CLUB103 (103系電車好きの独り言)

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奥が深い

2007年10月25日 20時54分08秒 | 雑談
鉄道運転工学等について知りたいと思った理由は、結局は103系電車を擁護したいとうのがあるわけだが、それを何らかの実例と照らし合わせつつ正当化するのはやっぱり大変だと感じる。

103系の設計段階から鉄道業界では「経済運転」という言葉は既に浸透し、力行率をどうすれば効率的かという研究は進められれていた。
国鉄では101系で変電所容量という壁にぶち当たったことから、首都圏での101系の運行については、かなり神経質になっていく。
その結果として103系が生まれていくのだが、どうも103系誕生が山手線に101系が運転できないからという点だけ強調されているように思える。
だから、103系は山手線向けというようなことが言われてきたのかなとも思う。

そもそも101系自体は1959年11月に6M4T化されて旧形国電なみの性能に落ちた段階で見切りをつけてる。
ただ、同じ轍を二度踏まないために、次期通勤電車については非常に慎重にことを進めたから時間がかかったわけだ。
その間にも毎年輸送力増強用に車両が必要になるので、次期通勤電車が完成するまでは仕方なく101系を継続して製造したと言うだけの話。

実際、鉄道ピクトリアル85年5月の久保田さんの記事によると1960年頃には基礎研究に着手しているようだ。
アウトラインができてきたら、それに最適化された主電動機も必要となってくるわけで、MT55の試作機がいつできたのかは知らないが、1962年早々には諸元も固まり、試作車の設計が開始されているようだ。
実際に試作車が完成するのが1962年度末(1963年3月)で、量産車が1964年度はじめ(1964年5月)だから、各局と調整しながら設計したにしては結構急ピッチな工程だったように思う。

101系に見切りをつけてから5年間、山手線や総武線に大量の101系が新製されてしまった。これらは本来、作りたくて作ったものではなく、仕方なく作ったものだ。
結果的に総武線などは101系であるがために冷房化率が非常に遅れてしまった。

まぁ、これは後年の103系にも言える話なんだけど、103系の場合は一定の要求水準を満たすものであったから後継車が無くても困らなかったが、101系の場合は既に「使えない車」のレッテルを貼られた後の増備なので、この違いもきちんと把握しておく必要はあると思う。
本当に103系が使い物にならないのであれば20年間も増備はしないでしょう。
ま、20年といっても、実際には1981年の福知山線宝塚電化時までなので17年ほどなんですけどね。
後は、福岡地下鉄に入れるにあたって、他の車種で条件に合うのがなかったので103系をベースにしたのと、車両受給の都合でどうしても中間車が必要になって作っただけですから。

奥が深いと思うのは、やっぱりいろんなことが絡んでいるなぁと感じるからかな。
電車を動かすには電気を流さなければならないし・・・
スピードアップへの欲求はいつの時代でもあって、それと省エネのバランスが大事なんだろうけど、よく言われるような高性能の車両を作ろうと思うと省エネに反するんよね。
私鉄と国鉄では根本で考え方が違うだろうし。
そういう点もひもときながらだと、まとめるのって大変だなぁって思う。

そういえば、越後線や和歌山線電化の時に使った架線は、直接架線柱から伸びてるアングルにトロリー線をつけるもので、許容速度は時速85キロだそうだ。
つまり、コスト減のためにそういう電化方法もとったわけで、そういうことをしなきゃならない状態なのに、時速120キロ運転しろとか言うのは、現状に合った提案なのかどうかも良く考えなきゃと思う。
もし、時速120キロ運転をする場合、どの程度の線路改修費用、電車線(架線)の改修費用が必要なのだろうか?
車両もそうだけど、簡単に最高速度を10キロ20キロ上げろと言うが、現状と同じ条件でそれが達成できるのかどうか、まずそれを考えなきゃと思う。

川島本なんてのは、こういうのを全く考えていないんだけど、それなら山手線を片側10車線にしたら良いんだよ。
ここまで書いたら「そんなん無茶や」って言うでしょみんな。
結局、現状の制約を考えずに提案するってのは、私が書いた片側10車線と似たようなことなんだよね。



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