先日、”サントリー美術館”で平等院鳳凰堂平成修理完成記念の”天上の舞 飛天の美”展が開催されているので鑑賞に行ってきました。
その時、『共命鳥』がありました。『共命鳥』???聞きなれぬ名前の鳥。どのような鳥なのか非常に興味が湧いてきましたので調べてみましたのでご紹介します。
『共命鳥』とは?
参考出典サイト:真宗大谷派西念寺
http://www.sainenji.net/tayori06.htm
鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳の『阿弥陀経』に「共命鳥(ぐみょうちょう)」という空想上の鳥が登場します。
人間の顔をした頭が2つで体が1つ、2つの頭が1つの体(命)を共有していることから「共命鳥」と呼ばれるこの鳥は、『阿弥陀経』においては、極楽浄土において白鳥、孔雀、オウム等の種々の美しい鳥と共に一日六回、美しい声で鳴き、仏の教えを説き述べるその声は、聞く者をして皆自然に仏・法・僧の三宝を敬う心を起こさせる、と説かれています。
しかし、『仏本行集経』によれば、昔この鳥は雪山(せっせん・ヒマラヤ)に棲んでおり、2つの頭にはそれぞれカルダ、ウパカルダという名がありました。
ある時、自分の眠っている間にカルダが美味しい果実を食べたのを知ったウパカルダは大変に怒り、妬み、復讐の心を起こし、「今度はカルダが眠っている間に私が果実を食べてやる」と毒の実をそれと知りつつ食べ、ついには両頭とも死んでしまうのです。
カルダは何も美味しい実を独り占めしようと思ったわけではなく、眠っているウパカルダを起こすのが気の毒でもあり、自分が食べることでウパカルダの栄養にもなるからと、善かれと思っての行為だったのですが、結果はまったく逆になったのです。
カルダは釈尊、お釈迦さまの前世であり、ウパカルダは釈尊の従弟であり弟子でありながら釈尊を羨み妬み、憎しみの余りついには殺そうとまでした提婆達多(ダイバダッタ)の前世である、と『仏本行集経』には説かれています。
きわめて近しい関係の者同士が傷つけ合い殺し合う「共命鳥」。それはまさしく「この世」を生きる私たちの姿に他なりません。
しかし、このように敵対関係にある 2つの頭が、極楽浄土では争うこともなく、人を仏法に導くという目的のもと、互いに役割分担しながら共存しているのです。
(ちなみに共命鳥の鳴き声は「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と説いているとも言われます。)
では、「この世」では敵対し合わなければならなかった2つの頭がなぜ「浄土」では共存できるのでしょうか。
『阿弥陀経』には極楽浄土のこれら様々の鳥は、罪の報いとして鳥に生まれたのではなく、みな阿弥陀仏が仏法を説き広めるために姿形を変えて現わされたものである、と説かれています。
共命鳥が殺し合わないで済むのはそこが阿弥陀仏の居られる「浄土」だからではないか、と。 そこが阿弥陀仏が今現在法を説いておられる場所だから、たえず仏の説法を耳にし続けていられる場所だからこそ、共命鳥は互いを認め、尊重し合うことができるのではないでしょうか。
(『大無量寿経』『阿弥陀経』等によれば、「極楽浄土」は住み心地の良い単なるユートピアではなく、理想の「精舎」(しょうじゃ)、仏道修行の場として描かれています。)
仏の教えが共命鳥、つまりは私たちに何を伝えようとしているのか、他でもない自分自身の姿、他によって支えられ生かされていながらそれに気づかず、踏みつけて愧(は)じることのない私たちの在り方です。
以上が、『共命鳥』についての解説でした。私達は、この社会で、日常生活で、『共命鳥』のような出来事に出会いますね。私は、短期な性格で直ぐに怒ってしまうところがあります。ウパカルダのようにならないために、そのような場面では、一呼吸して『共命鳥』の鳴き声、『他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道』を聴くようにします。
この社会で、日常生活で生きている私達は、姿は一体の人間ですが、社会、日常生活という一つの体で生きている『共命鳥』なのです。
その時、『共命鳥』がありました。『共命鳥』???聞きなれぬ名前の鳥。どのような鳥なのか非常に興味が湧いてきましたので調べてみましたのでご紹介します。
『共命鳥』とは?
参考出典サイト:真宗大谷派西念寺
http://www.sainenji.net/tayori06.htm
鳩摩羅什(くまらじゅう)漢訳の『阿弥陀経』に「共命鳥(ぐみょうちょう)」という空想上の鳥が登場します。
人間の顔をした頭が2つで体が1つ、2つの頭が1つの体(命)を共有していることから「共命鳥」と呼ばれるこの鳥は、『阿弥陀経』においては、極楽浄土において白鳥、孔雀、オウム等の種々の美しい鳥と共に一日六回、美しい声で鳴き、仏の教えを説き述べるその声は、聞く者をして皆自然に仏・法・僧の三宝を敬う心を起こさせる、と説かれています。
しかし、『仏本行集経』によれば、昔この鳥は雪山(せっせん・ヒマラヤ)に棲んでおり、2つの頭にはそれぞれカルダ、ウパカルダという名がありました。
ある時、自分の眠っている間にカルダが美味しい果実を食べたのを知ったウパカルダは大変に怒り、妬み、復讐の心を起こし、「今度はカルダが眠っている間に私が果実を食べてやる」と毒の実をそれと知りつつ食べ、ついには両頭とも死んでしまうのです。
カルダは何も美味しい実を独り占めしようと思ったわけではなく、眠っているウパカルダを起こすのが気の毒でもあり、自分が食べることでウパカルダの栄養にもなるからと、善かれと思っての行為だったのですが、結果はまったく逆になったのです。
カルダは釈尊、お釈迦さまの前世であり、ウパカルダは釈尊の従弟であり弟子でありながら釈尊を羨み妬み、憎しみの余りついには殺そうとまでした提婆達多(ダイバダッタ)の前世である、と『仏本行集経』には説かれています。
きわめて近しい関係の者同士が傷つけ合い殺し合う「共命鳥」。それはまさしく「この世」を生きる私たちの姿に他なりません。
しかし、このように敵対関係にある 2つの頭が、極楽浄土では争うこともなく、人を仏法に導くという目的のもと、互いに役割分担しながら共存しているのです。
(ちなみに共命鳥の鳴き声は「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と説いているとも言われます。)
では、「この世」では敵対し合わなければならなかった2つの頭がなぜ「浄土」では共存できるのでしょうか。
『阿弥陀経』には極楽浄土のこれら様々の鳥は、罪の報いとして鳥に生まれたのではなく、みな阿弥陀仏が仏法を説き広めるために姿形を変えて現わされたものである、と説かれています。
共命鳥が殺し合わないで済むのはそこが阿弥陀仏の居られる「浄土」だからではないか、と。 そこが阿弥陀仏が今現在法を説いておられる場所だから、たえず仏の説法を耳にし続けていられる場所だからこそ、共命鳥は互いを認め、尊重し合うことができるのではないでしょうか。
(『大無量寿経』『阿弥陀経』等によれば、「極楽浄土」は住み心地の良い単なるユートピアではなく、理想の「精舎」(しょうじゃ)、仏道修行の場として描かれています。)
仏の教えが共命鳥、つまりは私たちに何を伝えようとしているのか、他でもない自分自身の姿、他によって支えられ生かされていながらそれに気づかず、踏みつけて愧(は)じることのない私たちの在り方です。
以上が、『共命鳥』についての解説でした。私達は、この社会で、日常生活で、『共命鳥』のような出来事に出会いますね。私は、短期な性格で直ぐに怒ってしまうところがあります。ウパカルダのようにならないために、そのような場面では、一呼吸して『共命鳥』の鳴き声、『他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道』を聴くようにします。
この社会で、日常生活で生きている私達は、姿は一体の人間ですが、社会、日常生活という一つの体で生きている『共命鳥』なのです。