「ダークナイト」はノンストップ・ムービーである。2時間半を超える作品なのに、まるでダレ場なく場面が展開する。実際のところこれは手放しの誉め言葉ではない。
映画にはダレ場が必要だというようなことをマキノ雅広監督が言っているが、つまりはそれは作劇場のメリハリの存在、場面のコントラスト付けのことだと考えられる。「ダークナイト」は言わばクライマックスの連続であり、作劇場のメリハリに乏しいと感じた。
これは、またもや「ジェット・コースター・ムービー」と言われた「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」とは似て非なる出来であるのだ。「インディ・ジョーンズ」にはあるんだな、ほどよいダレ場が。
とはいえ、「バットマン・ビギンズ」の、バットマンの誕生をたんたんと綴った語り口に比べれば、ブルース・ウェイン/バットマンが所与の立場にある点で、前半部の展開などは小気味良い。しかし、それに先駆けてジョーカーの黒い冗談に満ちた狂気が示される冒頭によって、これがまさにM・ナイト=シャマラン監督が「アンブレイカブル」で描いたスーパー・ヴィラン(超悪役)とスーパー・ヒーロー(超英雄)の関係の、本家における再現であると観客は早々に知るのである。
そう、ジョーカーはバットマンを決して殺さない。超英雄がいなければ、ジョーカーもまた超悪役たりえないということを熟知しているからである。しかも、一方のバットマンが超悪役を相手にしても命を奪うことができないということも彼は熟知している。そのことを知りながら、殺せるものなら殺してみろと唆す。殺されて己が命を落とすとともに、超英雄もまたその立場から堕すことになるからである。
そこに「白の騎士」、人々の希望の光を担う人物の話が絡む。この第三の人物は超英雄と超悪役の相互の関係性に水を差す人物なのである。かれはまた、(両表面の)イカサマコインでものごとを決めるという点において、基本となる善人の中に小さな悪人性を潜ませているという人物であって、そういう意味では極めて凡庸な人間でもあるわけだ。その凡庸な人間が、ジョーカーの仕掛けた悪意ある冗談により、しかも本質的には善良な、いわば魔が差した警察官の行為により救われない悲劇に見舞われる。
それにより、彼は善悪の二面性、あるいは運命の二面性を体現した人物へと変わっていくわけであるが、二面性を備えた人間とはそもそも「普通の人間」そのものなのではないだろうか? 彼を悲劇に陥れた人間も、繰り返すが生活人として善良なのであり、「生きるために仕方がなく」不正を働いたのだ。
運命の神には二つの顔があるという。それもまた、善悪の二面性のアナロジーであるのだろう。
こうして三人の人物に善の役割、対極としての悪の役割、そして善悪混在の役割を振り当てて終盤に社会の公僕が担うべき第四の役割を語って物語りは終わる。
すなわち、社会秩序の維持のためには、必ずしも真実ではなくとも社会の欲する善を全うする走狗が必要なのだ。忠実な狗(イヌ)の仕事もまた闇の仕事ではない。
暗く深い暗黒と対峙するのは、闇の騎士(ダークナイト)のみが果たす仕事なのだ、と。
*韓国の旅行中にバス車内でまとめたものです。後日修正するかもしれません。
*本作の題名を見て、映画会社に関係なく、「ウェブスリンガー」とか「シェルヘッド」とかいう続編タイトルが流行ればいいな、などと思っていたのだが、やはりというか、まさにというか、同じ映画会社のものだが、「ビギンズ」に対して「リターンズ」だった“あれ”は、続編タイトルがしっかり「マン・オブ・スチール」になるようですね!
映画にはダレ場が必要だというようなことをマキノ雅広監督が言っているが、つまりはそれは作劇場のメリハリの存在、場面のコントラスト付けのことだと考えられる。「ダークナイト」は言わばクライマックスの連続であり、作劇場のメリハリに乏しいと感じた。
これは、またもや「ジェット・コースター・ムービー」と言われた「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」とは似て非なる出来であるのだ。「インディ・ジョーンズ」にはあるんだな、ほどよいダレ場が。
とはいえ、「バットマン・ビギンズ」の、バットマンの誕生をたんたんと綴った語り口に比べれば、ブルース・ウェイン/バットマンが所与の立場にある点で、前半部の展開などは小気味良い。しかし、それに先駆けてジョーカーの黒い冗談に満ちた狂気が示される冒頭によって、これがまさにM・ナイト=シャマラン監督が「アンブレイカブル」で描いたスーパー・ヴィラン(超悪役)とスーパー・ヒーロー(超英雄)の関係の、本家における再現であると観客は早々に知るのである。
そう、ジョーカーはバットマンを決して殺さない。超英雄がいなければ、ジョーカーもまた超悪役たりえないということを熟知しているからである。しかも、一方のバットマンが超悪役を相手にしても命を奪うことができないということも彼は熟知している。そのことを知りながら、殺せるものなら殺してみろと唆す。殺されて己が命を落とすとともに、超英雄もまたその立場から堕すことになるからである。
そこに「白の騎士」、人々の希望の光を担う人物の話が絡む。この第三の人物は超英雄と超悪役の相互の関係性に水を差す人物なのである。かれはまた、(両表面の)イカサマコインでものごとを決めるという点において、基本となる善人の中に小さな悪人性を潜ませているという人物であって、そういう意味では極めて凡庸な人間でもあるわけだ。その凡庸な人間が、ジョーカーの仕掛けた悪意ある冗談により、しかも本質的には善良な、いわば魔が差した警察官の行為により救われない悲劇に見舞われる。
それにより、彼は善悪の二面性、あるいは運命の二面性を体現した人物へと変わっていくわけであるが、二面性を備えた人間とはそもそも「普通の人間」そのものなのではないだろうか? 彼を悲劇に陥れた人間も、繰り返すが生活人として善良なのであり、「生きるために仕方がなく」不正を働いたのだ。
運命の神には二つの顔があるという。それもまた、善悪の二面性のアナロジーであるのだろう。
こうして三人の人物に善の役割、対極としての悪の役割、そして善悪混在の役割を振り当てて終盤に社会の公僕が担うべき第四の役割を語って物語りは終わる。
すなわち、社会秩序の維持のためには、必ずしも真実ではなくとも社会の欲する善を全うする走狗が必要なのだ。忠実な狗(イヌ)の仕事もまた闇の仕事ではない。
暗く深い暗黒と対峙するのは、闇の騎士(ダークナイト)のみが果たす仕事なのだ、と。
*韓国の旅行中にバス車内でまとめたものです。後日修正するかもしれません。
*本作の題名を見て、映画会社に関係なく、「ウェブスリンガー」とか「シェルヘッド」とかいう続編タイトルが流行ればいいな、などと思っていたのだが、やはりというか、まさにというか、同じ映画会社のものだが、「ビギンズ」に対して「リターンズ」だった“あれ”は、続編タイトルがしっかり「マン・オブ・スチール」になるようですね!
自分の外にある自分の半身。
なくてはならない半身と認めること。
そう、それは恋のようなものでしょうかね。
彼の興味は、純粋にゴッサムシティにカオスを与えることだけのような気がします。
大体バットマンに絡むのも、マフィアとの密約ありきでしょう。まあ市民を凹ましたいがために、執拗にバットマンを転ばせようと画策しているようですけど・・・。
ジョーカーは、自分さえ愉快ならいいという、愉快犯ですね。