ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

教員としての素性を

2007-05-08 | Weblog
わたくしの、教員としての素性をきちんと知っている人は

わたくしの敬愛するN先生が火曜日に学校にいらっしゃることをご存知かと思います。

というわけで、今年度は突発的に火曜日に呑むことがあります。

だめだめに、酔っています。

第一世代オタクは、

それなりのトシだからね。

仕事が始まってまたもバタバタ

2007-05-07 | Weblog
だから、ご報告していなかった物欲などを。

「悪魔の棲む家 Part.2」
作品的には、まあまあなんだよな、確か。ラッツ一家以前、つまり、もとの惨殺事件を描いた、Part.2じゃなくて、Part.0(ZERO)なんだな。
これをなんと中古価格580円でゲット!
普通もっと高いんだよね!


娘の注文でレンタルしてきたのが「アストロ球団」。
やっぱり何とか君が出ているらしい。

とりあえず3巻まで。

明後日はレンタル安売りの日。

続きを借りるつもり。

……と、まあ、詰まらない記述でした。

「Voyager~日付のない墓標」。もう、見つけることが出来ないかもしれない墓碑銘

2007-05-06 | 映画
「SAYONARA JUPITER」「さよならジュピター

*海外版で見た。DVDを安く買えたのはいいが、日本語と英語の掛け合い部分では、英語を自力で聞き取らなければいけなかったのが、誤算だった。*
*三浦友和の提案で、コンパクトな自動翻訳機があるという設定なのだ。演技うまくないんだから、英語の方がよかったかも?*

特撮は、当時かなり話題になったが、専用のモーション・コントロールカメラの代わりに、国産のロボット・アームを流用して頑張って、それなりに見えるのである。

しかし、どうにもドラマが弱いんだな。

木星軌道衛星ミネルヴァはJS(木星太陽化)計画の要。その計画主任本田英二(三浦友和)と、反JS計画を掲げるジュピター教団のテロリストであるマリア(ディアンヌ・ダンジェリー)がもと恋人であるというドラマが縦糸なので、どうにも筋立てに力強さがないのだ。

回帰数が激減した彗星の秘密を探るため、その巣を目指した井上博士(平田昭彦)と、本田の友人のホジャ・キン。彼らの死が太陽系に急激に迫るブラックホールの存在を教える。その対策に、本田自らがJS計画の改変により木星を爆弾化して、ブラックホールのコースを逸らせることにする。

ジュピター教団の教祖(リーダー)はピーターというシンガー・ソングラーター。かなり怪しげな人物だが、自然と共に生き、自然な死を受け入れようという思想の人物。

彼らの住むビーチを本田が訪れたとき、湾内に極めて危険な人喰い鮫が侵入、子どもの危機を身を挺してジュピターという海豚(イルカ)が救う。ジュピターの死を悼み、ピーターが歌うのが(杉田次郎の歌う)「さよならジュピター」。

*本田の「楽園の外には思いもよらぬ危険がある」みたいな発言も、いかにも「楽園=太陽系」に迫る「危険=ブラックホール」をそのままなぞっていて酷く臭い!*

危険な人喰い鮫と人間を身を挺して守るイルカによって示されるわかりやすい寓意を認めないピーターの側近アニタ(小野みゆき)。マリアを伴ってミネルバにテロを仕掛ける。

結局爆弾化を期して核反応を促進された木星と、そのコントロールを司るミネルバには瀕死の本田とマリアのみが残されるという最後。

木星消滅の影響で軌道の安定を欠いた小惑星に、本田とマリアの墓碑が据えられる……。


まずいまずい、と思いつつも、見ている間はそれなりに楽しんでしまった。ストーリーさえ、あまり重視せずに見ていれば、特撮はそれなりに気分がいい。そういう見方ならば、まだまだ大丈夫な作品だと思う

*ユーミンの「Voyager~日付のない墓標」はいい曲だな。*

*紹介を端折ってしまったのは火星極冠を解かした後から出てくるナスカ絵と、木星の巨大古代宇宙船ジュピター・ゴーストの件。やっぱりストーリーからも浮きすぎ*

*日本語と英語の掛け合いといえば、後に「ガンヘッド」でも採用されていたな。*

*前後の時期にディズニーの「ブラックホール」や、木星が太陽化する「2010年」があるのも因縁だろうか?*

蟲が蠢動して、どうにもおさまらない。

2007-05-05 | 映画


蟲師

原作を知らない。アニメも見ていない。それでもまずまずどういう話かの、把握くらいは出来た。

そういう映画なのである。当然原作やアニメを知っている人はもっと深く理解もするだろうし、わたしとは逆に物足りなくも思うだろう。

オダギリジョーのギンコは、その存在感もなかなかのものだと感じたが、あるいは原作の彼の方が深みがあるのかもしれない。オダギリジョーというと、自分などは「旅する男」として、どこか「クウガ」の雄介を重ねてしまうのだが。背負った宿命の中にも苦境を跳ね除ける明るさが、雄介のように感じられるのであって、多分ギンコというキャラクターの本質とは、本当は違うのだろうな、となんとなく感じる。

冒頭の「阿」「吽」が自分の中で谺している少女の話から、蠢く虹=虹蛇という蟲=を探している虹郎(大森南朋)との合流を経て、作品の背景が、闇を電気の灯りが駆逐する前の時代のこととわかる。

蟲というのが「精霊」でもなく「妖怪」でもないというそのニュアンス自体はよくわからないのだが、いずれにせよ機械文明・物質文明の波が駆逐してしまった何かに重なる存在であるということには間違いない。

蟲の素性を伝録として書きとめることで、蟲を封ずる淡幽(蒼井優)の発した奇病が「常闇」という蟲に由来するということから、ギンコの過去へと話が至る。「常闇」の誕生と、その中で生きる盲の魚の姿の蟲「ギンコ」。ギンコの失われた過去と真の名前、ぬいという女蟲師(江角マキコ)との関わりが明かされていく……。

大友克洋の実写といえば「ワールド・アパートメント・ホラー」が頭に浮ぶが、あれは原作もご本人だから、これとは趣も監督としての動機も違うだろう。

それではこちらもこれをきっかけに原作なり、アニメなり見てみようか、とそう思った。

ひとを思わず傷つける作品のタイトル? や~い!ブース、醜女(ブス)! って、駄洒落かい!

2007-05-04 | 映画


ブース」(Booth)

*****************************************************

ラジオ局=共同放送の深夜番組「東京ラブコレクション」。人気パーソナリティ、勝又真吾(佐藤隆太)の名前が被せられる冠(かんむり)番組だ。その日、共同放送の設備調整の都合で、急遽変更になった古いDJブースは、局でも有名ないわくつきのブースだった。そこは、開局当時、アナウンサーが怪死を遂げた場所だったのだ。慣れないブース。古い機材。妙に湿ったヘッドフォン……。不快な予感に苛立つ真吾。生放送が始まる……。

この番組の目玉コーナーは、毎回違うテーマで聴取者から寄せられる電話相談に真吾がコメントするというもの。今回のテーマは“私の許せない一言”だった。第一の相談者は「バケミちゃん」という小学生の少女。好きだった転校生に、告白をしようと待っていたら「見るんじゃねぇよ」と言われたという。真吾は「男として絶対やっちゃいけない。許せないひと言だね」とコメント。その時、突然怪しい女の声が聞こえてくる。薄気味悪い笑い。そしてその声は囁く。「嘘つき」と。

奇怪な女の声は混線なのか? それとも……。ブースは混乱に陥るが、番組を中断することはできない。それ以降の電話相談の内容は、真吾にとってはある種心当たりがあり、自己の悪い行状を暴かれている気分に。

真吾の必死のコメントに「嘘つき」と繰り返す謎の女の正体は……?

*****************************************************


二転三転するオチ、終盤に姿を現す「謎の女」の見せ方など、まずまず、最近の「J-ホラー」の水準作にはなり得ているという気がする。

期待すると拍子抜け。しかし、「プレイ(Pray)」と「絶対恐怖」として同時公開だった小粒作品と割り切ってみれば意外に満足できるのではないだろうか?

リージョン違い盤のこと

2007-05-03 | Weblog


覚え書きである。

海外盤DVD購入に躊躇なさっている方に。

リージョン違いであってもPCで問題なく読み取れるから、リッピングが可能である。言うまでもなくリッピングした段階でリージョン・コードは外せているので……いままでDVDshrinkとか使ったことのある方はわかるよね。

*「自殺サークル」はリージョン1(北米盤)だ。*

ただ、ちょっと失敗だったのは、リージョン0(フリー)だった「SAYONARA JUPITER」。見ましたよ。レビューはちょっと先送りするけれども、結局英語を聞き取らなきゃいけなかったよ。
忘れていました。主要キャストの中に英語で演技する役者さんが何人もいることを。三浦友和のホンダエイジは日本語、もと恋人のマリアは英語、会議シーンでドイツ語喋る人なんか英語字幕が出るからむしろいいくらい。設定上バッヂサイズの自動翻訳機が存在するので。
オールクローズドキャプションならよかったのに。

と、まあ、そういう失敗はありますが、お安いですよ、海外盤!

クライマックスとドラマツルギーにおけるクライシスの正しき一体化ということ

2007-05-02 | 映画


劇場版 名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌《レクイエム》

前に半端なレヴュー予告をしたままだったが、ここで一応まとめて置きたい。

結論から言ってしまえば、劇場版のシリーズとしては期待外れだった。「劇場版10周年記念作品」という成り立ちがそもそもの失敗の引き金を引いているように思う。

劇場版コナンのシリーズはただでさえ、オールスター的要素が期待されており、キャラクターの顔見世的な要素が付きまとっているというのに、10周年記念ということで、それに一層の拍車が掛かり、ある意味内容が薄まってしまったという点は事実として否めまい。

映画のクライマックス(最高潮場面)がドラマツルギー(作劇上)におけるクライシス(危機描写)と遊離してしまったという、致命的な欠陥はやはりこの欲張りの故か。

クライマックスとクライシスの見事な融和は「時計仕掛けの摩天楼」や「天国への力ウントダウン」、また「銀翼の魔術師《マジシャン》」においてその成功が顕著である。

そう考えると成功作品では、コナンという主人公とそのヒロインとの関係においてこのクライシスが巧く機能しているという事実に気が付く。

すなわち「時計仕掛けの摩天楼」と「銀翼の魔術師《マジシャン》」では声の新一と蘭の(いずれも新一の声に導かれて危機を脱する!)、「天国への力ウントダウン」ではコナンと歩美の(コナンを思うときの歩美の鼓動が正確なタイミングを教える!)、その恋心と強い信頼がクライシス忌避のキイになり得ているのが観客によく響くのだ。

思うに「探偵たちの鎮魂歌《レクイエム》」のメインのヒロインは灰原哀ではないか。そしてその魅せ場はいつもの小学1年生とは思えない(もちろんメンタルな実態はコナン=新一以上に大人なのだが)クールビューティーぶりを捨て去り、珍しくも小学1年生らしい「(お腹が痛いという)演技」をする、あの遊園地の救護室場面ではないのか。

ロリ系哀ちゃん映画。そう考えるとヒロインとは無縁なかたちで起こる元太の爆弾騒動は、どうしても付け足しの場面になって、クライマックス不在の映画と感じられる事実は否めまい。

ということで、素直にロリ系哀ちゃんとともに爆死を覚悟する顔見世連、博士や警部たちと同化して、キミと一緒に死のうとシンパシーを催すのが、この映画の見方としては正解なのではないだろうか。