紫紺のやかた

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つぶやき ② 酒は百薬の長

2022-01-26 14:09:00 | つぶやき
  徒然なるままに~とでも言おうか
 最近私は自身あまり飲めないお酒であるがビールを少々夕食前に頂くことを始めた。酒は百薬の長とでも言われている「お酒」(適量のお酒はどんな良薬にも勝る)また(徒然草1331頃一七五「百薬の長とは言えど、万の病は酒よりこそ起これり」)とある。夕食が食膳に出そろう迄の間、日替わり肴を相手にTVを見ながら、グイ~といぱいやって待つのが夕方の楽しみなのだ。その時相手をしてくれるTVはBS/TBSで毎週月曜日21:00~22:00放映されている
「吉田 類」さんの《酒場放浪記》である
 酒場という聖地へ
 酒を求め
 肴を求めさまよう   がキャッチフレーズ 
 不在の時は毎週録画をしておいてそれを開いて見ている。この放送は連続放送1054回を数えている人気番組でもある。先ずはJR・私鉄の都内駅前にある類さんの選んだ「大衆酒場」が舞台となる。僅か15分程の4話が放映されている。酒豪の類さんは言うまでもないが、その酒場で調達された数々の銘酒の日本酒に挑戦する。尚、その酒場で工夫された得意な多くの酒の肴がこの番組の主役でもある。我々見る方も、そのありとあらゆる肴の種類の豊富さに興味が増してくるのだ。ここで気になるのが「肴に銘酒を合わせて飲む」が頻繁に出てくる。見ているうちに美味しそうな味や匂いがして来る様な錯覚さえ覚えるのである。新型コロナ禍のまん延防止が出ている状況下、せめても家でTVで雰囲気を味わうことが出来れば幸せと感じる。
 尚、その番組の前座を務めている5分間くらいの駅前付近の名物を紹介していて興味深い面がある。最近、全体的な趣向として類さんの出身地:高知県の酒場放浪記・遥か北の大地北海道:札幌の酒場巡り・類さんの趣味:低名山巡り等が放映されている。その飲みっぷり、食べっぷり、その他店主との会話、お客とのジョークを交えたやり取り、そして退出後門前で得意の「川柳」で感想を詩って、その酒場を後にするのが最後の極めつけとなっている。
15分に区切って1話ずつ録画を見ることもできる。私にとって癒しの夕方のひと時である。                          
                                                                                                                  (ysa)


つぶやき

2021-11-22 18:45:26 | つぶやき
 痛い痛い病も相変らず持続している。さて、暇に任せて投稿してみた。
 
 昔、カメラを片手に写真撮影に歩いていた頃、ある人からこんなことを言われたことがある。「神社仏閣避けてでも通れ!」とその時どういう意味で言われたかは記憶に定かでない。この言葉は今でも私の脳裏に焼き付いて離れない。この意味合いをかみ締めながら今日に至っている。良くも悪くも受け取れる言葉である。神社仏閣はとにかくこの日本では長い歴史を経て現存している。起源はともあれ仏閣も神社も(神も仏も)信仰の対象として扱われてきた。その風情からして霊験新たかである。しかし外国の例からしたら日本人は信仰心が薄いと言われているそうだ。本来は最終時の特別な時以外は意識されず現世利益目的、又観光目的として存在感を示している。確かに神社仏閣の前に来ると何となく心ろ引き締まる思いが胸に宿る。そこには何らかの縁(えにし)が働いているのだろうか?この縁は昔から老若無尽お参りし祈った数知れない溢れんばかりの願いの蓄積があるのだろうか。その信者の目に見えない縁が蔓延しているに違いない。表沙汰には意識されず、(現世この言葉を少し解釈すると)境内を通っただけで何らかの解らない縁に触れることになるのだろうか?
 何某かのお賽銭を賽銭箱に入れ手を合わせ一礼することで自己解放感を味わうこととする。神社仏閣には素敵なカメラアングルが沢山ある。私は以来この「避ける」という意味をかみ締めながら写真撮影のアングルに程々に接することになった。(ysa)


漂泊

2021-03-01 12:00:00 | つぶやき
 部屋に閉じこもりの日が多く、ある日の午後いつものように月刊誌に目を通していたら、「漂泊」と題してエッセイが出筆されていたのに目がとまった。なんだか男の人生を突いたような内容なのでご披露した。この文を読んだ時、少なくとも触れるものが自分にあるのを覚えた。

 【漂泊】
 〇〇は多分心のどこかで、流離漂泊の人生にあこがれている。
 投げ出すことのできない日々を背負い、
 世間という海で絶えず溺れそうになっているからこそ
 心のどこかでそれを捨て去り、
 この身一つを大空にさらし歩いてゆく生き様に、
 ひっそりと憧れ続けている。
 捨て去ることのできない自分がいるからこそ、
 旅に生き旅に死んだ先人達の姿を追ってしまう。
 彼らは一体その地平で何を見たのか。
 世間という鎖を旅の風ではずした先で、
 何を得て、何を失い、何を残していったのか。

(上文で〇〇とあるのは 我々と記してあった。)
                         (ysa)

野暮

2021-02-12 21:38:32 | つぶやき
今日 2月12日は 旧正月(旧暦1月1日)である。
新暦と旧暦の由来
新暦:地球が太陽を回る周期を基準にしている。
旧暦:月の満ち欠けを基準にしている。(月の別名がある。)
   1月「睦月」・2月「如月」等・・・という。

表題に戻る。

「野暮は揉まれていきとなる。」
 生まれもった野暮だろうと、
 ためらい、ぶつかり、くじけ、
 それでも挑み、
 本物は、いきとなる。

この言葉はある月刊誌に掲載された木造家屋の宣伝文である。木造家屋デーラーの創作理念であり、多くの人々に木造家屋を広めたいと言う文章であるが、人生に通じるものがあり、実にうまく書かれていると感動した。
ここに「野暮」と書いてある。この反対語は「粋」であるが、ここの「いき」とは何だろうと私の心を動かした。
【野暮】とは
 融通のきかない・精錬されていない・無風流な
【本物】とは
 にせもの・まねごと・作り物でないもの 本当のもの
【いき】とは
 意気地・意気込み・生意気・生き・粋

野暮の気質を持つ「人」「もの」であっても、型にはまらず考え、行動して行けば、様々なものにぶつかり傷つき、試練を受けるのであろう。
それでも信念をもって立ち向かってゆけば、必ず磨かれ魅力的な個性をもった「人」「もの」に成って行くのだと感じる。

自分はまだ「野暮」の域から脱しきれず、「本物」に向かってさまよっているような気がする。 私の「いき」はまだまだ先だ!
                           (ysa)