ブログ日記 日々のうつろい 

退職後パソコンとガイドのボランティアをし、カラオケ(ポップス)やダンス等で生活を楽しむオジサンのブログ。

4区合同リレーウォーク南コース下見&西隣区K小学校月曜ダンス教室H29年10月④

2017-10-30 23:03:01 | 日記
 昨日までの雨もすっかり止んで今日は晴れ渡った秋空になったものの気温はグッと下がって冬の気配を感じさせている。

 今日は朝9時30分に北隣区の更に北にある区の南端にあるターミナル駅近くのよく知られた公園に4区合同で企画された古道を歩くツアーの2回目(南コース)の下見歩きの日である。

 本番は来月早々の第一日曜に行われるのですぐに本番であるが、南コースは当区ガイドの会のエリアなのでガイドし慣れた場所なので別に参加せずともいいようなものではあるが、これも当会だけで行なっている訳じゃないので合同で動くことになる。

 ということで古道連協のスタッフは前回(第一回目:北コース)と今回の2つのコースを通しで案内するが班の数は前回と同じ8班体制である。

 つまり古道連協は北コースと同様に南コースも2つの班を担当するので別段問題はないが、北コースの時は北隣区のそのまた北隣区のガイドの会が中心で4つの班を担当したが今度の南コースは当区ガイドの会がそれに代わって4つの班を担当するので北隣区のそのまた北隣区は2つの班の担当と言う風に交代することになる。

 集合場所までは地下鉄でそんなに時間がかからないので9時15分ほど前に自宅を出て現地には集合時刻より25分程前に到着したが未だスタッフは見かけなかったが近くにあるバスの降車場にあるベンチシートの空いた席に座って持参した缶コ-ヒーを飲んでいたら昨日一緒に回る筈だったIさんがやって来て開いた隣の席に座ろうとしたがその席には水が溜まっているので立ったまま昨日はご苦労様でしたなどと話をすることになった。

 しばらく話した後、当区ガイドの会ののスタッフの顔が見えたのでIさんはそちらの方に行ったが、その時の話を聴いていた横に座っていた男性が「今日の古道歩きする人ですか?」と訊くので「そうです、下見ですけどね」と答えると、「私も参加します」と言う。

 その後すぐに、当区ガイドの会のメンバーであるMさんがやって来て私と話し出したので席を譲ろうと思ったのか別のスタッフらしき人が見えたかで立ち上がって行ってしまったので、Mさんがその席に座り2人で世間話をしたが、今座っていた人は多分4区の中のどこかの区役所の人じゃないかと話し合う。

 集合時刻5分前になったので集まっている場所に行くとガイドの会毎に集まってそれぞれ自己紹介をし、区役所のスタッフも自己紹介したが矢張り先程の隣に座っていた男性は当区の北隣区の区役所の3人のうちの一人だった。

 定刻になったので集合場所から一斉に歩きだしたが、いきなり先頭の方が地下に潜る階段を下りて行ったので全体をまとめる女性が大声を出して地上の横断歩道を渡るんだと言ったが聴こえたのか聴こえなかったのかそのままずんずん地下の方へ下りて行った。

 後ろの方にいた私達は横断歩道の信号を待って青になって亘って行ったが、地下の方に潜って行ったグループは地上に上って来て待機していたが、追いついて地上なのか地下なのかと口論が始まった。

 が結局地下に降りて行った先導車は2回下見歩きをした時に陸橋を渡ればという話も合ったが人が多過ぎて参加者が分からなくなるということだったし、地上の横断歩道を渡るには信号待ちで時間がかかり過ぎるとのことで地下を歩くと決めた筈だという。

 一方、私やいっしょに歩いていた当区ガイドの会のIさんは地下を歩くと参加者が何処をどう歩いたか分からないから陸橋を歩くべきだとIさんが言ったが結局下見の時に決めた筈だと押し切られてしまった。

 これは言い出したらきりがないのでどこかで決着を付けるべきだが、私が引っ張る班は陸橋を上がることにしたいと思う。

 そうすれば歩いて来たルートが一望に見えるし、どの方向に歩いたか後から自分たちだけで歩く時でも目安になるし、何より上から見れば眺めもいい。

 最初のルートは別として、その後のルートは一旦地下に潜ることになる。

 というのもかなり以前は地上を歩き踏切を渡るようになっていたがその後、民鉄駅の改札口が地下に潜ったために踏切ではなくコースも地下に潜って立体交差にした訳である。

 その道と言うのが今回の街道コースより東にとっているが、初日に川から上陸後最初に宿泊した寺院と出立する場合にその寺院の南門から出ることが多かったと言うことでこの東寄りの街道を歩く訳である。

 この東寄りの道を歩いたのは、現在の区の名称とも重なる寺の名前から来ていて、寺の創建者が当時の左大臣でかなりの勢力があったことに由来する廃寺がその通りに沿ってあったことからもこの街道を通る意義があるからである。

 廃寺跡は西に少し入ったところにある小さい神社の祠がある境内から塔心礎が出土したし、その北の方には金堂か若しくは講堂の基壇も発掘され、更に北の方の敷地には外部と遮断するためと思しき塀があった外の堀の跡から古代の瓦を始め室町時代までの色んな瓦などが出土している。

 そこから更に東の方に戻って本来の街道筋にやって来た辺りにその区の区民センターがあり、先ほどの古代の廃寺から出土した瓦などががガラスケースに入って展示されている。

 その横にあるガラスケースにはその区民センターの建物の東にある駐車場入り口や自転車置き場になっているが、弥生時代の漁具で網の周りにつける土垂やヤス、それに竪穴住居の柱穴や壺なども出土してこの台地一帯には古くから住みついていたことを示している。

 区民センターの東出入り口から出て、南北の通りに路面電車が走っているが、その通りに沿ってずっと南下して行く。

 しばらくはただ歩くだけで黙々と歩いて行き途中で路面電車のレールが道路と分かれる道に入ってしばらく行くと広い道と別れて東側に斜めに入って行く昔の街道の雰囲気を残す道に入る。

 しばらく歩くと陰陽で有名な人物が生まれた場所とされる神社があり、その中に入り、その後はまた少し南に下ると王子社がある。

 さらにドンドンとその古道をあるいて最後には当区に入り更に南に下ると有名な神社の東側に入る出入り口に通ずる四差路にやって来て、最後にその神社には行った所にある新宮社と呼ばれる王子社が祀ってある。

 その小祠は南にあった廃寺の南側にあったとされているが、その寺の地は今は小学校になっている。

 この小祠の辺りがゴールとなる。

 このコースの下見にかかった時間は正味3時間だったが本番では説明を簡単に済まさないととても同じ時間で終わるとは思えないから、そのことを考慮に入れたガイドのタイムを守る必要がある。

当地域環濠と城のツアー(本番)と講演会

2017-10-29 23:18:35 | 日記
 今日は昨日に続き雨がずっと降り続いている。

 台風22号も日本列島に近づき、昨日の古道連協のツアー本番に続いて今日は当区ガイドの会のツアーとその後に行なわれる講演会がなされることになっている。

 昨日は朝方は降っていなかったものの降雨確率が80%ということで傘を持参したが、今日は最初から雨が降っている状態でしかも台風が近づいているということだからイヤだなあという気持ちであった。

 それでも昼12時の集合になっているので朝食を摂った後、予定通り準備を進めて資料も案内順に整理して手分けしてガイドすることになっているので私が担当する箇所の資料を見直していたら11時を少し過ぎた頃に電話がかかって来た。

 今日のツアーは中止するとのことでメールも入れたがPCを開けた当初には目を通したが先程出したメールだと言うので、それは見ていなかった訳である。

 ただその後に行なわれる講演は先生の予定もあり実施されるということなので3時前にか会場に来てくださいということであった。

 今日のツアーは台風も直接は来ないものの雨が結構降るし風もそれなりに吹くしで中止は止むを得ない。

 昨日も今日も雨に降られた訳だが、2日続けて雨に濡れるのは気持の上でもイヤなものだからそれはそれで良かったことになる。

 ということで、自宅にそのまま待機する形となったが、気が張っていたものが一遍に気が抜けた感じでいつものようにMSNニュースやYouTubeを見ることとなる。

 雨の中を2時過ぎに自宅を出て歩けば20分少々かかるが今日ばかりは地下鉄の電車で1区間だけど地下鉄で行くことにした。

 駅の階段を上がって会場に一番近い出口を上がったところに当区ガイドの会のユニフォームを着た男性が参加者に道順を教える誘導のために立っていたので「ご苦労様です」と声をかける。

 2言3言話してから会場に向かったがこの会場の中に入ったことはなかったが土地改良会館といって旧村の農地改良の時に当時の村民で構成した組織から発展した歴史を持っているが、立派な会館である。

 今日はツアーは台風の影響での雨により中止となったもののそのツアーの趣旨に沿った内容の講演が行われる訳である。

 テーマは環濠と城がテーマで江戸時代を遡る戦国時代や室町時代に当地区で多くの村々に環濠の後が残っているが全国的に見ても他の地域に比べても多いということである。

 講師の先生は城と言えば立派な平城を思い浮かべる人も多いが、江戸時代には一国一城ということになったので規模も大きい城が多いが数は少ないが、それ以前の城と言えば山城が多く、砦の規模が大きいものを城と呼んでいるものがありその数は凄く多いということである。

 環濠と城の堀とどう違うのか、役割では同じ軍事目的のものもあるし、水利ということ、農業用の灌漑の役目をすると言う面もあるというなどの中々興味ある話の内容であった。

 我々が案内する地域には結構環濠のもと村が多いということは何気なく分かっていたものの、それが外部との接触を抑制するという程度にしか思っていなかったキライがある。

 と言うことで新たな知識を得た心地である。

 講演会に行くまで結構降っていた雨も帰りにはすっかり止んでいたので台風が遠ざかったのだろうということがよく分かる。

 で結局今日中止となった昼間のツアーは来月に改めて行なうことになった。

谷巡り・入江巡り②本番

2017-10-28 23:02:51 | 日記
 いよいよ今日が古道連協主催の谷巡り・入江巡りの2回目本番の日である。

 このツアーは古道連協独自のイベントで先月に①のツアーがあり、今回はその続きの②のツアーである。

 スタートは北隣区の台地上にある路面電車駅であるが、ここは当区との境にほど近い場所である。

 昨日の夜に今回廻るツアーの資料を揃えることが出来無かったので今日は朝食を食べた後、説明するのに必要な物を出来るだけファイルしておきたいということで今回は特に名所図会のガイドポイント用意することにしたのである。

 というのも今回は1回目のように「谷巡り」というよりも「入江巡り」が中心でしかも昔の海岸線の兆候を探しながらのツアーなので昔の地図や絵図を携えなければ現在の街の様子を見てもなんら感じるところがないからである。

 実は当地区にある有名な神社周辺の海岸線を描いた図があるのである。

 しかも9枚あり、それぞれが別々のページに綴じられているが、それらの絵図を外して並べてみると連続したパノラマ風に描かれているのである。

 名所図会は江戸中期に描かれたものを彫って原版を作りそれを刷った当時の観光案内書だが、1枚だけでも結構時間がかかるはずだが、数枚の連続したパノラマ風に仕上げる当時の技術、仕上げまでの根気など非常に繊細で緻密に描かれているのには驚かされる。

 普通のサイズ通りだと結構幅を取るがA3サイズに合わせて上下に分かれて上下の段とも4枚づつ繋げて8枚分をキレイに繋いでコピーしたものを持っているのでそれで説明することにしたのである。

 それら資料を準備した後、自宅を出て集合地点まで歩いて行ったが、出る時には雨が降ってはいなかったが降雨率が80%となっていたので雨が降るのはまず間違いないだろうから傘をじさんすることにした。

 集合場所へは自宅最寄りの地下鉄路線が通っていないし、バスの路線からも外れているが、私がちょくちょく買物をする北方面のスーパーへ行く道の途中まで通るので通いなれた道だが、買物に行くスーパーから更に西の方へ7,8分歩いたところにある路面電車の小さな駅舎があるところである。

 この駅舎は路面電車が出来た当時に出来ているのでもう100年以上経っているが、最近リメイクしたばかりでキレイに塗装がし直してある。

 到着するとメンバーがほぼ揃っていて参加者待ち状態であったがここへ来る途中から雨が降り出した。

 私が到着してユニフォームに着替えている頃から早い参加者がポツポツやって来た。その間も雨が一時止んだりしたがまたすぐに降り出すというような状態であったが午後からはずっと降り続くことになる。

 当初の応募者数は53名と言うことだったがこの雨でキャンセルする人が出ることは最近の例でみると間違いない。

 ということで出発予定時刻の10分前に18名になったので1班は出発することにして先ずは私とIさんの1班が出発することになった。

 一路、西の方向へ歩いて行くが、しばらく高級住宅街を歩いて行くと台地を降りる坂を下ることになる。

 この坂道は結構急なしかも曲がりくねった道でこの辺りを歩いていない参加者はこんな坂があるなんて全然知らなかったという声が聴こえてくる。

 降り切ったところにも路面電車が走っているが、先ほどの駅舎があった路線とは違うが経営は同じ会社で、もともとこちらの方が本線だったが今は集合した駅舎がある路線の方が利用者が多くなったということである。

 その折切ったところから南に折れて、また東南の方へすぐ折れ曲がる道に入る。

 その道をさらに行くと坂道を登る訳だが、わざわざこの道に入ったのは大企業の創業者が居住していた広い敷地の邸宅があった場所だが今は小学校にになっている。俗にその創業者の苗字が付く坂道の名前が付いていて敷石がキレイに並んだ急な坂道となっている。

 その企業の創業者の邸宅があった関係で敷石も周りの道と全然違ったものとなっている。

 坂道を登り切って東西に延びる大きな道を横断していよいよ当区に入る。

 そのまま南下して途中から西に折れて出て来たところに当市に於いてほぼ完全な形のゆ前方後円墳が目の前に現れる。

 当市にもいくつか古墳があるが前方後円墳でほぼ完全に残っているのはこの古墳だけであるが、被葬者は誰か特定されていなくて昭和30年頃に調査された際に土器や埴輪の破片などが見つかったぐらいでそれら発掘されたものの特徴から4世紀初めのものであると推定されている。

 古墳は普段閉鎖されているが、この時は予め許可を得て入口の扉のカギを借りているので1班全員のメンバー20名ほどが登る。

 そこでも説明をした後、古墳を降り、回り込むようにして西へ下りて行くが、降り切る手前に崖があり、その崖は海喰崖(氷河期が終わって海面が上がり打ち寄せる波で削られた崖)で表土が見えている場所である。

 そこは今では小学校の東端の崖となっているが江戸末期には出没する外国の艦船を見張る陣屋があったところである。

 そこから回り込んで南へと下って行くが、その学校の前を通って行くが、古代は海がすぐ前にあった訳だが今は退席した土砂などで海ははるか4,5km先まで遠のいているが江戸時代頃はすぐ前に街道があってその先は浜になっているという状態であることが、先述したパノラマ状の絵図でよく分かる。

 すなわち有名な神社を中心にして海の方から東を見た状態の絵が南北に繋がっている状態がパノラマ絵図n
以描かれている訳である。

 その絵図を見ると神社の前辺りには人家が道の両側にあるものの少し離れると松林がずっと広がっていてその中心部に神社が描かれその北側に神宮寺、ずっと北の方には先程我々が登った古墳が丸い禿山で小さく遠目に描かれている。

 この図で参加者に当時のイメージを思い描いて貰いながら説明をしたのである程度昔の様子がお分かりいただけたのではないかと思う。

 そうして神社の中には入らずにグルッと回り込むようにして昔の入江を形成していた、或いはラグーンであっただろう場所、などを地形の様子を実際に見て貰いながら歩いて行く。

 最終的には更に南下して白砂青松で有名であった街道筋の地、今は公園になっているが万葉集にも歌われた場所にゴールということで雨の中大変な道行で会ったツアーも終了となり参加者を送り出した後、スタッフが駅構内にある食堂喫茶で反省会を行なう。

明日のツアーの準備と明後日のツアーの下見(10//27の日記)

2017-10-28 22:35:09 | 日記
 昨日はカラッと晴れていたのに今日は曇り状態である。

 昨日は無駄足を踏んでしまっているだけに今日のうちに資料を整理し直して明日に備える必要がある。

 ということでひたすら資料のヤマの中から明日のガイドツアーに適した資料を見付けることに専念する。

 それとは別途明後日回る行程のコースが分かりにくい昔の村の中だった道を歩いておかないと参加者を伴って違った道を歩く訳にはいかないからである。

 ということで明日の資料をある程度準備出来たので午後3時ごろから自宅の前近くからコースに乗って歩いて行く。

 というのも明後日のコースは自宅がある最寄りのJR駅がスタート地点でそこから自宅の近くにあるお寺の壁に説明板が取り付けてあるからである。

 その後、自宅がある場所は昔の村中にあって鎮守様も少し離れたところにあるが、その神社も案内するポイントになっているのでそちらに向かう。

 この地域は特に南北朝時代から戦国時代にかけて幾多の戦いの場所でもあったし、防犯対策にもなる環濠で囲われていた訳である。

 私が住んでいる地域だけでなく、近在の村々があった地域でも同様に環濠で村を覆っていたのである。

 そこから一路東に向けて歩くツアーとなる訳だが、大きな公園の一角にある寺院やスポーツ施設の傍を通って、南下したところの平坦な場所にアパートを建設する工事で土器が発掘された遺跡を経由してまた一路東に歩いて行くと大正時代までは別の村だった地域にやって来る。

 そこもやはり環濠で囲まれた村だった場所で、その西北には戦国時代に織田信長に攻め落とされたとされる城があったとされている。

 しかし、今ではその痕跡さえ残っていないが旧字名には「〇〇城」という所があるのである。

 そこにも神社が当然ある訳だが、そのすぐ東は旧国名の時代には国境だったし、今でも区境となっている。

 また南には別の村との村境があり、江戸時代には別々の藩に支配されていた地域となっている。

 ところで最近は北朝鮮が以前のように挑発してミサイルを打ちこんだりしなくなって温順になったかのようだが、裏でアメリカと秘密裏に接触してある程度納得できる合意が出来たのだろうかとも思える。

 いやいや、そうではなく水爆の実験をしようとして準備しているのじゃないかとか、色んな憶測が流れているがなにはともあれうまく解決出来るようにして貰いたいものであるが、北朝鮮としてはアメリカが核兵器保有国として認めなければ廃棄する気持ちはないだろうし、アメリカは北朝鮮が核の廃棄をしなければ交渉に応じないだろう。

 となると結局はどうしても戦争と言うことになるのだろうか。

 戦いが始まってしまえば日本は隣の火事だと見ておれる立場じゃないから直接手出しをしなくてもアメリカの艦船を護ることになるだろう。

 北朝鮮はそんな日本を見過ごすことはないだろうから核攻撃になるか、通常のミサイル攻撃になるかは別として必ず戦闘状態になるだろう。

 日本国民の多くは戦争なんか起こりっこないなんて思っているフシがあるがそれだけ平和ボケしているとしか言いようがない。

 

西隣区K小学校木曜ダンス教室H29年10月④

2017-10-26 23:38:25 | 日記
 今日は今までとは違ってカラッと晴れたいい天気になったので早速洗濯をすることになった。

 ずっと雨が降ったり、ツアーガイドなどで自宅にいなかったりなど外出することも多かったために出来なかったからである。

 久しぶりに洗濯が出来た訳だが洗濯機に満杯になって辛うじて洗濯槽の中の洗濯物が回っているという感じである。

 今日は土・日と連日のツアーガイドに備えて1人下見をしておいた方がいいのじゃないかと言うことで昼前にどこかで昼食を摂るか、いつもの北方面のスーパーから10分程歩いたところがスタート地点なので弁当でも買って土曜に行なう「谷巡り②」のスタート地点にある路面電車の駅舎で食べてからコースを歩いてみることにした。

 洗濯物を干し終えたころに電話が鳴ったので出ると高大の曜日部長からで「スポーツ交流会の日の講座実施報告書が出ていないのでファックスでもなんでもいいの出だして下さい」ということだった。

 そう言えば出してなかったのでどうするか、ファックスはないし…」と思ったがどうせ土曜日のツアーガイドの下見をするのだから高大に行って出してからその足でツアーの集合地点に行ってそこから歩けばいいやということで自宅の近くの牛めし屋で食べてから高大に向かう。

 木曜日の昼間で余り地下鉄に乗ったことはない時間帯だが電車も割と空いている。

 高大にやって来て早速事務所に上がり講座実施報告書を書いて提出したが、その時その用紙の予備も数枚入れておこうとガイド用のファイルブックの中に入れたまでは良かったが、その後が悪かった。

 というのは後で記述するが高大を辞してからツアーの出発点である路面電車の駅まで地下鉄とバスを乗り継ぎ、そこ迄歩いて行った。高大を出てから40分ぐらいは経っていたが、駅舎の中でベンチ席に座ってツアーの資料を取り出そうとしたらないのである。

 アレ、高大では取り出したが、それ以外にどこかで出したっけと自分の行動を振り返るが、どう考えても高大に忘れて来たとしか思えない。

 トンボ返りで元来た道を逆に動いて、もしも高大になかったらどうしようなんてことも頭をよぎったがイヤイヤ、ここしかない筈だと思いながら事務所に戻ってみるとアッターッ、ヤレヤレである。

 何でディバッグに入れてなかったんだろうと思い返したが入れたと思ったのが入ってなかったということで今更ながらボケの始まりかと思った次第である。

 歳はとりたくないものですネ。

 戻って来たら時刻も3時近くになっているし今から再度スタート地点にもどって歩いていたらかなり時刻も遅くなるから今日は真っ直ぐ自宅に帰ってコースは大体頭に入っているから帰って明後日のコースを頭に入れることにした。

 自宅に戻って案内ポイントの有用な資料を捜すためにツンドク状態の資料のヤマを取り崩して1つ1つ見て行くがそのうち夕方となりダンスレッスンに向かうこととなった。