着く。


神社の奈良川沿いの崖下には、中学生の慰霊碑がある。


横浜第二中学、(現、横浜翠嵐高校)の生徒6人は、勤労奉仕でこの先の田奈部隊(陸軍の弾薬庫)(現、こどもの国)へ向かう途中、同乗していたトラックの横転事故で奈良川へ転落し、トラックの下敷きになり亡くなったのだそうだ。

6名のうちのお一人は、講談師で後に国会議員にもなった一龍齋貞鳳さんのお兄さんだったそうで、人望も厚く将来を嘱望された秀才だったそうだ。




「田奈の森 学徒勤労動員の記」
著者は当時高等女学校の生徒さんだった方で、田奈部隊の勤労奉仕の他、横浜大空襲の様子など、ご自身の貴重な戦中体験をまとめたもの。


こどもの国は、小さいころには遠足で行った。
自分の子供も、ベビーカーをがらがらやりながらよく連れて行った。
ソフトクリームを食べ、羊にエサをやったり、ポニーに乗せたり、小川で水遊びをさせたり、
子育て初期のころの思い出の場所だ。


こどもの国は、子供の施設と軍の遺構が同居する不思議な場所だ。


井の頭公園 山本有三記念館 吉祥寺ハモニカ横丁など

2018-09-16 19:47:57 | 東京散歩
井の頭公園の弁天様のあたりはなかなかよい。
池にはギンヤンマが飛んでいた。
ギンヤンマを見たのは数十年ぶりだ。
弁天様の裏の手水の横には小さなお地蔵様がいらっしゃる。

ご丁寧に頭巾と前掛けが付いているが、水に濡れても大丈夫なように防水性だ。

井の頭池の水の湧きだし口


玉川上水沿いに山本有三記念館へ向かう。

記念館前にある路傍の石

なんとも大きい石。
私のイメージの路傍の石は、足で蹴飛ばせるような石だったが・・・

ストーリーはすっかり忘れてしまっているが、主人公の吾一ちゃんだけはいまだに覚えているので、感動したのだと思う。


山本有三記念館は、おしゃれでモダンな洋風建築。




吉野源三郎も展示されていた。

お庭を横切る黒猫にも気品がある。


井の頭公園の中には、こんな碑があり、このあたりは児童教育の聖地の感がある。



この後、吉祥寺の商店街を覗きにいった。
吉祥寺は、めったに来ない。それこそ10年に一回ぐらいだ。
その記念すべき一回目は、「うたごえ喫茶ともしび」へ行ったことだった。
大学の先輩と来たはずだが、それがだれだったのかもう覚えていない。
喫茶といいながらお酒を飲んでいたと思う。
歌唱リーダーのような人がいて、楽器演奏に合わせてお店のお客全員で合唱していた。

曲はロシア民謡や労働歌のようなものだったと思う。当時はもう安保闘争のようなものは終息していたが、そんな空気を感じさせた。初めての者にはエキサイティングだった。
たしかサンロード沿いにあったと思う。

ハモニカ横丁の小ざささんのもなかと塚田蒲鉾店の吉祥寺揚げをみやげにした。

近所の中原街道を歩く

2018-09-09 20:59:00 | 近所の旅
せせらぎ公園の古民家

こちらは国の重要文化財にも指定されている関家。関家は後北条家にも仕えた地侍で、この辺の名主を代々務めた家柄。


関家の稲荷神社が、すでに村の鎮守ぐらいの風格がある。


山田神社は単純な名前のわりには、由緒ある神社のようで、入口の鳥居から本殿までは延々と参道を300mぐらい歩かなければならない。異例の長さだ。


山田神社は源義朝の家来蒲田兵衛正清ゆかりの城があった場所だそうで(正清公はこのあたりのご領主様)笑点でおなじみの山田隆夫さんも山田神社にほれ込んで近所にお住まいだ。


とちのめ不動


道中坂下の東急バスの折り返し所


この先にあるのが蒲田堂で、先ほどの蒲田兵衛正清の館があったとされる所だ。


蒲田兵衛正清という人は、源義朝の側近中の側近の武将であったそうだ。
平治の乱に敗れ、討ち死にを覚悟した義朝をおしとどめ、東国へ落ちのびることを勧めたのが正清であったらしい。(小学生向け「漫画日本の歴史」の保元の乱のところで蒲田兵衛正清が二コマだけ登場している)ところが東国へ向かう際に頼った正清の親類に裏切られ、主従はともに殺されてしまう。正清は生涯、義朝を補佐した忠臣であった。


はるかな時を経てもこの地に蒲田兵衛正清の伝承が残っているということは、この地の人々と正清との間に強い繋がりがあった証拠なのかもしれない。
保元の乱のことを記述した「保元物語」には、やはり港北区の師岡氏が源義朝方の軍勢に加わっていたことが記されているそうなので、このあたりの人々は、「保元の乱」「平治の乱」の時に源義朝軍の一員として京で戦っていたのかもしれない。



今週の「わからん」3

2018-09-08 15:30:16 | 独り言
「数字ができないならビルから飛び降りろ。」
「毎月月末近くになってノルマができていないと机を蹴ったり、テーブルをたたいたり、1時間、2時間と永遠に続く。」
スルガ銀行の苛烈な営業推進のありかたが今日の朝刊に載っていた。

融資案件の資料の改ざんは常態化し、おまけに営業部門からの圧力で審査部門は形だけの融資審査で案件を通さざるおえなかったと言う。
スルガ銀行のガバナンスは、だいぶ前から破綻していたようだ。

いったい経営が危ぶまれる金融機関ならともかく、地銀の優等生とまで言われた同行が、なぜそこまでに苛烈な営業推進を行わなければならなかったのか。
見えてくるのは、経営陣の問題である。
日本大学やかつての東芝のガバナンスの在り方と似ている気がする。


他の企業の手本とまで言われた東芝のコンプライアンスマニュアルだったが、東芝の不正会計の阻止には何の効果もなかった。仏作って魂入れずで、とんだお笑い草だった。

すべては、経営者の考え方がこそがコンプライアンスで、内部からその内向きなコンプライアンス(企業風土)を変えることは出来ない構図が見えてくる。

金融庁や森長官は、高い収益力を誇ってきたスルガ銀行を、今後の金融機関の経営のあるべき姿として高く評価していたはずだ。
金融庁は銀行を監督できる立場にありながら、これまでスルガ銀行の特異なビジネスモデルの検証を行っていなかったのだろうか。

相も変わらず愕然とさせるような企業の不祥事である。
それが日本を代表するような企業、組織で頻発しているのがなんとも嘆かわしい。

近江商人の経営哲学「売り手によし、買い手によし、世間によし」という格言が最近脚光を浴びているのも、現実には、そうでない企業の方が多いことの反映なのかもしれない。

サンマーメンを作る

2018-09-01 19:31:34 | 独り言
今年もサンマが不漁だというニュースがあった。
行きつけのスーパーでも一尾300円で売っていたのには驚いた。
ところがここにきて豊漁らしい。
ほっとした。

サンマやイワシ、アジ、サバといった大衆魚は、いつまでも気軽に食べられる魚であってほしい。
「今日はお祝いだから高級魚のサンマを買って来たわ。」
「一匹1000円だったんだから、すごいでしょ。」
なんて時代が来ないことを祈りたい。

サンマは内臓も美味しい。
ところが、そのへんで買ってくる一匹100円ぐらいのサンマだと、はらわたの中に魚の鱗が沢山入っていて食べられないことが多い。
定食屋さんなんかで食べると値段は多少高いが、はらわたが綺麗だ。
頭と背骨を残してほぼ全部たべることが出来る。
少し高いなと思うサンマはこのへんにちがいがあるようだ。

今日の夕飯はサンマとラーメンだった。(サンマーメンのダジャレ)
自分が作ったのだが、横浜にはサンマーメンというラーメンがある。
昔はサンマのエキスでもスープに入っているのかと不思議に思っていたが、サンマーとは野菜のことらしい。

生めんを買ってきて、スープは自分で作った。
ニンニクと長ネギをみじん切りにして、ごま油で炒めた。それに豚肉を少し加え、かつおだしと鶏ガラスープ、みりんを少々、醤油を適当に加え、具のもやし、メンマを盛って出来上がり。シンプルだがわりと美味しい。

娘と食べたが不平はなかった。