鶴巻温泉から歩き出すと大きな欅の大木があった。
岡崎城は平塚市と相模原市の境に位置し、三浦一族が相模の中央部を抑える重要拠点である。
岡崎城に関係する重要な事件は主に2回あった。
一回目は、平安末期の頼朝挙兵に伴う平家方との合戦である。
源頼朝の旗揚げ時に中心的兵力を担ったのは、三浦一族であった。
岡崎城主の三浦義実とその兄三浦義明は、頼朝の父親である源義朝と主従関係だったことから頼朝挙兵の際にも積極的に動いた。兄弟は平治の乱で討ち死にこそ免れたものの、その後相模における三浦一族の地位は衰退していたと思われる。
主家再興は、三浦党の勢力を盛り返す絶好の機会でもあった。
ところが岡崎城主三浦義実の嫡男の義忠は、石橋山の合戦で討ち死にしてしまう。
若武者の死は、鎌倉武士の間で美化され、語り継がれることとなる。
真田城の城主は義忠であった。
真田城址の天徳寺
義忠は今も地元の人に愛されている。
真田興一というのは三浦義忠のこと、佐那田余一とも書くようだ。
岡崎城へは田圃の中を進む。
稲穂の花が満開?
農民のDNAのせいか、稲穂の中にいるのは気持ちがいい。
その後鈴川沿いに進むと水田から里芋畑が現れる。
尾根の突端が岡崎神社で、ここまで含めて岡崎城というのではないだろうか。
岡崎城が次に脚光を浴びるのは300年後の三浦一族と後北条氏との攻防戦の時代になる。
小田原城を落とした北条軍は、次に三浦一族が守る岡崎城に迫る。
城主は三浦導寸であったが、導寸は三浦氏の養子であった。父親は扇谷上杉、母親は小田原城主の大森氏という銘家の生まれで、この地を押さえる力があった。義父の三浦高時に実子が生まれても家臣から導寸が支持された。
北条勢に対抗するには、相模中央部に勢力を張る上杉と大森氏の力が必要だと三浦一族も考えたのではないかと思う。
小田原城の落城で、大森藤頼は導寸を頼ったが(従弟の関係だった?)導寸はこれを岡崎城のすぐ西の真田城へ受け入れた。攻防は3年に及んだという。3年間、年中戦闘を続けたわけではないだろう。北条が3年かけて辺りの有力者を寝返らせたということだろう。大森氏や上杉、三浦の連合軍には地元の利がある。北条軍も地元の支持がなければ打ち勝てなかったと思われる。
紫雲寺
大森氏頼(導寸のおじ)が若い頃この地に居を構えていたそうだ。
やはり大森氏とも縁がある城である。
ここから岡崎(三浦)義実の墓へ行く。
指導票が沢山あると思って安心していたら、最後の分岐だけなかった。
岡崎城址の碑は無量寺内にある。わりと普通の丘のようだが、南方向の岡崎神社のあたりまで城域であったとするとかなり広い。
今ではあまり大きな城であったことを感じさせる部分は少ない。