ニッキ-通信 ~盲導犬ニッキ-のお母さんより~

盲導犬ニッキ-と私の日常。要援護者・障害者の防災について紹介します。

美女たちのお見舞いにニッキー大はしゃぎ

2011年04月30日 | 日記
美女 5人の来訪で みんな にこにこ

 今日は おとうさんのお見舞いに5人の美女が駆けつけてくれた。
 ニッキーとおかあさんは皆を迎えるために 玄関先に出て待っていた。 ニッキーのお誕生日には いつも来てくださる仲間だ。
おかあさんはニッキーをわざとやって来る方とは反対側に向けて座らせた。すると ニッキーは 何度も何度も後ろを振り返っている。まだ 近づいてこないのにそうする。
さて 5人が近づいてきたときのニッキーの喜びようはすごかった。熱烈歓迎とはこのことだ。

 美女たちはそれぞれに自分の手作りのものや果物 柏餅などお土産に持ってこられた。

 おとうさんもにこにこと話の輪に加わる。とても元気だ。

 こうしたことがとても嬉しいのだと思う。

 

 話の最後は今の病院のことが話題に上る。近くの拠点病院の診療のまずさを多くが訴えた。
医者は真摯に患者の直ることを願わないと 表面だけの診療になってしまうのだが それが出来ていないらしい。
こんな病院は信頼できない。
では 私たちはどうすれば良いのか。
目の不自由なおかあさんにとっては 近くの病院が色々な面で都合が良いのだ。

 今回のおとうさんの診療の経過を見ていると 人の命がかかっていることを問題にしていないとしか受け取れない。
信頼できない。





甘酒は飲む点滴だそうです。

2011年04月29日 | 日記
甘酒は飲む点滴だそうです

 おとうさんの病気が良くなるようにと Aさんが甘酒を持ってきて下さった。
ご自分で作られた物だ。
材料はご飯と麹。これを60度cに保って一昼夜かけて発酵させるのだとか。

 60度cの温度の維持が難しそう。市販のものは余計な物が入っているので自分で作るのが安心して飲める。

 今日 又 Aさんが冷凍した甘酒を持参して下さった。

 体力アップにとの心遣い。有難いこと。

 今日 おかあさんは足がだるくて困っていたが 早速飲んでみたら なんと すぐにだるさが取れた。まるで 魔法みたい。
効いてみると その成分は多くのぶどう糖と 潤沢なビタミン類やたんぱく質が豊富に存在する優れもの。
江戸時代には夏をすごす為の栄養ドリンクだったそうだ。

 甘酒を飲んで おとうさんの体力が回復してくれるといいな。

ニッキーは今日フロントラインを入れて きた。尿検査はすべての数値をクリアーして 膀胱炎の症状は全て消えていた。
毎日の水分量を増やしたのが良かったのだ。でも 食後のワンの多さにはびっくりするけれど。
1リットルはあるかしら。
1月8日から始まったニッキーの膀胱炎騒ぎ。これで終わりとなるか。終わって欲しいもの。

このところ おとうさんを尋ねて色んな友達が見えるので ニッキーは喜ぶのに忙しい。

甘酒は飲む点滴だそうです これ ほんと。

2011年04月29日 | 日記
甘酒は飲む点滴だそうです

 おとうさんの病気が良くなるようにと Aさんが甘酒を持ってきて下さった。
ご自分で作られた物だ。
材料はご飯と麹。これを60度cに保って一昼夜かけて発酵させるのだとか。

 60度cの温度の維持が難しそう。市販のものは余計な物が入っているので自分で作るのが安心して飲める。

 今日 又 Aさんが冷凍した甘酒を持参して下さった。

 体力アップにとの心遣い。有難いこと。

 今日 おかあさんは足がだるくて困っていたが 早速飲んでみたら なんと すぐにだるさが取れた。まるで 魔法みたい。
効いてみると その成分は多くのぶどう糖と 潤沢なビタミン類やたんぱく質が豊富に存在する優れもの。
江戸時代には夏をすごす為の栄養ドリンクだったそうだ。

 甘酒を飲んで おとうさんの体力が回復してくれるといいな。

ニッキーは今日フロントラインを入れて きた。尿検査はすべての数値をクリアーして 膀胱炎の症状は全て消えていた。
毎日の水分量を増やしたのが良かったのだ。でも 食後のワンの多さにはびっくりするけれど。
1リットルはあるかしら。
1月8日から始まったニッキーの膀胱炎騒ぎ。これで終わりとなるか。終わって欲しいもの。

このところ おとうさんを尋ねて色んな友達が見えるので ニッキーは喜ぶのに忙しい。甘酒は飲む点滴だそうです

 おとうさんの病気が良くなるようにと Aさんが甘酒を持ってきて下さった。
ご自分で作られた物だ。
材料はご飯と麹。これを60度cに保って一昼夜かけて発酵させるのだとか。

 60度cの温度の維持が難しそう。市販のものは余計な物が入っているので自分で作るのが安心して飲める。

 今日 又 Aさんが冷凍した甘酒を持参して下さった。

 体力アップにとの心遣い。有難いこと。

 今日 おかあさんは足がだるくて困っていたが 早速飲んでみたら なんと すぐにだるさが取れた。まるで 魔法みたい。
効いてみると その成分は多くのぶどう糖と 潤沢なビタミン類やたんぱく質が豊富に存在する優れもの。
江戸時代には夏をすごす為の栄養ドリンクだったそうだ。

 甘酒を飲んで おとうさんの体力が回復してくれるといいな。

ニッキーは今日フロントラインを入れて きた。尿検査はすべての数値をクリアーして 膀胱炎の症状は全て消えていた。
毎日の水分量を増やしたのが良かったのだ。でも 食後のワンの多さにはびっくりするけれど。
1リットルはあるかしら。
1月8日から始まったニッキーの膀胱炎騒ぎ。これで終わりとなるか。終わって欲しいもの。

このところ おとうさんを尋ねて色んな友達が見えるので ニッキーは喜ぶのに忙しい。

東日本大震災から 視覚障害者がいかにして生き延びたか

2011年04月28日 | 日記
東日本大震災で視覚障害者がどう生き延びたか

 東日本大震災から49日になる。
おかあさんのメイリングリストに伝えられる視覚障害者の被災字の状況や 現在の避難所での状況 又
被災状況などを掴もうとしても 約 85%の視覚障害者がどうなっているのかわからないと言っている。

 下記の記事は 特別編集された記事だが 出所がどこなのか不明だ。
 その内容を読んでみると 凄まじい状況の中で 一命を取り留めている。
自分がその立場にいたら どんなに怖かった老化と思う。

 ここから転載記事。

盲人たちの「3.11」 闇の中あの大津波からどう逃げたのか

小見出し
1.宮城県東松島市の金子たかしさん
2.岩手県大槌町の上野キエさん
3.岩手県陸前高田市吉田千寿子さん
4.岩手県釜石市小笠原拓生さん
5.盲学校の寄宿舎の部屋「雰囲気変わった」
6.震災前はあらゆる建物から「音」

以下、本文です。

盲人たちの「3.11」 闇の中あの大津波からどう逃げたのか
2011.04.25 AERA
 光も色もない世界で、「津波の恐怖」と、どう対峙したのか。「壊滅した故
郷の街」を
頭の中にどう描くのか。大震災。「音」だけが頼りだった全盲の被災者たちを
、追う。

 宮城県東松島市の金子たかしさん(65)はそのとき、自宅2階にあるデス
クトップの
音声パソコンの前に座っていた。
 目が見えない金子さんのパソコンには、盲人用の音声ソフトが組み込まれて
いる。パソ
コンが発する合成音声で、視覚障害者団体などからのメールの文面をチェック
していた。
 ●波に揉まれながらも白杖離さず
 最初に、小さな揺れを感じた。「これで終わりかな」。少し安心した途端、
激震が来た。
外に逃げなければ。階段の手すりを伝って1階に下りた。盲人に欠かせない白
杖を手探り
した。あれほどの激しい揺れでも家屋に大きな影響はなかったのか、白杖はい
つも置いて
いる玄関わきにあった。それを折りたたみ、右手に持った。そこに不気味な「音」
が迫っ
てきた。
 「ゴゴゴゴ……」と重機が近づくような音がした。同時に海岸に面する南側
の窓ガラス
がガチャーンと割れる音が聞こえた。
 「津波だ!」
 とっさにそう思った。
 一人暮らしの自宅は石巻湾の海岸から直線距離で300メートルほどの場所
にあった。
 「シュー」という音がした。と思うと、一気に海水が胸元までくるのがわか
った。体が
海水ごと山側の方向に押し流された。
 無意識に呼吸をとめた。立ち泳ぎのような姿勢のまま濁流に身を任せた。水
中で音は聞
こえず、ただ、車のガソリンなのか、油のにおいが強かった。
 どのくらいたっただろうか、気がつくと、海水が引いていた。両手両足で四
方を確認す
ると、頭の上にトタンのようなものがあった。手で少しずつかきわけていった。
 修羅場の中でも、なぜか白杖を最後まで握っていた。それを伸ばし、周りを
探った。障
害物が何もなかった。それで残骸の一番上に出られたのがわかった。
 ずぶぬれのまま残骸の上に腰掛け、じっとして体力の消耗を防いだ。やがて
聞き覚えの
ある女性の声がした。
 白杖で残骸をがんがんたたき、「助けてください!」と叫び続けた。
 女性は近所の民生委員だった。彼女に助けられ、近くにあったもともと空き
家の一軒家
に避難した。「とりあえず今夜はここで」と彼女に手を引かれて階段を上がった。
空き家
の1階部分は津波にやられていたが、2階はかろうじて無事だという。
 夜はこの2階で一人で寝た。幸い布団があり、下着一枚で毛布にくるまった
。目が見え
ないことに加え、勝手もわからない家で、ただただ、じっとしているしかなか
った。水も
食料もない。小用を足すときは、手探りで窓を開けて外の階下へ放った。
 熟睡できず、うつらうつらした。余震の度に家全体がギシギシ音を立てた。
それ以外は、
物音一つしない静かな夜だった。
 翌朝、「金子さん、いますかー」という声が、外から聞こえてきた。民生委
員の女性が
自衛隊に連絡してくれていた。
 救出後、避難先で医師に診察してもらうと、肋骨が4本折れていた。激流に
のまれてい
た時、残骸にぶつかり、強く圧迫された。その際に骨折したらしい。
 3月下旬に姉がいる栗原市のアパートに引っ越した。
 30代後半に緑内障を発症した。徐々に視力をなくし7年前に完全に失明した。
 自宅のあった野蒜地区は、800人を超す死者が出た東松島市の中でも津波
被害が最も
大きかった地域だ。地区では300人を超す遺体が見つかっている。金子さん
の知り合い
も隣人を含め10人以上が亡くなった。そうした中で、目の見えない金子さん
が助かった
のはなぜか。
 「失明する前、趣味でスキューバダイビングをしていました。その時に、水
の中では何
をしても無駄だから、水に逆らわず無駄な動きだけはするなと教わりました。
そうした経
験がいきたのかもしれません」

 ●指ちぎれるほど夫の手握り締めて
 岩手県大槌町の上野キエさん(74)も、何度も津波をかぶった。
 「このまま天国さ行くと……」
 青ざめた顔で、振り返る。
 60歳の頃に網膜剥離を患い、光を失った。町の中心部を流れる大槌川沿い
の家で、夫
(74)と2人で暮らしていた。
 遅めの昼ご飯をすませ、持病の高血圧を下げる薬を飲んでいると激震が襲った。
 防災無線が津波の襲来を告げた。それを聞き、夫と家を飛び出した。6年前
に病気で亡
くなった長男の位牌は夫が持ち出してくれた。夫は目が見える。
 夫に手を引かれて高台を走るバイパスまでの階段を上った。
 突然、「ゴー」という轟音が聞こえた。と思うと、耳をふさがれた。後はよ
く覚えてい
ない。
 いま思い返すと、津波をかぶり、何回も浮かんだり沈んだりしたらしい。
 最初は夢の中にいるようだった。どれくらいたったかわからない。「手を放
すなー!」
という夫の声を聞き、我に返った。夢から覚めたような感じだった。
 水面に顔が出た。叫んだ。
 「助けてー」
 何度も流されそうになりながら、夫の手を握り必死に堪えた。指がちぎれそ
うになった。
水がしょっぱかったのを覚えている。
 「お父さんが手を握っていてくれたから助かったんです」


 ●足元が急に冷たく、抗がん剤の袋抱えて
 吉田千寿子さん(74)も、津波に足元をすくわれそうになった。
 自宅は岩手県陸前高田市。美容院を開業していたが、50代半ばで緑内障の
ため視力を
失った。
 そのとき、一人でベッドに横になっていた。激震がきて、コタツの下に潜り
こんだ。
 このまま死んでもいいかな
 --。一瞬、頭をよぎった。去年の8月、大腸がんの手術をしたばかりだった。
2人の
子どものことが頭に浮かんだ。思い直した。手探りで靴を履いた。友達が置き
忘れていっ
た老人用の杖に手が触れた。それを頼りに腰をかがめて、外に出た。
 外は、しーんと静まり返っていた。
 「かよちゃーん」
 向かいに住む一回りほど年下の女友達に助けを求めた。
 彼女に手を引かれ、150メートルほど先の寺へ向かった。
 「津波が来ているから走って!」
 かよちゃんが叫んだ。バリバリというすさまじい音が背後でした。無我夢中
で走った。
 大腸がん手術の際のおなかの傷口が痛み、寺の手前でつまずいた。ひざをす
りむいた。
立ち上がって山門につづく短い石段を上がった。そのとき、急に足元が冷たく
なった。海
水が足首の高さまで押し寄せてきた。
 誰かに手を引かれ、何とか石段を上りきった。
 「みんなの手を借りて、転ばないように走るので精いっぱいでした」
 気がつくと、抗がん剤の入った袋を握り締めていた。

 ●海水が引く音、ギシッギシッと
 岩手県釜石市。親類の家に家族で身を寄せる小笠原拓生さん(43)を訪ねた。
24歳
の頃に徐々に視力を失っていく難病のベーチェット病と診断され、3年後に全
盲になった。
 震災当日は、釜石港から300メートルほど離れた場所にある3階建ての自
宅兼会社の
1階で、やはり音声パソコンを使って仕事をしていた。
 昨年亡くなった父親が創業した清掃会社で、2人の叔父が社長と会長を務め
ていた。
 遠くの方からゴーという地鳴りのような音が響いたと思うと、激しい揺れが
きた。船が
ローリングするような感じだった。
 3階で遊んでいた子どもたちを高台の小学校へ避難させた。30分ほどたっ
たころだろ
うか、携帯電話のワンセグ放送で津波が来ていることを知った。すぐに会社2
階への階段
を上った。
 外で社長の叔父の「きた!」という叫び声が聞こえた。ほぼ同時に爆発音が
聞こえ、下
から風が空砲のように「ぽーん」と襲ってきた。
 「玄関の鉄の引き戸がはじき飛ばされる音だったのかもしれません。後で聞
いたところ、
裏の駐車場に止めていた車が、津波に押されて事務所の中に突っ込んでいたそ
うです」
 屋上に出ると海水のせいで冷気を感じた。「ゴー」という咆哮がやむと、静
寂が包んだ。
 「しーんという静寂。何も聞こえないんです」
 夜はそのまま自宅の3階で寝た。時々、建物がギシギシきしむ音がした。海
水が引いて
いくのか、「ギシッギシッ」という音も耳に入ってきた。
 一緒に逃げのびた叔母(68)に後で聞くと、この「静寂」の夜空には、三
日月が浮か
んでいたという。
 結局津波は2階の半分近くまで達し、1階部分は津波で破壊された。会社の
書類、印鑑、
パソコン……。すべて津波に持っていかれた。そして、2人の叔父と、別の男
性従業員も
津波にのまれて亡くなった。
 目が見えない小笠原さんは2階に退避したのが奏功した。普段から津波がく
れば2階に
逃げようと決めていた。築11年の建物は、多めに鉄筋を使い頑丈に造ってあ
るので、外
に逃げるより安心という気持ちがあったからだという。
 死者・行方不明者2万7千人。未曽有の大地震は、目の不自由な人たちも、
容赦なく襲
った。

 ●盲学校の寄宿舎の部屋「雰囲気変わった」
 厚生労働省によると、身体障害者手帳を持つ視覚障害者は岩手、宮城、福島
の3県で約
1万6500人。その被災状況は今もはっきりしない。助かった人もいるが、
宮城県視覚
障害者福祉協会によれば、安否不明も、宮城県だけで30人ほどいる。大規模
火災にも見
舞われた気仙沼市では亡くなった人もいた。
 3県にはそれぞれ、目の不自由な子どもたちのための視覚支援学校(盲学校
)がある。
 岩手県立盛岡視覚支援学校(盛岡市、生徒数44人)は、地震の当日が卒業
式だった。
 4月に中学3年に進級した日野沢瑛君は、式の後、道路を挟んで隣にある寄
宿舎の部屋
に一人でいた。揺れのため部屋のドアが激しく音を立てた。気持ちが焦ったが
、すぐに教
員が駆けつけ手を引いて外に避難できた。
 「地震が落ち着いて部屋に戻ると、うまく説明できませんが、どこか部屋の
雰囲気が変
わっていました」
 宮城県立視覚支援学校(仙台市、同65人)は海岸線から10キロほど離れ
た青葉区に
ある。校舎に被害はなかったが、自宅が津波で流された生徒が2人いた。
 視覚障害者の中には、生まれつき目が見えない人もいる。そうした人たちは
、あの大津
波や壊滅した街を頭の中でどう描くのだろうか。
 福島県立盲学校(福島市)の水本剛志教諭(33)は言う。
 「私も生まれたときからほとんど目が見えません。だから、『街』そのもの
を頭の中で
描くことはできない。『街』や『海』というのは、大きすぎて触ることができ
ないからで
す。それでも『壊れる』というのは、例えば壊れたおもちゃや模型を触ることで、
ある程
度わかる。『家』も、壁や柱など部分的には触ればわかる。それを大きく広げ
て震災被害
のあった街のイメージを作り上げていくことはできます」

 ●震災前はあらゆる建物から「音」
 国立特別支援教育総合研究所の総括研究員、田中良広さん(視覚障害専門)は、
物体が
どこにあるかを「聴覚」によって知覚することでも一定のイメージができると
いう。
 「建物があればその建物の向こう側からくる音が遮断される。建物のないと
ころは、向
こう側の音が聞こえてくる。そうすると、いつもと違う雰囲気を感じることが
でき、その
建物がなくなったことがわかります」
 目が不自由な人ならではの、「音」への感覚……。
 自宅が津波で破壊された釜石市の中村亮さん(57)は言う。
 「地震の前は、街を歩くと音響信号機の音が聞こえ、レコード店からは音楽
が聞こえま
した。どんな建物からも何らかの音が出ていた。それで、いまこの辺りだとい
うのがわか
りました」
 20歳の時に網膜剥離のために失明した。鍼灸師の資格をとり、30年ほど
前に、故郷
の釜石に鍼灸院を開設した。
 地震は、診察を終えて一息ついている時に襲ってきた。やがて、大津波警報
のサイレン。
近所の人に導かれ、弱視の妹(55)と急ぎ足で逃げた。背後から津波が迫っ
てくる音が
聞こえた。高台から「早く走れー」と叫ぶ声が聞こえた。同じように逃げる何
人かの足音
も聞いた。
 震災後はずっと市内の避難所にいるので、街の様子はわからない。地面は以
前とは凹凸
も激変し、歩くのもままならないだろう。それでも2回、車に乗って町内を移
動した時に、
明らかに以前と違うことを感じた。
 あれほどにぎやかに聞こえていた「音」が消えていた。
 「まったく音がしない街になっていました」
 いま思えば、瓦礫除去の音があったはずなのに、なぜかそれは、聞こえなか
ったという。


以上。
視覚障害者だけでく 車椅子の障害者は車で無ければ逃げられなかったであろうから どうなったか。

避難所では情報不足でしっかりしたケアは望めないままでいると言う。
早く 福祉避難所の設立が望まれる。

 話は

へこたれないおかあさんの強さの秘密

2011年04月26日 | 日記
へこたれないおかあさんの強さはどこから来たの?
おとうさんは連日の検査漬けでちょっと疲れ気味。何故なら ct検査やMRI検査は食事を抜かなければならないからだ。折角 体重が増えてきたのに 又減少するのだから もう検査はしたくないだろう。
まだ 明後日の頚部のmriが残っている。

 これらを資料として5月6日 連休明けに 医者と家族との話し合いが開かれる。

 詳細な検査結果はその時点で説明されるのだが ステージ5とは どの程度のものなのか。

 おとうさんの治療方針は本人が決めることだ。今は 強い治療はしないと言っている。
おかあさんも賛成だ。

 友人の卵巣ガンの最治療を頼まれてしたことがある。彼女は 52歳だった。
新居に移って数年。他にも心を残すことが沢山あったであろう。
彼女はびっくりするほど強かった。がんと闘った。。最終段階では 「ここからが私の修羅場よ」と言って いた。
治療をしていた私にもガンがどんどん大きくなるのが分かった。その時 私は無力だったが 彼女の精神力はものすごく強かった。

 そして雄雄しくと表現したいようなすごさで永久の旅立ちをした。

 その時 おかあさんはどうしたらこんなに強くなれるのだろうかと思った。。
でも 今はそれを理解できる。

それは愛だと思うおかあさん。夫への愛 子供への愛 結婚したばかりの子供への慈しみなどと彼女を取り巻く家族への愛が彼女自身を強くして ガンと闘うだけの力を得たのだろうと思う。

今のおかあさんは逆の立場だけれど こよなく愛する夫であるおとうさんへの優しさが強さになっているのだと思う。

 でも その心の中には いざという時の心の乱れを何とか支えようという自己防衛の面もある。

 今までの人生の中で視覚障害を受容することや仕事でのつまずきなど あったが その度に 自分を励ましながら生きてきたおかあさん。



泣き言は言いたくない。言っても何も生まれてこない。それなら 笑って 気持ちよく毎日を過ごそうと おとうさんとおかあさんは笑顔で今を生きている。
ニッキーがいることの意味は大きい。
みんなかけがえの無い家族だ。

おとうさんとの久しぶりのお散歩 ニッキーは尻尾をブルンブルン

2011年04月24日 | 日記
おとうさんとニッキーのお散歩

 今日は暖かくなった。朝 忙しいおかあさんに代わって おとうさんがニッキーをトイレに連れて行ってくれた。
2ヶ月ぶりくらいだろうか。その後 ニッキーとの歩行を考えていたおとうさんは
「ニッキーと散歩に行って来るよ。」と言って ハーネスを付けて出かけた。
 15分位して戻ってきた。
おとうさんは 明るい声で 「ニッキーは僕のことを気遣ってゆっくりと歩いてくれました。とても良い歩行でした。」と報告。
 おかあさんはニッキーにはおとうさんの病気のことを話しているので 理解
しているのかなあ
というのもおかあさんと歩くときはゆっくりなどということはないものね。

 日中もおとうさんがベッドにいると傍に行って尻尾をバタバタさせたりする。
何か話しかけているようだ。

 こんな風に穏やかな日々が続くといいな。

11年目の浮気の主はだあれ?

2011年04月23日 | 日記
11年目の浮気

 浮気と言っても 人のことではありません。
雀のことです。

 おかあさん達がここに越してきてから 毎年 隣家の軒先に愛の巣を営んでいた雀さんの家族が 今年は来なかったのです。
 小鳥も どこの巣箱を利用するかを あちこち見て選ぶのだそうです。

野鳥である 雀が10年以上も生きるとは思えないので 代々 ここに巣を作ってきた雀たちは どうやって 同じ場所に巣を作り続けたのか とても不思議なのです。
ここで生まれた子供たちのうちのどの子かが 親の巣を利用して北に違いないと思います。

 では どうして今年は来なかったのかを推理してみましょう。

 もっとも考えられるのが 昨年 生まれた雀たちが 全員死んでしまったのではないかと思われます。それに 近年 すずめの家族も少人数なのです。

 しかし 今春  巣を伺っていた雀がいたことは確かなので 選ばれなかったのかも知れません。

 いずれにしても 春の声として 効いていた小雀の独特の泣き声は 春の風物詩でした。

 野鳥をこよなく愛するおかあさんとしてはとても寂しいのです。



 多分 ここで生まれたというDNAが子孫に残るならば 来年の登場も期待できるかも ... と淡い期待を持って来年を待ちましょう。

 さて 今日のおとうさん。大学時代の友人たちに電話攻勢。ご自分のがんを告知しました。

 された方はショックで 急にクラス会みたいになって 我が家にお見舞いに来るそうです。

 毎日 病状を聞いてくれる方もおられ 本人は うれしい事だと 慰められています。

 こんな時の応援メッセージは大きな力をいただける物だと分かりました。
 そう言えば マラソンをしていた頃のおかあさんに 沿道から名前を呼ばれると ぐんと頑張れたことを思い出しました。

 我が家では がんのことはオープンにしています。どうか お友達の皆様 力づけのお電話を頂戴いたしたく お願い申し上げます。

 人好きなニッキーは来客のある度に 大喜びで玄関へすっ飛んで行きます。 

出て欲しくなかった末期ガンの告知

2011年04月22日 | 日記
遂に出た 末期ガンの告知

 今日 訪れた消化器内科での告知内容
 月曜日のCTの検査に 肝臓とすい臓にガンが写っていたとのことで 遣り残しの無いように過ごしてくださいとの話だったとおとうさんは言った。

 ある程度は覚悟していたけれど おかあさんの体はショックで脈に変化あが生じた。

  最近は食事も進み 元気そうになってきたので信じられない。
 しかし もしものための準備だけはしておかなければならない。

今日は病院の帰りに最寄り駅から歩いて帰宅したおとうさん。久しぶりに歩いて気持ちが良かったらしい。日曜日にはニッキーとデートすると言っている。

 検査が終われば化学療法に入るのなら 体力がいるから 少しでも歩いて体力をつけておいて欲しい。

 こんな時も ニッキーの存在が慰めになる。  

アンパンワンになったニッキー

2011年04月21日 | 日記
あんぱんわんになったニッキー

 おとうさんが仕事を休んでいるのである 患者さんがお見舞いにと美味しいパンを持ってきてくれた
そのなかに 季節の桜アンパンがあった。食後のデザートにおとうさんは半分食べて 
残りをおかあさんにと残してくれた。

 それを失敬したのは我が家の娘さん。おかあさんが夕食の後片付けをしていたら お皿がガチャ。

「あれ ニッキー ノウ」と言っても もう遅い。アンパンはニッキーの大きな口の中に納まってししまった。

これはアンパンマンならぬアンパンワンだわ。
ニッキー 口直しに渋茶でもどう?

がんの告知を受けたおとうさん

2011年04月20日 | 日記
がんの告知をされたおとうさん

二日前の4月18日 首のリンパ節からの細胞診の結果が出た。

 細胞診の結果は悪性。がんでステージ 5.

首のリンパ節はどこかにある原発のがんの転移だということだ。

 おかあさんは ずっと様子を見ていて どこかのがんではないかと疑っていたが 

例え夫とはいえ そう簡単に口に出せることではなかったので
「早く 大きな病院で診てもらいなさい。」と言ってきた。

 ところが 頑固に 投薬された胃の薬に頼っていたこともあり 通院していた医師達の見落としもあって 時だけが無意味に過ぎていった

 挙句の果ては 投与された胃潰瘍の薬で胃がやられ 一頃はカステラしか食べられない日が続いた。体重も
一挙に8キロ位落ちて 寝たきりの生活になった。

 おかあさんは 胃潰瘍の薬を止めさせて それから 少し筒食も進み 漸く 2キロの体重が増加した。

 寝たきりの生活から 少し筒脱皮して きた。食事も 量こそ少ないが おかあさんと同じものを食べるようになったので
おかあさんも 急に楽になってきた。
しかし 食事は手を抜けない。週に2回の定期的な外出以外は家にいて おさんどんの毎日だ。

 おとうさんもおかあさんも治療かだから がんでもうろたえることもなく たんたんとして
毎日を送っている。

夫婦もいつかは独りになる。でも まだ 30年早いとおかあさんは思っている。

ニッキーの膀胱炎対策の決め手はコレ

2011年04月17日 | 日記
ニッキーが膀胱炎にならないための対策の決め手は水分量に会った

 ニッキーの膀胱炎だが 二転三転して今は様子を見るということになった。

 そこで おかあさんは盲導犬訓練センターに電話をかけて施設の獣医さんと話をした。
 するとニッキーの健康手帳を見てくれた獣医さんが ニッキーは膀胱炎になりやすいので 一日あたり 1500ccの水分をあげるように指導していたことを教えてくれた。

 水分を沢山とって 暴行内の悪い菌や尿石の結晶を洗い流すのが目的だと話された。


ニッキーとの共同訓練に入ってから 一日の水分量について何の指導もなかったと想う。これはとても大切な情報だ。これを健康がもっとも大切なパートナーとしてユーザーに「託するとき伝えないなんて許せない。

 おかあさんは 何となく 一日辺り 1500ccの水分を与え続けてきたが これは指導されたからではない。何となくだ。
 そこで 今年に入ってから 300cc位減らしてきた。それも 他のユーザーは1500ccも与えていないというりゆうからだった。

 ニッキーにとっては この水分の現象が良くなかったのだ。
うちの子はうちの子として考えなくてはならない
 今回の膀胱炎騒動で日々の水分量がはっきりと分かった。
今後の水分管理で  膀胱炎が出現しないことを祈る。

盲導犬などの補助犬は与える水分の量まで 
個々にユーザーに健康管理上の情報を伝えることが出来る点にある。
ペットの場合とは違う

固体によって 異なるのに 知らされていないと 他のユーザーに左右されたりもする。
さらに 最初の訓練時に聞いておくこととして パピー時代の病気のことだ。おかあさんたちはニッキーが1頭目立ったので そこまで 気がつかなかったが この点も大切な情報なのだ。この点も 訓練中に何の話も出なかった。


ニッキーには可哀想なことになったが おかあさんは勉強をさせてもらった。
ニッキー ありがとう。

専門馬鹿の大病院の医者

2011年04月15日 | 日記
専門馬鹿の大病院の医者

 ニッキーのおとうさんが4月9日に天職と言って精魂を傾けてきた鍼の施術を休業してから 急激に体調が悪化した。
特に 腹部の痛みが増して 食事のとき以外は
床に就いていた。

 内科で処方された痛み止めは全く効かず途方に暮れた。
そこで 紹介状を持っていってかかった耳鼻科へ電話した。
腹部の痛みがひどくて何とかならないものかと...。
その答えは 耳鼻科は腹部のことは知らない。痛いなら今までの病院で診てもらうように。
 今 心配している悪性リンパ腫由来の痛みかも知れないのに 首から下のことは全くかかわらない。
ほんとにこれで医者なのかなと大いに疑問を持った私たち。

さて どうするべえ。おとうさんは窮地に立たされた。
でも 捨てる神あれば拾う神ありだ。

 思いがけない物が効果を発揮して 寝てばかりいる生活から少し脱皮。それは 市販のバファリンだ。
 痛みが和らいだお陰で 食も進みかなり普通の食事が取れるようになって来た。

 すると おかあさんは特別の物を作らなくてもいいので 漸く 時間の余裕も出てきた。ありがたい。

 今まではパソコンに向かう時間すら取れなかったのだから。 要領が悪いこともあるだろうが
看病とか介護は本当に疲れる。代わってくれる人がいない場合は特につらい。

 まあ おかあさんの場合はつらいことは無いけれど これがずっと続くと本当に大変だ。愛情だけではどうにもならないことになるのかも分からない。

 疲れたときのおかあさんはポカ をする。それをニッキーの鼻は見事にキャッチ。
昨日の朝は 余分に作っておいたスクランブルエッグを失敬された。夕方は つい 
置き忘れていた 鶏のささみのいためたものを2本分 胃の中に収めてくれた。
 だから ニッキーはお母さんたちが何を食べているのか良く知っているのだ。ニッキーは女の子だから台所が大好き。
こんなことを訓練士さんが知ったらおかあさんはユーザー落第の烙印を押されるだろう。


天職の休業宣言

2011年04月10日 | 日記
慟哭の決断をしたおとうさん

 今日 ニッキーのおとうさんは遂に仕事の休業宣言をした。
 胃の具合は良くなってきて 食事も頑張って食べられるようになってきた。

 しかし どうも具合が悪く 体調が優れない。
別の病気が潜んでいる。月曜日から 病院で精密検査が始まる

 但し しっかりと食事が摂れないでいると検査も治療も覚束ないことになる。

 今 おかあさんは おとうさんが研究した最新の鍼の治療法を伝授してもらって おとうさんに治療を始めた。
 今まで 自分がやってきたこととは違うので 面倒だが 何とか良くなってもらわないと多くの患者さんを救えない。
勿論 おかあさんやニッキーは最愛のおとうさんが一日も早く良くなって臨床の場で天職としての今の仕事を全うして欲しいと切に願っている。。

 

 外出できないでいるニッキーのいたずらは激しい。今日もどこから持ってきたのかごみをおかあさんのベッドサイドのシルクの絨毯の上に持ち込んだ。
まあ 洗おうと思っていたのでいいかとも思うが
片付けに時間がかかって大変。

ニッキーのはちみつ漬け

2011年04月05日 | 日記
ニッキーのはちみつ漬け

 パソコンの点検やその他 もろもろの多忙さにかまけて
ブログへの書き込みが出来ませんでした。。

 さて 世の中は東日本大震災と福島原発の事故のことばかりでしたが 漸く 各地の桜も咲き始めています。

 でも 今年はいつまでも寒いですね。気象台始まって以来のことだそうで まだコートが手放せません。

 コートと言えば スペインでの生活を思い出します。
スペインの首都 マドリッドも3月はまだまだ寒かったのですが
おかあさんは 下宿のベルナルダさんの忠告を聞かずにクリーニングに出してしまった冬のコート。
出したらものすごく寒くなって大風邪を引きました。
 その時 ベルナルダさんにおかゆを作ってもらったのはいいけれど
器の中に何か浮いているのです。
「ケ エス エスト?」 「これ ナアニ?」と聞いたら
油ですって。栄養が足りないと思って おかゆに油を入れてくれたご親切に おかあさんは脂汗を流したのでした。

 さて 我が屋のニッキー。連日のいたずらに閉口です。
昨日ははちみつのチューブを台所からくわえてきて ふたを外して 全部なめてしまいました。

 その結果 ハウスから自分の手や胸先 はては お尻の方まで はちみつで固まっています。

 おかあさんは もう あきれて怒る元気もありません。

 1時間掛けて 漸く 美人になりました。

 夕飯の量は減らしてあげました。せめて それがおかあさんの報復かな?

ニッキーは熊さんじゃないのだから はちみつはやめましょうね。
さすがに 情けなさそうにしていたけれど ...。