トルコに日本人が見せた 惻隠の情
最近 トルコでは大統領の政治方針に反対する国民の反対運動が起こって 社会問題になっている。
おかあさんも訪れたあの歴史と喧騒の大都会で争っている光景はなんとも厄介な内容をはらんでいる
宗教と政治が絡むと世の中は乱れるようだ。
そんな現代のトルコ共和国(1923年に共和国となった。)がまだオスマン トルコと呼ばれていた 1890年 明治23年に 一隻の木造のフィリゲート艦が652名のトルコ人を載せて 横浜港に横付けした。
船の名前はエルトールル号。
艦長はオスマン パシャ提督。 トルコ皇帝 アブヅルハミト2世から明治天皇への親書をを携えての訪問であった。
明治天皇は3年前に日本の皇族として始めてトルコを親善訪問した小松身やがハミト皇帝に親しく迎えられたことのお礼に大菊花賞を皇帝に送った。その返礼としての使節団であった。
それから数ヵ月後の9月15日に 台風の危険を省みずに出稿したエルドールル号は 翌日の9月16日に 和歌山県串本の 沖合いの紀伊大島付近の岩礁に乗り上げて座礁。沈没した。
その時 提督のオスマン パシャをはじめとして583名が犠牲になったが 残る69名が 大島の磯の岩礁に泳ぎ着いた。
そこには 日本でも古い灯台である樫の崎灯台の明かりを頼りに漆黒の海を必死の思いで泳いだのであった。
その磯 いそは200メートルもある岩場の下にあった。 うらべけんし著 語り継ぎたい美しき日本人の物語 によると たまたま 磯 いその見回りにやってきた若い両氏が 一人の漂着の生存者を見つけたと書いてある。
それからは村人総出で これらのトルコ人 69名を助け 自分達のためにも乏しかった食料を皆が家から持ち出して 彼らを人肌で暖め 食事を提供したそうだ。
それから 島には救護するためのものはないので 神戸に送り 20日後には元気になった69人全員を 日本の軍艦 比叡と金剛の2艘に載せて トルコのイスタンブールまで護送したのだった。
この比叡と金剛には海軍の士官候補生が乗り組み 彼らの本国送還の任に当たらせたのだった。其の中の一人が
坂之上の雲に出てくる秋山真之 あきやまさねゆきが乗船していた。
新聞でこの紀伊大島村民の美談を知った全国の人から弔慰金や義捐金が集められ 新聞記者がそれを同じ船に乗船してトルコに届けた。
それからも明治25年には山田虎二朗という人が 更なる義捐金をトルコまで届けた。
これらのことを新聞で知ったトルコの人たちは 日本人の 惻隠の情 にいたく感動して 長く日本に対する友情を抱くもとになったのがこの事件であった。
この話には まだ 後日談がある。昭和58年 イラン イラク戦争で イランのメハラバード空港に取り残された日本人 215名をトルコ航空機が救助して難を逃れたがこれはトルコの恩返しとして大きく報道された。
そして 串本では このエル ツールル号で犠牲になった583名のトルコ人の慰霊祭が今でも お子なられている。 トルコの記念館もあるらしい。
又 近年にも 沈没した船から遺留品を見つけ トルコに送って意。
ざっと こんな風に明治時代の人が災難に苦しむ人を前にして 人を哀れに思う意味の
惻隠の情 をいかんなく発揮できた理由を 本の著者のうらべ氏はこう書いている
日本には江戸時代から 先頭に立って働いた人に教育的指導者がいたこと 2つ目に 人々は どんな僻地に遭っても 寺子屋などで儒教を学び読み書きが出来たこと 3つ目には
寺子屋より より高度なことを教える私塾があって 人々は教育されていたことをあげている。
おかあさんは 人間には もともと やさしさがあると思う。
そんなこんなで 語り継ぎたい話として 小学校や中学校の教科書にもこの話が載っているとのこと。
本を読んでいたら いつのまにか 目頭が潤んできたおかあさん。
3.11の大震災で世界中から義捐金や励ましが届いた。
しかし 韓国のジャーナリストがあれは 天罰だと書いた。
人は色々だが 大変な思いをしている人を哀れに思って手助けをする人の方が ずっと すてき。
おかあさんも 心して そんな人になろう。