とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

東横線多国籍電車

2023-02-19 16:49:45 | 神奈川散歩

武蔵小杉へ行く
と、通過電車があるのに気付く。
なんだ、なんだ、どうした?

相鉄線だ。
東横線に相鉄線の車両が走っている。
ついにテスト走行が始まった。
いよいよだ。


東横線もついにEUみたいになってきた。
イギリスみたいに、いまさらEU離脱はできないだろうが、ますますややこしくなる。
そもそも和光市や森林公園、小手指なんかへは、いまだに行ったことがない。
あまり行先が増えると、それだけ遅延リスクも高くなる。(なんだか移民問題みたいだ。)

武蔵中原の駅へ向かい散歩。
途中二ヶ領用水沿いに進み等々力緑地方面へ


常楽寺 古墳時代の土器や勾玉が出土しているそうだ。


私の記憶では、オバQとパーマンは白黒のテレビアニメだった。


小雨が降って来たので、折り返して新丸子方面へ

おお、京都のラーメン。

最近、薄口の京料理を食べているイメージだった京都人の化けの皮がはがれそうになっている。
朝はパン食、(京都はパン屋がやたら多いらしい。)ラーメンも大好き。
なんでやねん。

新丸子の駅に着くと、またしても相鉄線車両が走っていた。


東神奈川 浦島 生麦へ

2023-02-12 19:29:05 | 神奈川散歩



北斎の名画、神奈川沖浪裏
神奈川沖というのは、本当にこの東神奈川あたりの沖のことなのだろうか?
このあたりから海を見るのは厳しい。
東神奈川駅からすぐの所には出田町埠頭がある。
だけど海は見えないな~
倉庫だらけ 運河は見えるけど掘割のような感じだ。

もう一つ、この近所には浦島太郎伝説がある。
こちらも、もろに海に関わる伝説だ。

伝説の地、蓮法寺へ行く。
わりと具体的なことが書いてある。

浦島太郎というのは三浦の住人で浦島大夫が丹後の国へ移住した後に生まれた子であるとしている。
丹後の澄の江の浦から竜宮城へ行った太郎が帰ると、知る人がいなくなっていたので親の古里である相模に帰ったが300年前に死んだとされていた?

よくわからないが、太郎は三浦一族なのかもしれない。承久の乱の後一族は日本各地に領地を得たようなので、一族の誰かが丹後の国の澄の江の浦という所に移り住んだのではないだろうか?その後南北朝などの戦乱で所領を失い、一族の根拠地である相模に舞い戻ってみたが、頼りになる一族はすでに無く、しかたなく何処とへもなく去って行った。という物悲しい話しなのか?

遍照院の参道は京急電車が横切る。鎌倉の御霊神社前の江ノ電より数倍迫力がちがう。


東海生麦ガード
だいぶ昔の作りで文化財級


その横はビール工場

それで生麦?
生麦事件の碑はビール工場の前にある。


国道駅のガード下

誰か文化財として保護してくれないかな。

川崎大師へお散歩

2023-01-09 08:26:17 | 神奈川散歩
川崎大師へ行く
川崎競馬場のとなりのショッピングセンターのガーデンスペースを覗いた。
競馬場の第四コーナー前で、競走馬が走っていれば、かなりの迫力で見られ
そうだ。

(ビューポイント)


川崎大師の前に根勢様へお参り。



敷地内に幼稚園があるというのも意味深か?


川崎大師は、ほぼ普通の人出なのではないかと思う。
くずもちを買う。
しょうずかばあさんの前はすいていたのでいっぷく。


川崎駅地下の食堂街は軒並み混雑。

THE 京浜工業地帯 小島新田駅~浮島町公園

2022-10-10 19:45:06 | 神奈川散歩

天気が悪いので、近場を散歩。
昔、川崎から日向まで高速カーフェリーが就航していた。(高千穂丸に美々津丸)

(高千穂丸)


浮島のフェリーターミナルが懐かしいのだが、新しい工場群で海側が見えない。今ではフェリーのターミナルが何処であったのかもあやふやだ。

京急大師線の終点、小島新田駅より歩く。

こういう中小企業群が日本を支えている。

貨物線は、それぞれの工場群へ引き込み線が延びており、かつての工業地帯で、物流の中心的役割を果たしていた。


泣かせる標識。




工場群の様子がアートだ。

どことなく時代も感じさせる。







浮島町公園到着。
このあたりであったと思うのだが、あまり自信がない。



羽田空港が目の前なので、離陸する旅客機が頻繁に飛び立つ。

ハマナスが咲いていた。

ハマナスの咲くころ~♪ 思い出してみれば~(森繁)



金山神社(通称かなまらじんじゃ)から川崎大師

2022-04-23 20:42:42 | 神奈川散歩

なんだかくずもちが食べたくなり川崎大師へ行く。
コロナで参拝客が少なくなり、くずもちのお店が心配。
崎陽軒のシウマイとくずもちは、個人的に地元熱愛お土産だ。

大師駅を降りると、お大師様近くに、ある有名な神社があることを思い出した。その名を金山神社(かなまらじんじゃ)といい、祭りの時には、男のなにを神輿にして町を練り歩くという。

行ってみると、まさにうわさのなにが神社の境内に、置かれていた。

今日はお祭りなのだろうか。
聴いてみたら、本当は4月初めの日曜らしいのだが、コロナのせいでお祭りができないから、4月の週末はこのようにして、おひろめしているそうだ。(今日が最終日だそうだ。)

日露戦争で活躍した28センチ榴弾砲のような御神木


ピンクのは、エリザベスと言うんだそうだ。


奥の方に黒いのもある。


これは売店の売り物。

コロナ前までは外国人にも人気だったそうだ。

旅雑誌の「るるぶ」にも、花巻温泉の根勢様を紹介した記事があったのを思い出す。
ここのよりさらに大きそうな根勢様が、温泉に鎮座していて、お祭りの時にはみんなで湯船に入れるんだとか。
大きさの大小はあるが、根勢様は古い湯治場でよく見かける。
日本の観光にはかかせない存在だ?

こういうのは日本だけかというとそうではない。
これはデロス同盟で有名なデロス島アポロン神殿の男根柱頭。

発想は日本と同じと思われる。


インドのヒンズー教の寺院の彫像(中央インド カジュラーホのミトゥナ像)は、
もう一歩踏み込んで、ダイレクトな表現


ギリシャ神話も日本の神話も根本的発想は一緒のような気がする。
自由奔放な神々は、一神教からは生まれない発想。

そうそうお大師様へも行かないと


武蔵小杉あたりの中原街道

2022-04-03 15:59:16 | 神奈川散歩
昭和7年版の武蔵小杉周辺の地図を見たら、中原街道が多摩川を渉る所が渡し舟だったことに驚いた。
今日はその丸子の渡しのあたりを見に行った。

中原街道を丸子橋へ曲がらずそのまま真っすぐ多摩川へ進み、河原をあるいてゆく。


渡し舟の発着所だったあたりへ。
ここから舟で沼部へ渡り、桜坂から雪谷へ向かっていたイメージだ。

丸子橋が出来たのは昭和10年なので、それまでこんな感じだったということだ。


中原街道沿いの武蔵小杉あたりでは、観光案内板がちらほらある。


原家陣屋門 

原家は千葉一族のながれをくむ旧家で付近の名主も勤めた銘家。

安藤家長屋門


徳川家康も宿泊したという小杉御殿跡 


小杉御殿脇の最明寺
正面が中原街道


小杉に古くからある大西学園

今では大西研究所かと思うような近代的な校舎になっている。


小杉の北側はあまり用もないのでめったに歩かないが
再開発の波はここへも押し寄せている。



近江の佐々木氏と横浜市港北区との縁

2022-01-29 21:32:40 | 神奈川散歩


近江の佐々木氏といえば、鎌倉、室町時代に時代のキーパーソンとなった一族だ。
京極氏、六角氏、尼子氏などが同族である。
他にもあまたの一族をもつ。

そんな佐々木氏だが、横浜市港北区のあたりとも関係があったそうだ。
先月、滋賀の近江八幡のあたりを歩いたのだが、このあたりが本拠地の一族だ。

平安末期、佐々木秀義は平治の乱で源義朝軍の一員として戦ったが、味方は敗北し、東国へ落ちのびることになった。
当初、奥州の藤原氏を頼ったようだが、途中、相模の渋谷氏に身を寄せることになった。
それから20年。
頼朝が挙兵すると、秀義の息子たちも頼朝に従い、数々の武功を立てた。
中でも四男の佐々木高綱は武勇の誉高く、石橋山の合戦では頼朝の窮地を救い、宇治川の合戦では頼朝から名馬、生喰を賜り、一番乗りを果たす。

後に恩賞として各地に所領を持つが、横浜北部から川崎市のあたりも高綱の所領となった。
日産スタジアムのすぐ南の丘、
高綱の屋敷があったとされる鳥山神社近くに、名馬生喰を祭る馬頭観音がある。


生喰はこの地で死んだと伝わる。
生喰は武蔵国、今の大田区洗足池近くの牧から出た名馬であると言われている。

渋谷氏の所領である横浜や川崎の地は佐々木氏にとっても第二の根拠地のようなものだ。

特に当時の関東は馬の産地であった。
関東各地には馬を生産する牧が存在していた。
名馬を育てるには、血統のよい馬どうしの交配が必要である。
横浜は鎌倉に近い上、佐々木氏の軍馬の調達先として重要な役割があったのかもしれない。

後に鳥山は佐々木本家筋の所領として引継がれ、佐々木(六角)泰綱の時代には幕府の命により鳥山の新田開発を行うが、泰綱の子の鳥山輔綱(左衛門尉)がこの地の目代となっている。
鳥山と名乗っているのだから、この地に本格的に定住したのだろう。
六角橋の六角も佐々木氏に関係があった地名なのかもしれない。


三会寺 
源頼朝を発起人として佐々木高綱が建立したと伝わる。


師岡熊野神社

この地の有力地侍であった師岡氏は、渋谷氏などと同族で佐々木秀義、源義朝とともに京で戦っている。

宗三寺(勝福寺)

高綱が自身の菩提寺とした寺
後に佐々木(六角)泰綱が中心となり梵鐘を奉納したとのこと

この景色のあたりが佐々木氏の所領だった所。

ちなみに高綱の末裔には乃木希典が名を連ねている。

川崎大師へ行く

2021-08-25 22:16:56 | 神奈川散歩

遠くへ出かけるのは気が引ける。
オートバイはどうかとも思ったが、雨の確率が高いのと、暑くてだるいのでやめた。
プランも浮かばないので川崎大師へウォーキングに出掛ける。
小杉からバスで幸町まで行き、多摩川沿いの堤防を歩く。
多摩川は緑が濃い。干潟っぽい所もある。



川崎大師に着くと、先にくずもちを買ってからお参り。
近所のお寺みたいに人けがない。

これでは門前町もたまらないだろう。

川崎大師の気になる木。
なつめの木


なつめで思い出すことが3つある。
一つが水師営の会見
庭にひともと なつめの木
もう一つは関羽の唇をなつめにたとえた三國志の本があったこと。
3つ目は史記列伝、
愛馬が死んだのを人間の大夫として弔おうとした楚の荘王を、優猛がとんちで諫めるくだり、「土の竈を槨とし銅の大鍋を棺とし、しょうがとなつめを加えてまぜ、木蘭をそなえ、うるちの米をそえて祀り、火の光の衣を着せ、人間の胃腸に葬りましょう。」とユーモアで返答している。このことから紀元前600年ころの肉料理になつめが使われていたことが分かる。
読んだ当時ヘーそうなんだと妙に感心した。

裏口近くにある しょうづかの婆さんとよばれるお地蔵さん。

歯のお地蔵さん、容姿を美しくするお地蔵さんだそうだ。
(芸能人は歯が命)

六郷の渡しからは旧東海道を歩く。


川崎の宿


湘南 二宮町を歩く

2020-09-21 23:05:31 | 神奈川散歩

知足寺 曽我兄弟の墓


お墓を前にしてあれだが
曽我兄弟の仇討は、なにがいいのかよくわからない。
そもそも話が複雑で分かりにくい。
それでもゆかりの地が各所に伝わるのだからすごいことだったのだろう。

一説には兄の曽我祐成のお妾さんだった虎御前が兄弟の菩提を弔うため各地を行脚し、仇討の話を全国認知の話にしたのだという。
そういえば信濃の佐久のあたりを歩いていたら虎御前という場所があったのを思い出す。

忠臣蔵のように、主君の遺恨を晴らすため遺臣が一致団結、苦難の末
討ち入りを果たすといような、武士としてあっぱれドラマだわ、というふうには感じられない。

一族の遺産相続争いで、まちがって兄弟の父親が殺され、幼い兄弟は積年の恨みと親の仇を討つ。仇討の相手は身内の人間。しかもそんなに極悪非道な者とも思えない。それを討ち果たしたことがそんなにすごいことなのか。
曽我兄弟の仇討を映画にしても、現代では後味の悪いものになってしまいそうだ。

まあ当時の倫理観は、今とはだいぶちがっていたのかもしれないし、
兄弟げんかや親子げんかも当たり前の時代だったのかもしれない。足利尊氏なんか、同時に兄弟げんかや親子げんかもやっている。

仇討のあと曽我兄弟はすぐさま殺されてしまったようだが、頼朝の弟の範頼失脚の話や、いろいろ背後に陰謀があったとの説もあるようなので、単純な仇討の話ではなかったのかもしれない。


徳冨蘇峰記念館へ行く。
徳冨蘇峰もよくわからない。
戦前のカリスマ言論人。ところが主張は一貫していない。当初はリベラルな考え方だったようだが、突如豹変し強硬な国粋主義者のようになり、軍部とも手を組む。ところが熱心なキリスト教徒であったというのだから、人としての内面がよくわからない。
本は沢山読んでいるようなので、熟考して判断していたと思うのだが。
もしかしたら数学的考えの素養を持ち合わせていなかったのかも知れない。


吾妻山は芝の公園。相模湾の眺めもよい。


二見記念館


画家、二見利節の作品を展示している美術館
二見さんてあまり知らないのだが、なんとなく見た記憶のある作品もあった。
でも事前知識が少なすぎだった。
戦争にも行って苦労されているようだが、美術館まであるのだからもっと人と作品を宣伝してほしい。と係の人に話した。
誰もいないので話したのだが、1日誰もこない日もあるとか。私がいた時も誰も来なかった。
もったいない。小さい美術館ながら作品は見るべきものも多いと思う。だけど待っているだけではこの立地ではだれも来ないだろう。
残念な美術館。

なんだか今日はグチのような話が多くなってしまった。


藤沢市村岡 二伝寺 村岡城址 坂東平氏平良文流旧跡を歩く

2020-08-18 21:38:16 | 神奈川散歩


坂東平氏は高望王が平氏の姓を賜り、関東に赴任したのが始まりとされる。
坂東下向の際には、息子達やその家臣団も随行したので、関東移民団団長のような存在だった。息子世代までは、京で暮らしていた都会者ということになる。

長男の国香の息子は、将門を打った平貞盛で、子孫の一部は、後に京に返り咲いた。
栄華のピークが平清盛だ。
一方、国香の年下の兄弟であった平良文は、兄たちに遅れて関東にやってきた。
その子孫達は後に関東の一大勢力となる。
千葉氏、三浦氏、畠山氏、長尾氏、梶原氏、秩父氏、鎌倉氏、などだ。
関東においては、良文が大樹の家系となる。

鎮守府将軍も務めた名門の為、地元民は何かと因縁を付け、祖先にしてしまったのではないかと思う。私の姓もその枝葉に当たる。
はじめに鎌倉の北西(藤沢市村岡)に住んだので村岡良文(村岡五郎)とも言う。(埼玉の村岡が本拠だとの説も有力だが、いろいろ引っ越しをしているようだ)
平将門とも仲が良かったそうで、将門が打たれるとその息子をかくまい、身が立つようにめんどうを見てやるなど男気がある人物だったようだ。

若いころは、紅顔の美少年(優しい面立ち)であったそうで、源宛との一騎打ちの説話(今昔物語)なども伝わり、武勇に優れていたとされる。

一応高祖と伝わる人物なので、このくそ暑いのに藤沢市村岡の村岡城などを巡ってみた。




城址の碑文は東郷平八郎の書
やはりご先祖は平良文流秩父氏だそうだ。ということは、東郷平八郎と私は縁があるということになる。ばかばかしいような話だが、素朴に面白い。
一族が増えた要因というのは、こういう所にあるのだろう。








大庭城へ行く

2020-08-07 23:30:27 | 神奈川散歩


大庭城は藤沢駅の北方、引地川と小糸川の合流地点の北にそびえる台地状の要害である。
大庭城の城郭は大変立派ですばらしい。
ところが歴史上はさしたる活躍もなく廃城となってしまった残念な城である。

小田急善行(ぜんぎょう)駅から歩く。たいへんありがたい名前の地名だ。
丘陵を下りまた丘陵を越えると引地川親水公園になる。その向かいにあるのが大庭城。
お城ファンならずともこの威容を目にすれば、ただならぬ城であると感じるはずだ。

大庭城落城にまつわる悲話伝説のある船地蔵。



この先にある南口から登る。


登りきると広大な平地が広がる。
当時どの程度の平地であったか分からないが、相当数の兵が籠城できそうだ。

掘っ建て柱の遺構がでてきた場所(川の合流点のすぐ上の台地の所)
城の中心部分ではないかとされる場所だ。



空堀も残る。


大城郭の三の丸ほどの広さがある。


大庭城からは、旧道と思われる道を歩く。旧大庭神社、宋賢院へ






大庭城があまり活躍できなかった理由を考えてみた。
一般には大船駅近くの玉縄城がこの辺の拠点とされたためだということのようだ。
ではどうして玉縄城の方が優れているのか。
大庭城は城そのものは立派なのだが、その立地に問題がありそうだ。
ようはへんぴなのである。
主要道から離れている。
物流の点で、東海道に面している玉縄城の方が断然有利だ。
大船から鎌倉へ行くのは現代でも一般ルートだし、
経済の有利性は中世であっても変わらないだろう。

鶴巻温泉駅から真田城、岡崎城、伊勢原駅へ

2020-08-07 18:47:23 | 神奈川散歩
鶴巻温泉から歩き出すと大きな欅の大木があった。


岡崎城は平塚市と相模原市の境に位置し、三浦一族が相模の中央部を抑える重要拠点である。


岡崎城に関係する重要な事件は主に2回あった。
一回目は、平安末期の頼朝挙兵に伴う平家方との合戦である。
源頼朝の旗揚げ時に中心的兵力を担ったのは、三浦一族であった。
岡崎城主の三浦義実とその兄三浦義明は、頼朝の父親である源義朝と主従関係だったことから頼朝挙兵の際にも積極的に動いた。兄弟は平治の乱で討ち死にこそ免れたものの、その後相模における三浦一族の地位は衰退していたと思われる。
主家再興は、三浦党の勢力を盛り返す絶好の機会でもあった。

ところが岡崎城主三浦義実の嫡男の義忠は、石橋山の合戦で討ち死にしてしまう。
若武者の死は、鎌倉武士の間で美化され、語り継がれることとなる。
真田城の城主は義忠であった。


真田城址の天徳寺


義忠は今も地元の人に愛されている。
真田興一というのは三浦義忠のこと、佐那田余一とも書くようだ。


岡崎城へは田圃の中を進む。
稲穂の花が満開?


農民のDNAのせいか、稲穂の中にいるのは気持ちがいい。


その後鈴川沿いに進むと水田から里芋畑が現れる。
尾根の突端が岡崎神社で、ここまで含めて岡崎城というのではないだろうか。


岡崎城が次に脚光を浴びるのは300年後の三浦一族と後北条氏との攻防戦の時代になる。
小田原城を落とした北条軍は、次に三浦一族が守る岡崎城に迫る。
城主は三浦導寸であったが、導寸は三浦氏の養子であった。父親は扇谷上杉、母親は小田原城主の大森氏という銘家の生まれで、この地を押さえる力があった。義父の三浦高時に実子が生まれても家臣から導寸が支持された。
北条勢に対抗するには、相模中央部に勢力を張る上杉と大森氏の力が必要だと三浦一族も考えたのではないかと思う。

小田原城の落城で、大森藤頼は導寸を頼ったが(従弟の関係だった?)導寸はこれを岡崎城のすぐ西の真田城へ受け入れた。攻防は3年に及んだという。3年間、年中戦闘を続けたわけではないだろう。北条が3年かけて辺りの有力者を寝返らせたということだろう。大森氏や上杉、三浦の連合軍には地元の利がある。北条軍も地元の支持がなければ打ち勝てなかったと思われる。

紫雲寺

大森氏頼(導寸のおじ)が若い頃この地に居を構えていたそうだ。
やはり大森氏とも縁がある城である。


ここから岡崎(三浦)義実の墓へ行く。
指導票が沢山あると思って安心していたら、最後の分岐だけなかった。


岡崎城址の碑は無量寺内にある。わりと普通の丘のようだが、南方向の岡崎神社のあたりまで城域であったとするとかなり広い。


今ではあまり大きな城であったことを感じさせる部分は少ない。

多摩川浅間神社から川崎駅まで

2020-07-25 19:23:11 | 神奈川散歩


田園調布の鎮守様の浅間神社は、かなりのビューポイントだ。
眼下に多摩川を望む高台は、当然のことながら富士山の眺めも抜群だ。(今日は曇り空)
かつてゴジラが武蔵小杉方面から現れた時には、東京侵入阻止のための重要拠点としてここからゴジラに対して激しい攻撃を行った。この浅間神社には自衛隊の作戦本部が置かれていた。


参道には富士山の溶岩が惜しげもなく置かれている。


すぐ横を東横線が通っているので、電車からはしょぼく見えるが、実際には思った以上に見どころの多い神社だ。


今日は多摩川の左岸を歩く。
相変わらずの天気だが、本来この時期は灼熱地獄となるところ、直射日光にもさらされず歩けるので、ものは考えようである。
走っている人もたくさんいる。
こっちはいたってマイペース。
自転車を押して歩いてるおばーちゃんにも抜かれる。

ガス橋




第二京浜の多摩川大橋を越えたあたりから雨が降り出す。



やがて豪雨に
あわててカッパを着るが、足元はずぶぬれだ。
それでも河川敷では野球かなんかをやっている。


優雅に歩いている状況でもないので
第一京浜の新六郷橋を渡り川崎駅へ



津久井城へ登る

2020-02-12 19:50:31 | 神奈川散歩

津久井城は三浦一族の津久井氏(三浦大介義明の弟だった人を祖とする一族)の記録が一番古いとか。
三浦半島の津久井浜あたりに住んでいた一族なのだろう。

津久井城は、秀吉の小田原攻めの時に徳川軍に敗れ落城したが、この北にある八王子城と並んで小田原攻防戦における第一防衛ラインの重要な城であった。

北根小屋のバス停から歩く。
諏訪神社へ到着


登るとすぐにある不動平の記念碑


この先を左回りの女坂を上る。

太鼓曲輪




本城曲輪


城の全体図


展望よし



三角形の独立峰が谷口にあるのですばらしい展望。
岐阜城とコンセプトは似ている。

飯縄曲輪


横浜貿易新報社による記念碑
この姉妹版が港北区の綱島にもある。(綱島温泉)

横浜水道みち 起点沼本ダムへ(三井用水取入所)

2020-02-11 22:11:06 | 神奈川散歩
三井大橋を渡り三井へ
三井寺へ向かう


道は通行止め。
落石の危険性があるからだと思う。
基本的に生活道路として使う必要がなければ、安全を優先して通行止めにしておくということだろう。
三井寺のあたりの登山道も通行止め。(こちらは昨年の台風のせいだろう。)
 

二十三夜供養塔が気になった。
道志には二十六夜山という山もある。
昔の人は月の満ち欠けにこだわったのだろう。
その夜には村の月待行事が行われて、お経を読み、飲食をしたのだそうだ。


名手の先もずいぶん前から通行止め。
こちらは本当に崩落しており、トラバースして通過するにはヘルメット、ザイルが必要だ。


名手橋を渡り旧道を進む。




道志橋を渡り寸沢嵐遺跡(石器時代の遺跡)この先のお堂のような屋根の下。


その先を沼本ダムへ
ダムの上流側が取水口


水道の流路は国土地理院の5万分の1の地形図にも表記されているので、水道管が何処を通っているのかは、ほぼ正確に分かる。
ただ、水道の上流部はほとんど道路とは無関係の地中深い所を通っているのだろう、さきほどの崩落地点もすぐ下を通っているようだが、外からはまったく分からない。

引き返して三ヶ木へ向かう。
途中道志川


橋のたもとで、道志川水系の横浜水道沈殿池へ向かう道を分ける。(今日はやめとく)


三ヶ木のバスターミナルへ着いたら、津久井城へ向かう。(この部分次回へ続く)