ボロディン トリオ:アレンスキー
アントン・アレンスキー
『ウィキペディアより』
富裕層に生まれたために、恵まれた家庭環境の下、幼児期から音楽に取り組むことができた。1879年から作曲をリムスキー=コルサコフに師事し、また対位法とフーガをペテルブルク音楽院で学ぶようになる。1882年に著しく優秀な成績で音楽院を卒業すると、翌1883年にはモスクワ音楽院で作曲法の講師に招請され、1889年には教授に昇進する。在任中にラフマニノフやグレチャニノフなど多くの逸材を輩出しており、後に対立関係に陥ったものの、スクリャービンもアレンスキーに師事していた。
1880年代半ばに、(とりわけ結婚生活の不運が祟って)深刻な精神病を患う。1895年に教職をなげうってサンクトペテルブルク宮廷礼拝堂の楽長に就任し、1901年までピアニスト、指揮者としても幅広く活躍した。その後は豊かな年金を与えられ、公職に就かずに過ごした。最期は結核に命を奪われたが、晩年は飲酒や放蕩(博奕)が暗い影を落としていた。サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院に埋葬されている。
1892年から99年にかけてピアノ曲および「ピアノ三重奏曲第1番」の自作自演を録音しており、CD化もされている(一部は外部リンクで聞ける)。
作風
青年時代のアレンスキーは私の影響から逃れようとはしなかった。その後チャイコフスキーに影響されるようになった。あいつは早晩忘れられるだろう。
— リムスキー=コルサコフの回想から
45年に満たないはかない生涯ではあったが、作曲家としてアレンスキーは2曲の交響曲、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、ピアノ曲、室内楽曲、合唱曲、オペラに至るまで幅広いジャンルで、約250曲もの作品を残している。
アレンスキーは際立った個人様式を発展させることがなかった。さしあたっては恩師リムスキー=コルサコフに、その後はチャイコフスキーに影響されているのは間違いない。そのうえショパンやシューマンの影響も受け入れたので、アレンスキーの作品は、民謡風の旋律の盛んな利用にもかかわらず、同世代の同胞(例えばアレクサンドル・グラズノフやワシーリー・カリーンニコフら)に比べても、特段ロシア的に響くというわけではない。部分的にはフランス的な要素も見出される。概してアレンスキーは早くから、息詰まるような緊張や強烈な葛藤を避け、抒情的な要素に重要な役割を明け渡している。
時折りアレンスキーの作品は、とりわけピアノ曲は、サロン音楽に近付いている。アレンスキーはまたしばしば折衷主義という非難に苛まれてもいた。これらすべての点から、リムスキー=コルサコフは「アレンスキーがすぐに忘れられる」と予言したのだろう。もっとも、アレンスキーの多くの作品は、確かに質の高さを示しているので、徹底的に詳しく調べるに値する。
ピアノトリオ第1番op32
ピアノトリオ第2番op73
初めて聴く曲ですが大変聴きやすく
これと言って特徴もなく
十分カッコ良い曲ですがどのメロディーも耳に残らないのでは?
なじみが薄いからそう思えるのかウィキペディアでコルサコフが発言してる言葉に引っ張られたのか?
そのうち私の中で評価が変わるかもしれない
柿島秀吉