夕べは、お米がなかったので、東海軒の鯛飯を買っといたから。
というので。
母親が、表題の言葉を繰り返し。
満面の笑みを浮かべ、ガツガツというほどに食べていたのが印象的で。
それこそ、イベントの記憶機能を持った感情というやつ、全開の場面だった。
それに畳み掛けるように、カレンダーの5日、を指し示し、ハンドル操作の真似をした。
つまり、おじおば会と銘打ち、どこかへ出かけるよ、というサインを送ったわけだ。
ここでも、感情を刺激し、喜怒哀楽のうちの、喜、の部分だね。
もっとも、せっかく、感情の四態があるんだから、時には、哀しい、哀切の、哀、でもいいし。
怒、でもいいんだよね。
どのみち、原初からのエネルギーの、一つの姿としての感情、それが表面のフィルターを通すと。
ある時は、喜、ある時は、怒、ある時は、哀、ある時は、楽、ということなんだろうな、という解釈なんで。
まるで、多羅尾伴内みたいな。
それが、命の、生きてる証拠でもあり。
なんて、男性性を全開にしたリクツなんてのは、どうでもいいんだけどね。
でないと、女性活躍社会に出遅れちまう、って次第で。
社会、なんてもの、どう見ても、左脳優位な、って勝手に解釈してますが、男性性由来のものに見えるからね。
ガシャっと、バシャっと、一気呵成とでもいうか、右脳的に、捉えるというのが、女性性由来かね。
もっとも、女性が、女性の時代が、次なる労働力として女性と高齢者が、なんて騒々しいけど。
うかうかしてると、男性性丸出しの女性、ってのが、いかにも有用な、有為な、有能な、あと何、とにかく。
社会への強制的な順応、なんて、まるで強制収容所へ送られる捕虜、みたいな加減にもなっちゃいそうだけど。
世の女性陣も、甘い言葉にはご用心を、ってわけだ。
そうだ、昨日の続きだけど、深山で修行する、まるで役行者みたいな方が、わがハイヤーセルフ。
だそうで。
であれば、現代風な修験者になろう、と、上記、母親との夕餉の後、独り、思っていた。
ノートに書き込んだ。
現代といえば、何か。
って、わかりやすいのが、お金かな。
お金に絡まる、様々な、それこそ、喜怒哀楽ね、そこへ身を沈める。
まるで、苦界へ身を沈める、身を売られた女郎、みたいな感じだけど。
そこを掘る。
その掘り方を通して、生命の真髄に至る、とでも書けるか。
それも、ありだな。
って、とうの昔から、そんなことを強いられてきてもいて、そのことを受け止めてなかっただけかも。
なんて気にもなるな。
スルー、ってやつね、あるいは、ダチョウが敵に追いかけられ、もうだめだ、と観念したときに。
頭を砂に突っ込む姿、かな。
超格差がある、1%の人たちが何十%だかの富を独占してる、とかなんとか、そんなタグが踊るけれど。
だから、お金は、とか、通貨ってやつは、まったく、悪魔のようなもので、人間の情欲を掻き立て。
とんでもないことだ、それにもかかわらず、私は清廉潔白に生きてますよ、みたいなところへ落とし込むんでなく、ってわけだ。
昔風の仙人修行、卒業、ってとこだな。
ドラゴンボールの亀仙人だっけ、地上の妖艶な、か、若々しいか、ビキニかなんかの女性に魅入られ、雲の上から。
落ちちゃったでしょ、たしか。
そのくらいの、ホントの意味での生真面目さがね、倫理道徳に汚されない、うわべの真面目さでなく、ってことも含め。
真髄を求める、いや、求めない、って、加島祥三さんは、おっしゃっていたか。
いずれにせよ、現代風の修行にチャレンジ、って絵姿。
求めよ、さらば与えられん、とイエスはおっしゃったけど、あれ、実は、とてもとても深くて。
字義通り、文字通り、自分の幼少期から周囲に教えられたままに解釈しちゃうと、真逆なポジションに行っちゃう。
ってこと、知ってましたか?
求めよ、そう、わかる、しかし、求めるのをやめたとき、諦めたとき、明らめたとき、訪れる。
井上陽水が歌ってたよね、探すのをやめたとき見つかることはよくある話で、って。
あれだね。
つまり、こじつけっぽいけど、思いもよらない、棚からぼたもち、ってわけだ。
なんだか、教訓話みたいになっちゃったけど、さて、今日に出かけるとしますか。