ニッキ-通信 ~盲導犬ニッキ-のお母さんより~

盲導犬ニッキ-と私の日常。要援護者・障害者の防災について紹介します。

東日本大震災から 視覚障害者がいかにして生き延びたか

2011年04月28日 | 日記
東日本大震災で視覚障害者がどう生き延びたか

 東日本大震災から49日になる。
おかあさんのメイリングリストに伝えられる視覚障害者の被災字の状況や 現在の避難所での状況 又
被災状況などを掴もうとしても 約 85%の視覚障害者がどうなっているのかわからないと言っている。

 下記の記事は 特別編集された記事だが 出所がどこなのか不明だ。
 その内容を読んでみると 凄まじい状況の中で 一命を取り留めている。
自分がその立場にいたら どんなに怖かった老化と思う。

 ここから転載記事。

盲人たちの「3.11」 闇の中あの大津波からどう逃げたのか

小見出し
1.宮城県東松島市の金子たかしさん
2.岩手県大槌町の上野キエさん
3.岩手県陸前高田市吉田千寿子さん
4.岩手県釜石市小笠原拓生さん
5.盲学校の寄宿舎の部屋「雰囲気変わった」
6.震災前はあらゆる建物から「音」

以下、本文です。

盲人たちの「3.11」 闇の中あの大津波からどう逃げたのか
2011.04.25 AERA
 光も色もない世界で、「津波の恐怖」と、どう対峙したのか。「壊滅した故
郷の街」を
頭の中にどう描くのか。大震災。「音」だけが頼りだった全盲の被災者たちを
、追う。

 宮城県東松島市の金子たかしさん(65)はそのとき、自宅2階にあるデス
クトップの
音声パソコンの前に座っていた。
 目が見えない金子さんのパソコンには、盲人用の音声ソフトが組み込まれて
いる。パソ
コンが発する合成音声で、視覚障害者団体などからのメールの文面をチェック
していた。
 ●波に揉まれながらも白杖離さず
 最初に、小さな揺れを感じた。「これで終わりかな」。少し安心した途端、
激震が来た。
外に逃げなければ。階段の手すりを伝って1階に下りた。盲人に欠かせない白
杖を手探り
した。あれほどの激しい揺れでも家屋に大きな影響はなかったのか、白杖はい
つも置いて
いる玄関わきにあった。それを折りたたみ、右手に持った。そこに不気味な「音」
が迫っ
てきた。
 「ゴゴゴゴ……」と重機が近づくような音がした。同時に海岸に面する南側
の窓ガラス
がガチャーンと割れる音が聞こえた。
 「津波だ!」
 とっさにそう思った。
 一人暮らしの自宅は石巻湾の海岸から直線距離で300メートルほどの場所
にあった。
 「シュー」という音がした。と思うと、一気に海水が胸元までくるのがわか
った。体が
海水ごと山側の方向に押し流された。
 無意識に呼吸をとめた。立ち泳ぎのような姿勢のまま濁流に身を任せた。水
中で音は聞
こえず、ただ、車のガソリンなのか、油のにおいが強かった。
 どのくらいたっただろうか、気がつくと、海水が引いていた。両手両足で四
方を確認す
ると、頭の上にトタンのようなものがあった。手で少しずつかきわけていった。
 修羅場の中でも、なぜか白杖を最後まで握っていた。それを伸ばし、周りを
探った。障
害物が何もなかった。それで残骸の一番上に出られたのがわかった。
 ずぶぬれのまま残骸の上に腰掛け、じっとして体力の消耗を防いだ。やがて
聞き覚えの
ある女性の声がした。
 白杖で残骸をがんがんたたき、「助けてください!」と叫び続けた。
 女性は近所の民生委員だった。彼女に助けられ、近くにあったもともと空き
家の一軒家
に避難した。「とりあえず今夜はここで」と彼女に手を引かれて階段を上がった。
空き家
の1階部分は津波にやられていたが、2階はかろうじて無事だという。
 夜はこの2階で一人で寝た。幸い布団があり、下着一枚で毛布にくるまった
。目が見え
ないことに加え、勝手もわからない家で、ただただ、じっとしているしかなか
った。水も
食料もない。小用を足すときは、手探りで窓を開けて外の階下へ放った。
 熟睡できず、うつらうつらした。余震の度に家全体がギシギシ音を立てた。
それ以外は、
物音一つしない静かな夜だった。
 翌朝、「金子さん、いますかー」という声が、外から聞こえてきた。民生委
員の女性が
自衛隊に連絡してくれていた。
 救出後、避難先で医師に診察してもらうと、肋骨が4本折れていた。激流に
のまれてい
た時、残骸にぶつかり、強く圧迫された。その際に骨折したらしい。
 3月下旬に姉がいる栗原市のアパートに引っ越した。
 30代後半に緑内障を発症した。徐々に視力をなくし7年前に完全に失明した。
 自宅のあった野蒜地区は、800人を超す死者が出た東松島市の中でも津波
被害が最も
大きかった地域だ。地区では300人を超す遺体が見つかっている。金子さん
の知り合い
も隣人を含め10人以上が亡くなった。そうした中で、目の見えない金子さん
が助かった
のはなぜか。
 「失明する前、趣味でスキューバダイビングをしていました。その時に、水
の中では何
をしても無駄だから、水に逆らわず無駄な動きだけはするなと教わりました。
そうした経
験がいきたのかもしれません」

 ●指ちぎれるほど夫の手握り締めて
 岩手県大槌町の上野キエさん(74)も、何度も津波をかぶった。
 「このまま天国さ行くと……」
 青ざめた顔で、振り返る。
 60歳の頃に網膜剥離を患い、光を失った。町の中心部を流れる大槌川沿い
の家で、夫
(74)と2人で暮らしていた。
 遅めの昼ご飯をすませ、持病の高血圧を下げる薬を飲んでいると激震が襲った。
 防災無線が津波の襲来を告げた。それを聞き、夫と家を飛び出した。6年前
に病気で亡
くなった長男の位牌は夫が持ち出してくれた。夫は目が見える。
 夫に手を引かれて高台を走るバイパスまでの階段を上った。
 突然、「ゴー」という轟音が聞こえた。と思うと、耳をふさがれた。後はよ
く覚えてい
ない。
 いま思い返すと、津波をかぶり、何回も浮かんだり沈んだりしたらしい。
 最初は夢の中にいるようだった。どれくらいたったかわからない。「手を放
すなー!」
という夫の声を聞き、我に返った。夢から覚めたような感じだった。
 水面に顔が出た。叫んだ。
 「助けてー」
 何度も流されそうになりながら、夫の手を握り必死に堪えた。指がちぎれそ
うになった。
水がしょっぱかったのを覚えている。
 「お父さんが手を握っていてくれたから助かったんです」


 ●足元が急に冷たく、抗がん剤の袋抱えて
 吉田千寿子さん(74)も、津波に足元をすくわれそうになった。
 自宅は岩手県陸前高田市。美容院を開業していたが、50代半ばで緑内障の
ため視力を
失った。
 そのとき、一人でベッドに横になっていた。激震がきて、コタツの下に潜り
こんだ。
 このまま死んでもいいかな
 --。一瞬、頭をよぎった。去年の8月、大腸がんの手術をしたばかりだった。
2人の
子どものことが頭に浮かんだ。思い直した。手探りで靴を履いた。友達が置き
忘れていっ
た老人用の杖に手が触れた。それを頼りに腰をかがめて、外に出た。
 外は、しーんと静まり返っていた。
 「かよちゃーん」
 向かいに住む一回りほど年下の女友達に助けを求めた。
 彼女に手を引かれ、150メートルほど先の寺へ向かった。
 「津波が来ているから走って!」
 かよちゃんが叫んだ。バリバリというすさまじい音が背後でした。無我夢中
で走った。
 大腸がん手術の際のおなかの傷口が痛み、寺の手前でつまずいた。ひざをす
りむいた。
立ち上がって山門につづく短い石段を上がった。そのとき、急に足元が冷たく
なった。海
水が足首の高さまで押し寄せてきた。
 誰かに手を引かれ、何とか石段を上りきった。
 「みんなの手を借りて、転ばないように走るので精いっぱいでした」
 気がつくと、抗がん剤の入った袋を握り締めていた。

 ●海水が引く音、ギシッギシッと
 岩手県釜石市。親類の家に家族で身を寄せる小笠原拓生さん(43)を訪ねた。
24歳
の頃に徐々に視力を失っていく難病のベーチェット病と診断され、3年後に全
盲になった。
 震災当日は、釜石港から300メートルほど離れた場所にある3階建ての自
宅兼会社の
1階で、やはり音声パソコンを使って仕事をしていた。
 昨年亡くなった父親が創業した清掃会社で、2人の叔父が社長と会長を務め
ていた。
 遠くの方からゴーという地鳴りのような音が響いたと思うと、激しい揺れが
きた。船が
ローリングするような感じだった。
 3階で遊んでいた子どもたちを高台の小学校へ避難させた。30分ほどたっ
たころだろ
うか、携帯電話のワンセグ放送で津波が来ていることを知った。すぐに会社2
階への階段
を上った。
 外で社長の叔父の「きた!」という叫び声が聞こえた。ほぼ同時に爆発音が
聞こえ、下
から風が空砲のように「ぽーん」と襲ってきた。
 「玄関の鉄の引き戸がはじき飛ばされる音だったのかもしれません。後で聞
いたところ、
裏の駐車場に止めていた車が、津波に押されて事務所の中に突っ込んでいたそ
うです」
 屋上に出ると海水のせいで冷気を感じた。「ゴー」という咆哮がやむと、静
寂が包んだ。
 「しーんという静寂。何も聞こえないんです」
 夜はそのまま自宅の3階で寝た。時々、建物がギシギシきしむ音がした。海
水が引いて
いくのか、「ギシッギシッ」という音も耳に入ってきた。
 一緒に逃げのびた叔母(68)に後で聞くと、この「静寂」の夜空には、三
日月が浮か
んでいたという。
 結局津波は2階の半分近くまで達し、1階部分は津波で破壊された。会社の
書類、印鑑、
パソコン……。すべて津波に持っていかれた。そして、2人の叔父と、別の男
性従業員も
津波にのまれて亡くなった。
 目が見えない小笠原さんは2階に退避したのが奏功した。普段から津波がく
れば2階に
逃げようと決めていた。築11年の建物は、多めに鉄筋を使い頑丈に造ってあ
るので、外
に逃げるより安心という気持ちがあったからだという。
 死者・行方不明者2万7千人。未曽有の大地震は、目の不自由な人たちも、
容赦なく襲
った。

 ●盲学校の寄宿舎の部屋「雰囲気変わった」
 厚生労働省によると、身体障害者手帳を持つ視覚障害者は岩手、宮城、福島
の3県で約
1万6500人。その被災状況は今もはっきりしない。助かった人もいるが、
宮城県視覚
障害者福祉協会によれば、安否不明も、宮城県だけで30人ほどいる。大規模
火災にも見
舞われた気仙沼市では亡くなった人もいた。
 3県にはそれぞれ、目の不自由な子どもたちのための視覚支援学校(盲学校
)がある。
 岩手県立盛岡視覚支援学校(盛岡市、生徒数44人)は、地震の当日が卒業
式だった。
 4月に中学3年に進級した日野沢瑛君は、式の後、道路を挟んで隣にある寄
宿舎の部屋
に一人でいた。揺れのため部屋のドアが激しく音を立てた。気持ちが焦ったが
、すぐに教
員が駆けつけ手を引いて外に避難できた。
 「地震が落ち着いて部屋に戻ると、うまく説明できませんが、どこか部屋の
雰囲気が変
わっていました」
 宮城県立視覚支援学校(仙台市、同65人)は海岸線から10キロほど離れ
た青葉区に
ある。校舎に被害はなかったが、自宅が津波で流された生徒が2人いた。
 視覚障害者の中には、生まれつき目が見えない人もいる。そうした人たちは
、あの大津
波や壊滅した街を頭の中でどう描くのだろうか。
 福島県立盲学校(福島市)の水本剛志教諭(33)は言う。
 「私も生まれたときからほとんど目が見えません。だから、『街』そのもの
を頭の中で
描くことはできない。『街』や『海』というのは、大きすぎて触ることができ
ないからで
す。それでも『壊れる』というのは、例えば壊れたおもちゃや模型を触ることで、
ある程
度わかる。『家』も、壁や柱など部分的には触ればわかる。それを大きく広げ
て震災被害
のあった街のイメージを作り上げていくことはできます」

 ●震災前はあらゆる建物から「音」
 国立特別支援教育総合研究所の総括研究員、田中良広さん(視覚障害専門)は、
物体が
どこにあるかを「聴覚」によって知覚することでも一定のイメージができると
いう。
 「建物があればその建物の向こう側からくる音が遮断される。建物のないと
ころは、向
こう側の音が聞こえてくる。そうすると、いつもと違う雰囲気を感じることが
でき、その
建物がなくなったことがわかります」
 目が不自由な人ならではの、「音」への感覚……。
 自宅が津波で破壊された釜石市の中村亮さん(57)は言う。
 「地震の前は、街を歩くと音響信号機の音が聞こえ、レコード店からは音楽
が聞こえま
した。どんな建物からも何らかの音が出ていた。それで、いまこの辺りだとい
うのがわか
りました」
 20歳の時に網膜剥離のために失明した。鍼灸師の資格をとり、30年ほど
前に、故郷
の釜石に鍼灸院を開設した。
 地震は、診察を終えて一息ついている時に襲ってきた。やがて、大津波警報
のサイレン。
近所の人に導かれ、弱視の妹(55)と急ぎ足で逃げた。背後から津波が迫っ
てくる音が
聞こえた。高台から「早く走れー」と叫ぶ声が聞こえた。同じように逃げる何
人かの足音
も聞いた。
 震災後はずっと市内の避難所にいるので、街の様子はわからない。地面は以
前とは凹凸
も激変し、歩くのもままならないだろう。それでも2回、車に乗って町内を移
動した時に、
明らかに以前と違うことを感じた。
 あれほどにぎやかに聞こえていた「音」が消えていた。
 「まったく音がしない街になっていました」
 いま思えば、瓦礫除去の音があったはずなのに、なぜかそれは、聞こえなか
ったという。


以上。
視覚障害者だけでく 車椅子の障害者は車で無ければ逃げられなかったであろうから どうなったか。

避難所では情報不足でしっかりしたケアは望めないままでいると言う。
早く 福祉避難所の設立が望まれる。

 話は