と嘆いているのは、少なくとも、僕ではありませんが。
このところ、よくお会いする御仁で。
八ヶ岳にもご一緒した方なんだけど。
夕べ、わが社でのミーティングの時、忘れないように、とご自分にメールを打っていた。
メールしたこと、忘れないでね、と軽口を言いつつ。
この、忘れないでいる、という有用性と無用性と害毒と、なんてところに。
わが脳内の小人の一人が連れて行くんだね。
つまり、覚えていることってのは、いいことなのか、よくないことなのか、くらいか。
男性優位と言われがちな、この社会ってやつの中を、スイスイとお得感満載にして渡り歩くには。
記憶力がいいことは、それなりに便利だったり、能力あるね、くらいの褒めそやし。
にはもってこいかも、だけど。
どうなんだろうね。
昨日のエントリーにかぶるけど、全身全霊からのイベントとの遭遇、なんてことを、設定してみると。
忘れる、ってのは、一つ一つのことに上の空で対応している、とも言えて。
なんで、こんな大事なこと、忘れちゃったの、くらいの詰り、ってのは。
艶歌の世界ではありそうだし、覚えてくれていたの、嬉しい、なんてのも、ありそうだね。
もっとも、解釈の仕方を変えてみると、それぞれにそれぞれのストーリーの束を抱えていて。
束、というのか、層、なんて言葉を使えば、つまり、レイヤ、だね。
多次元の、なんて言い方が続きやすいけれど。
違う次元同志のすれ違い、とでも言えるか。
ちょっと、朝からめんどくさい話になってきたから、閑話休題。
今日は、新型のプリウス入荷、ってイベントがある、納車、だね。
どこも悪くないのに、変えちゃう、ってのは、まったく、大トヨタの策略に乗せられ、なんてことか。
言葉にすれば、こんな言い方になっちゃうけど、実のところは、流れのままに、くらいの調子でもあり。
なまじ、足りない脳みそを使ってもね、足りないというのは、3%くらいしか、使ってない。
なんて言い方、というのか、言説、というのか、研究、あるでしょ。
アインシュタインでも8%くらいしか使ってない、というオチのつくところが、ミソでもあるけれど。
そうだ、昨日は、ごく最近、洗礼を受けた、というご婦人が、婿殿の嫁さんと来社され。
キリスト教とくれば、わが秘伝の宝刀、花ちゃんの出番でしょ。
ってことで、早速、電話を入れ、かくかくしかじか、こんなん方がいらっしゃって、電話行くかも、とね。
聖書読みにかけては、彼の右に出るものはいない、左にはあまたいる、くらいの。
彼と話をして。
どうやら、近日中に、3人でお茶する、ような展開になりつつある。
くだんの御仁には、いつぞやの弊社3階での、伊勢の御仁お話会、ってのにもお呼びして。
クリスチャン、とは相入れない、ようなスピ系の話を、半ば、無理くり、聞かせちゃった。
なんてこともあったので、どうかな、電話出るかな、なんて危惧もしていたんだけど。
そこはそれ、田舎に住む聖人たる花ちゃんだった。
なんのこだわりもなく、の電話応対は、さすが、器の大きさを確認できて、良かったよ。
なんて、昨日の徒然なる話を書いていると、時間は、過ぎ去るので、リアルな。
今日に舞い戻り、いのち全開の一日とすることにします。